2話「君の元に帰りたい」
その日は金曜日で、僕は仕事帰りにいつもの大衆居酒屋に寄って、やっと楽しみを知ったばかりのビールを飲んでいた。
“近ごろは、喫煙者は肩身が狭い”
都内は今じゃどこも禁煙で、僕はいつも狭い隔離部屋のような喫煙所と、テーブル席を行ったり来たりするのだった。
まあそれも人々の健康のためなんだから、文句は言えない。何せ、僕たちが責任なんて取れないんだから、害を与える訳にはいかないんだ。
テーブル席は酒と料理の油で少しべとついて、店内はビカビカと蛍光灯で照らされ、飾りのようにランタン型の照明器具があちこちに下げられていた。
あまり広くないその店はいつも人でいっぱいで、みんな安酒をかっ食らって無駄話をしている。
僕のように、疲れた顔で皺だらけのスーツを着ていた客も居た。
僕は大学生の頃、眼鏡を作った。原因は単純な視力の低下。
この頃は少しまた度が進んだようで、合わない眼鏡を早くなんとかしないといけない。ただ、その時僕は“変だな”と思った。
僕からかなり離れて、店の入り口に近い席に腰掛けていた、サラリーマンらしき客に、見覚えがあったような気がしたのだ。
でも、僕は眼鏡の度が合っていないんだから、たとえ知っている人がそこに座っていたって、顔が判別出来るはずはない。事実、顔はよく分からなかった。
でも、身のこなし、食事のしかた、だらりとした姿勢が、思い出と重なるような。
不意にその男性は、食事が終わったのか立ち上がって、喫煙所と手洗いがある方へ歩き出す。僕は知らない内に立ち上がって、ちょっと迷ってから彼を追いかけた。
“よく、似ていた”
僕は、よく似た人を見つけて、また思い出に傷つけられて席に戻るんだろうと思いながら、本心では祈って、精一杯願っていた。
“どうか、彼であってくれますように”
そんな奇跡みたいな幸運があるはずもないと思いながらも、震える心は彼だけを追いかけた。
喫煙所は磨りガラスになっているので、中の様子は見えない。でも、やっぱり黒いスーツの影が見えた。
からりと戸を開け、僕は彼の前に姿を現す。
僕たちは同時に言葉を失って、二人ともその場に立ち尽くした。
それはやっぱり、雄一だった。
彼は変わらず僕より背が高く、あの頃変えたのと同じように髪は黒色だったけど、伸ばすのはやめたのか、僕と同じくらいの短さだったけど、シルエットが野性的だった。
細身のスーツは彼によく似合っていて、でも、しっかりと筋肉が付いているのを、見透かす事が出来る。そう思った時、僕の体はかっと熱くなった。
雄一は僕から顔を逸らしていたけど、横顔が真っ赤で、彼が今でも照れ屋なのが変わっていない事、そして、僕の事を思い出してくれたのが、嬉しくて嬉しくて、僕は飛び上がって叫びたかった。
でも僕はそうはしないで、なるべく自然に見えるように、何気なくジャケットのポケットからセブンスターの箱と、オレンジ色の百円ライターを取り出す。
彼はそれを見て「え」と声を上げたけど、僕が構わずに火を点けて煙を脇に吐くと、彼は突然笑い出した。
「あはは…」
楽しそうな彼の笑い声は、多分大きな驚きに後押しされたものだったんだろうと、後から思った。
体をよじって素直に笑っていた彼は、やがてこう言う。
「一本ちょうだい」
「ないの?」
「切れた」
「じゃあ、はい」
僕たちは煙草を分け合って、僕がライターの炎をかざすと、彼は頭を下げて火を点けた。
それから二口三口煙を吐いてから、彼の顔は泣きそうにくしゃっと歪み、僕を見つめる。
“コトン”
どこかでそんな音がした。それから、僕の世界がもう一度輝き始める。
「なあ…」
彼は僕に何かを聞きたかったみたいだけど、僕が彼の肩に手を乗せると、言葉の代わりにキスをくれた。
狭くて煙たい空気が僕たちを隠してくれて、僕は泣きながら彼に縋りついた。
「雄一、雄一…」
「稔…」
僕たちはその後で、深夜の喫茶店に店を変えて話をしていた。
「ごめんな、俺、本当にバカだったんだよ」
「僕も、ごめん」
ついに素直にそう言えてからは、彼は元のように僕を優しく見つめてくれていて、僕たちは、今自分がどこで何をしているのかを、話し合った。
「親父の会社の役員が金持って逃げてさ、会社はやってけなくなったから、俺、今じゃ営業マンだよ」
「そうなの?大変だったんだね。ご両親は?大丈夫?」
「ああ、その辺は平気。今は二人とも働かなきゃいけなくなったけど、うちは元々そこそこの貯金あったし、家のローンもそろそろ終わるらしいしな」
「そっか。それなら良かった。残念なことだけど…」
「元役員がどこにトンズラしたのか知んねえけど、見つけたら、ぶん殴るくらいじゃ済まねえぜ」
そう言って彼はセブンスターを吸い込む。その店は個人経営の小さな純喫茶なので、いまだに席に灰皿が置いてあった。
「お前は?どこいんの?今」
「あ、っと…ここから3駅の会社で、“マイホーム”っていうんだけど、建設系の製造業で、そこで事務やってる。家はこの辺だよ」
「事務ぅ〜?相変わらず地味なのな、お前」
そう言って笑う彼は、僕をからかうんじゃなくて、懐かしんでくれているんだと分かっていた。
「だって…あんまりほかにできることなくて…」
「へへ、まあそれでいいんだよ。俺はむしろ、事務なんかやって建物に閉じ込められたら、ストレス溜まってしょうがないぜ」
「まあ、それなりにあるよ、ストレス」
「そっか。でも、頑張れよ。俺たち…」
そう言いかけて、彼は一瞬躊躇い、言い直す。
大事なことを言おうとする時に、彼が見せてくれる本気の顔が、思い悩む表情が、あの頃と変わらなくて、僕は嬉しかった。
「俺たち…また会えたんだ。お前が、嫌じゃなければ…俺…」
怯えながらもそう言ってくれる雄一。
「やり直そうよ、僕たち」
そう言うと彼は驚いて顔を上げ、みるみるうちに泣き出した。
“君も、寂しかったのかもしれない”
一生懸命涙を拭う彼。意外と僕より泣き虫なんだ。
「ごめんな…稔…ほんとに、ごめん…」
「いいんだよ、もう」
「ありがとう…」
帰ろうとしたのはもう夜中の1時だったけど、雄一は自分の家には帰らなかった。
僕がマンションの玄関を開け、彼はちょっと遠慮がちにドアをくぐる。
灯りを点けた時、「けっこうきれいなのな」と彼は言ったけど、僕は何も言わなかった。
鼓動の音が体中を揺らして、期待が高まるまま、止められない体で浴室へ向かう。
僕は支度を済ませて彼の元へ戻り、その晩彼の腕の中へと帰って、必死に甘え、泣きついた。
彼はあの頃よりずっと優しくて、なかなか僕を放してくれなかったから、苦しいくらいだったのに、それが嬉しかった。
Continue.
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