ああ日常よ、さようなら

 寝ぼけ眼を指で擦りながら、口元を隠すことなく欠伸を漏らす。

 眠い。眠すぎる。授業は何とか耐えきれたが、目を閉じれば今にも夢の中に落ちてしまいそうだ。

 正直この誘惑に勝つ必要はない。

 時間はおおよそ十七時。学内であれど放課後である以上、そもそも活動を強制されているわけではないのだから。


 ──だが。


「……眠そうだね。大丈夫?」

「ん、ああ、問題ない……」

「そ、そう? 全然平気そうには見えないけど……」


 文庫本を片手に、俺を心配そうに見つめてくる桃色髪の美少年を前にして、自分本位な惰眠を貪るわけにはいかない。

 彼の名は姫宮侑ひめみやゆう。今いる場所は学校の小教室の一つ、そして互いの間にあるのは八十一のマスで競い合う競技の台──つまりは将棋盤。


 ただ今部活中。そして現在は、目の前の美少年と将棋の対局の最中というわけだ。


「昨日ゲームしすぎてさ。ちょっとどころじゃない寝不足なんだわ」

「ああそれで。駄目だよ夜更かしのし過ぎは、加減しないと」


 パチパチと、小気味好い音を鳴らしながら、姫宮ひめみやは子供を宥めるように優しく注意してくる。

 仮にも年下にこう言われるとかめっちゃ恥ずかしいんだけど。俺ほんとに二週目だよね?


「うん、王手。……それで一人でやってたの? ゲーム」

「深掘りすんのか。……ああ、まあそうだな」


 思いっきり負けかけてる盤上に目を向けながら、多少の誤魔化しを入れて質問に答える。

 昨夜のことを正直に言うには、いくら無神経な俺でも少しの躊躇いがある。

 何故なら姫宮ひめみや玲奈れなは何か良い感じ。果たして実るのかは定かじゃないが、それでも人の恋路を邪魔する気になれやしない。


 ……まあ不安と言いつつも、順当に行けばこの二人がくっつくだろうとは思う。

 何せこいつらは美男美女の中でも飛び抜けたスーパー美男美女。双方の理解ありきで重縁結ぶ可能性はあれど、離れるところなぞ想像付かないくらいお似合いなのだから。


「ふーん? ほんとうに?」

「……なんだよ」

「いやさ。つまり成実せいじなら、一緒にやる相手とかいるんじゃないのってこと」


 迫り来る怒濤の追撃をかろうじて躱し、顔を上げて姫宮ひめみやの顔に視線を向ける。

 目を細め、微かな笑みを浮かべる姫宮ひめみや

 こいつめ、さては愉しんでやがるな。ったく、勝ってる側ってのは余裕で羨ましいよ。


「……いないな。生憎どっかの誰かみたいに女侍らせてないし」

「はははっ。人気者は辛いよね」


 負け惜しみなどまるで応えず、そよ風を浴びるかのように流される。

 次の抵抗を考えようにも既に手遅れ。素人目でも数手で詰むのがわかるほど、戦局は圧倒的に不利。

 

 ……成程。ここが限界、流石に集中力が足りなかったか。


「まいった。今日は負けだ」

「そう? じゃあ僕の勝ちってことで」


 両手を広げて投降を示すと、姫宮ひめみやは満足そうに微笑みを見せてくる。

 

「随分嬉しそうだな。そんなに嬉しいか?」

「もちろん! ボードゲームで君に勝てる機会なんて中々ないからね!」


 心底嬉しそうにそう言ってくるが、俺としてはそれほど喜ぶべきかと疑問に思う。

 容姿、頭脳、運動能力、性格。

 どれをとっても超一流。もし本気で競い合えば、全てにおいて優れているのは姫宮ひめみやだという確信がある。

 

