第三話 天野涼
3 『天野涼』
人影を追う真一は、石段を駆け上がり、山頂の手前にまで至っておりました。
サラッと言っておりますが、追いかけている真一、這々の体で御座います。
この真一、体力十分な若人とはとても言えぬ、運動不足の中年でして。
故に何度も途中で諦めようとしました。
ですが、立ち止まるたびに、此方の様子を伺うように人影が視界をちらつく。
その度に、義務感六割負けず嫌い四割。
そんな心情で追っかけ、頂上手前。
近くのベンチに真一は縋るように崩れ落ちました。
「あの…大丈夫ですか…?」
影からの声。
外灯の一つでもつけておくのだったと思いながら声の方に顔を向けます。
「大丈夫だ、この野郎…」
ならよかった、と影は踵を返します。
「待て待て待て、もう勘弁しろ」
岩のように思い体を起こし、真一は影に向かって手を伸ばしましたが、空を切る。
この山と言いますのは、公園のある箇所は勿論整備されていますが、六割ほどは野山と変わりません。
野生動物も居れば危険な場所も多い。
ですので、思わず手を伸ばしたのですが、まあ、普通避けますな。
思わず蹈鞴を踏む真一を尻目に、影の主は更に先に進み出しました。
この先は展望台、更に先には仏舎利塔が。
今一度体にむち打って動き出そうとした真一の目を、闇を切り裂く光が貫きました。
車のヘッドライトです。
「遅いわ!」
そして女の声。
「だらだらだらと。何なの、一体。そんなに追いかけっこが楽しかったのかしら」
カツカツと杖の音が。
「問答する前に首根っこでも捕まえなさいよ。それが出来ないなら、せめて文明人らしく道具ぐらい使いなさいよ。馬鹿じゃないの」
そう言いながら、ヘッドライトを背に仁王立ちする八雲嬢。
その前に、影の主、その後ろに真一という位置関係ですな。
「で、その見慣れた馬鹿もそうなんだけど、そっちの見慣れない阿呆!」
言葉を紡ぎながら、カッと八雲嬢は杖の切っ先を影の主こと天野涼に向けました。
「アンタは一体なんなのよ。こんな夜の山に。別に見たところ装備もないし?何?自殺志願者だったら別のとこでやりなさいよ。管理者にも責任くるじゃないの!ひいては私が迷惑するじゃないの!」
涼、八雲嬢の剣幕に圧倒されております。
これ幸いと、真一は八雲嬢の横へと向かいました。
「おいおい、そこまで言ってやるなよ。子供のしたことじゃないか」
眼を半開きにし、八雲嬢は真一を見据えます。
その視線の意味は、アンタはどっちの味方なのよ、です。
とにもかくにも、少女を保護し、一行は管理事務所へと向かいました。
勿論、車で。
所変わりまして管理事務所。
この管理事務所と言いますのは、名前こそ管理事務所ですが、中身は一軒家と大差ありません。
ただ一階の一角に事務所兼仕事場が御座います。
その横にある居間に涼を座らせ、対面には真一が腰を下ろしていました。
「警察は呼ばないの?」
そう言う涼は、怯えているような、諦めているような。
そんな様子です。
「その前に事情くらい聞いてもよかろう?」
「事情なんて…ありません」
そんな会話をする2人の元に、片手にトレイを持ちながらも器用に杖を突いて、台所から八雲嬢がやって参りました。
「事情も無く夜の公園に、それも山の上の公園に来るかしら。若者に有り余っているのは性欲と時間だけだと思っていたわ」
そう言いながら、八雲嬢はトレイをテーブルに置きました。
トレイの上には珈琲の入ったカップが三つ。
「まあくつろいでくれ」
言うが早いか手が早いか、真一は煙草に火をつけていました。
パチパチと音を立て、ガラムの甘い香りが部屋に広がります。
「…変な匂い」
「臭いわよねぇ。この人、煙草の趣味も悪いのよ。そもそも今時紙巻きっていうのもね」
そう言いながらカップに口をつけますと、八雲嬢はテレビのリモコンに手を伸ばします。
「おいおい、今からこの子の話を聞くんだからテレビはな…」
「別に良いでしょう。話そうが話すまいが警察に突き出すつもりはないんでしょう、貴方」
それまで所在なさげに手元に視線を落としていた涼の眼が八雲嬢に向きました。
「そう言う人なのよ。面倒ごとを背負い込むのが趣味なの。通報するんならテメェで追いかける前にしてるわ」
此処はあくまでも所有地であり、看板に使用可能時刻は記載済み。それを無視・違反していれば通報するだけで済む話なのです。
むしろ、それを見つけた際に、通報するのが管理人の仕事なのですな。
「だから、子供のしたことにだな…」
急に苦みの増したように感じる煙草を片手に、真一が口を挟むのを、はいはい、と手を振って八雲嬢はいなします。
「私も進んで通報なんざしないわ。家出娘だろうが孤独志望の餓鬼だろうが知ったこっちゃないもの。それと一緒で、動機にも大して興味ないわ」
酷い良い草ですが、返す言葉が見当たらず、真一は涼に視線を向けます。
少女は泣きそうな顔で俯いて居ました。
「ああその、言いたくなかったら良いんだが…理由があったら話してみたどうだ。何かしらの助言くらいは出来るかも知れない。これも何かの縁だ、話してみないか?」
「お人好し。病的というのがよく似合う」
五月蠅いな、と八雲嬢に言葉を返し、再度真一は涼に眼を向けました。
「理由は兎も角、親御さんの連絡先だけでも教えてくれないかな?心配してらっしゃると思うが…」
「してないと思う」
下を向いたまま、ぽつりと少女は零しました。
耳ざとくそれを聞きますと、意地悪そうな顔で八雲嬢は涼に眼を向けます。
「だって、私、親がいないんだもん」
しかし、八雲嬢が口を開く前に紡がれた涼の言葉が、八雲嬢を黙らせました。
「どういう意味だ?」
真一が問いますと、涼は顔を上げて真一の顔を見ます。
覚悟を決めたような顔で。
そして、少女は言いました。
お父さんとお母さん、いなくなっちゃった、と。
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