9話「同棲始めました」
会社で、外からの発注をたくさん受けるようになったというのは本当で、僕は最近仕事が忙しい。
本当に忙しくて残業ばかりの職場になってしまい、谷口さんはぐったりしながらも、PCを見つめてメールを処理し続ける。僕も同じように、何百件と溜まったメールから、朝は手を付けた。
うんざりしてくる毎日に、少しでも彼との安らぎがあれば辛くない。そう思っていたのに、その時間すら取れなくて、切ない疲労は溜まっていく。
“会いたいな…それに、会えない間、彼はさみしがらないかな…”
雄一は自社製品を売り込む営業の仕事をしていて、僕は製造業の事務員。立場は違えど、お互いが“忙しい大人”なんだって事くらい、分かっていた。
僕の仕事が相変わらず忙しいままで、一月に一度くらいしか会えない状態が半年ほど続いた二十四歳の秋に、彼はこう言った。
その日、僕たちは久しぶりの逢瀬なのに、僕がくたくたにくたびれていたから、雄一の家のロフトで、僕たちは布団に寝転んでいた。
“今日は無理させないから”と雄一は僕を抱き締めてくれるだけで、僕はその温かい腕に包まれて、すでに夢見心地になっていた。
その時、彼は言ったのだ。
雄一は身動ぎをして、一度咳払いをする。僕が顔を上げると、彼は真面目に見つめ返した。
「俺たち…一緒に住まねえ?」
「へっ…」
僕は、その言葉を聞く心の準備も何も出来てなくて、びっくりしてしまった。
しばらく返事をしなかったけど、願ってもない雄一の一言に、僕は一も二もなく、「いいよ」と言った。
引越しにあたって、僕たちは洗濯機を大きめの物に買い換える事にして、冷蔵庫は雄一が使っていた物で充分と意見が一致した。
僕たちは元々そんなに離れて住んでいた訳ではなく、同じ地下鉄沿線だったので、住む場所は二人とも前とそんなに離れてはいなかった。
でも、雄一が「部屋は広い方がいいよな」と言ったので、少し駅から離れた、賃料もそこそこで済む、2DKのマンションを選んだ。
不動産会社には「友人同士」と関係を説明したし、お金を払えば保証会社に保証人を代理してもらえた。
入居が決まって荷物をまとめていた時、僕は昔読んだ本を見つけた。
「カラマーゾフの兄弟 三巻」
“ああ、この本が始まりだったかも”
高校時代、クラスの誰とも喋らなかった僕が、雄一の暴力を止めようとした時に、読んでいた本。
正義感に溢れ、心優しい登場人物の様子を読んでいて、それに乗っ取られたかのように、雄一に向かって叫んだ。
過去は変えようがないし、きっと今では雄一も悔やんでいる。彼はとても優しい人になれたのだから。
僕は本棚の奥からその本を取り出し、まとめて段ボール箱に詰めた。
「うっひゃ〜。こりゃしばらくは段ボール暮らしだな」
「すぐに全部荷解きは…難しいかも、ね…」
「ていうか、お前これ全部本なの?新しい本棚買わないと入れられなくね?」
「そ、そうかも…うちでも、床に積んでたのとか、あるし…」
僕たちは、山と積まれた段ボール箱に気圧されして、入居初日はコンビニ弁当を食べて眠った。でも、とても嬉しかった。
「ベッド、買う?」
「そうだな」
夜、お互いが持ち寄っていた布団の段ボールだけを開けて、僕たちはまだ何もない寝室で横になっていた。
「それってさ…一つ…?」
彼は僕の方へ体を向けて、笑った。
「嫌か?」
僕も笑って、首を振る。
「全然。一つがいい」
「へへ」
“ああ、どうしよう。どんどん幸せになってっちゃう”
ばちあたりなくらいに嬉しくて、翌日も仕事だというのに、僕たちはなかなか眠らず、買い入れる家電や家具の相談をしていた。
End.
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