 当然ボードゲームこれだって例外じゃない。

 ここTG部に入部してから約一ヶ月。かろうじて俺の勝率が高いのは、ひとえに前世からの経験によるものでしかなく。

 いつかなんて曖昧な話ではない。そう遠くない未来、必ず俺の方が勝てなくなり、まともな勝負にもならなくなるだろう。


 だから彼の姿は滑稽でしかない。……本当に滑稽なのは、負ける側の俺なんだけどな。


「……そういや先輩達遅いな。もう五時過ぎたぜ」

「あ、今日来ないよ。みんなデート行くって言ってたし」


 あっけらかんと言葉にされたとんでもない事実を前に、思わず口が開いて塞がらない。

 え、まじ、来ないの? 俺そんなの一切聞いてないんだけど……。


「お前なぁ、そういうの先言ってくれよ。今日休みで良かったじゃねえか」

「ごめんごめん。でもコネクトに書いてあったよ。見てないの?」


 姫宮ひめみやに言われ、そういえば今日は携帯開いてなかったのを思い出す。

 ポケットから取り出してトークアプリを開いてみると、確かに彼の言うとおり、部活のグループには先輩達のデート宣誓が記載されている。

 ……成程、確認不足は俺の方か。こちとら眠すぎてバイブにすら気付けなかったぜ。


「じゃあなんでお前は来たん? 知ってたんだろ、休みだって」

「うーん。強いて言えば、君が来ると思ったからかな」


 ふと疑問に思った俺が聞くと、姫宮ひめみやは頬を掻きながらそう口にする。

 まさか俺のために……? やだっ、なんかきゅんと来ちゃうんだけど。


「な、なに……? 顔に何か付いてる?」

「いや、お前好い奴だなって。そんだけだよ」

「なにそれ、ちょっと照れるんだけど……」


 仕返しのように面と向かって褒めてみれば、期待通り照れくさそうに顔を逸らす美少年。

 ほんと、なんでこんな凄い奴が、活気溢れる運動部ではなくこんな辺鄙な部活に入ったんだか。

 こいつほどであれば引く手数多だったろうに。……まあ同じ部活でもなきゃ、こんなに仲良くなることはなかっただろうし、俺にとっては幸運なんだけどな。


「そういえばさ。結局お前は誰狙いなん?」

「ん? なにが?」

「好きな奴とか。鹿島かしまのバカほどじゃねえが、俺もちと気になりはするんだ」


 二人になれる機会なんて実はあんまりないんだし、せっかくだし気になったことを尋ねてみる。

 他人の恋模様にいちいちけち付ける気はないが、幼馴染も絡んでるとなれば気になるのが男のさが。多少の詮索くらいは許してほしい。


「恋愛? うーん、別に今はねぇ」

「渋るってことはやっぱ本命いたり? あん中だと……鳴瀬なるせとかか?」

鳴瀬なるせさん? 出来れば彼女とも仲良くしたいけど、あくまで友達としてかなぁ」


 姫宮ひめみやには俺と玲奈れなが幼馴染だとは言っていない。

 だから要の少女の名で問いを投げてみたのだが、返ってきたのは苦笑いからの否定だけ。

 あれ、違うの? 俺はてっきりもうとっくに付き合い始めたと思ってたんだけど。


「ピンと来てなさそうだね。……まったく、これはお互い大変だなぁ」

「……ああっ?」

「何でもなーい。それよりどう? もう一戦やる?」


 しょうがないやつだと呆れるように、両手を上げて首を振る姫宮ひめみや

 ……なんか含みがありそうだけど、今めっちゃ眠いし、また後で考えればいいだろう。

 

「今日は帰る。帰って寝る」

「……そっか、じゃあお疲れ。僕はもうすこし残るから、鍵は気にしなくても良いよ」

「おーうさんきゅー。んじゃよろしくなー」


 礼を言いながら席を立ち、鞄を取って手を軽く振りながら教室の戸をくぐり抜ける。

 廊下を歩きながら、微かに聞こえてくる様々な声。

 こういう学生らしさに耳を傾けるのも青春の一興。こういうのが昔は死ぬほど嫌いだったが、今は中々どうして悪くないと思えてしまう。


 青春とは社会へ染まる前の束の間の平穏。それはこの恋愛だらけの世界であろうと変わりない。 

 余裕とはまた違う。きっと価値を知っているからこそ、より尊く見えてしまうのだろう。

 

 素直に肯定できる平穏な日常。それはまさに、俺がこの上なく望む理想そのもの。

 激動などいらない。過度な刺激も必要ない。

 恋も青春も向いてる人間がやればいい。俺はそれを端から見ていればそれでいい、輝く光を遠目で眺めるだけで充分幸せなのだ。


 少し痛いなと思う考えに呆れながら、時間を見ようとポケットに手を突っ込む。

 

「……あ、携帯忘れた」


 生活のお供がないことに気付いてから、そういえばさっき使ったことを思い出す。

 成程、さては机にでも置いたきりか。今日は随分とやらかしてるな。


 眠気を言い訳にするのも厳しいくらいのミスの多さにため息を漏らしながら、回れ右して部室へと歩き出す。

 あいつもう帰ったかな。鍵取りに行くの面倒いし、いてくれると楽で嬉しいんだけどなぁ。


 職員室には行きたくないなと思いながら、のんびり歩いて部室の前に到着する。

 扉に手をかけずらしてみれば、するりと動いて開いてくれる。……お、まだいるのか。

 

「うーい悪い。ちょっと携帯取りに……」


 何も気にせず部室に入り──そして、目に入った光景に言葉を失ってしまう。


 そこにいたのは先ほどまで話していた桃色髪の美少年。

 ただし先ほどまでの格好ではなく。 

 上はブレザーを脱ぎシャツ一枚。下は何故かズボンを脱ぎ、手に持つスカートに着替えている途中──女性物の下着を露わにしている状態だ。


「は、え、えっ?」

「……すいません部屋間違えました失礼します」


 ──部屋を間違えた。やばい、叫ばれる。

 瞬間的に響く警戒シグナル。すぐに踵を返し、この場から立ち去るべく足を動かそうとする。

 

「わー! 待って、待って! 説明させてー!」

 

 だがそれを阻むのは、あろうことか着替えを覗かれた張本人。

 姫宮ひめみやとおぼしき少女は、俺の手を強く掴み離さないとばかりにしがみついてきたのだ。

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