第5話 第四の観測者

 露が美しい柳眉にしわを寄せてふくれっ面をしていた。わりとレアな表情だ。

「先行者からの返信が届きました」

 ファッキンクソバグズの件で私が被害を受けたことに関して、露は先行者に抗議のメッセージを送った。それから数日しか経過してないのでかなり早い返信である。先行者が現在どれだけ宇宙の彼方にいるのかわからないが、向こうはその気になれば距離を無視したワープ通信みたいな送受信が可能なのだろうか?

「今度の返信は異星言語ではなく日本語でした」

「そうなんだ。翻訳する手間がはぶけてよかったじゃない。どんな内容だったの」

「どんなもなにも……」

 彼女は空鯱くうこの骨が喉に詰まったように顔をしかめてホログラフィーを展開した。

 そこには日本語でたった二行の言葉が表示されていた。


 がんばったね、えらいえらい。

 これからもがんばれ。


 見た瞬間、私は爆笑した。これは傑作だ。ツボにはまって腹が痛い。

「な、なんで笑ってるんですか。星くんはひどい目にあったのに、こんな返事で笑っちゃうんですか?」

「いやー、私としては大ウケなんだけど。いいじゃん、これ、わかりやすく激励してくれてさ。先行者に対する印象がちょっと悪くないものになった。案外いいやつだよきっと」

 好意的な私の反応に露は納得がいかないご様子だ。でもさあ、堅苦しい言葉で理屈を並べたてられるよりずっとポイント高いんだよね。クレームへの適当な返事じゃなく、本心からのストレートな誉め言葉と応援が感じられる。

「私は星くんが危険な目にあうのは嫌です。もし星くんが死んじゃったら、どうやっても蘇生できなかったら――」

「それは私もおなじだよ。露が死ぬなんてことはもう考えたくない」

「ちがいます。おなじじゃありません。星くんは私が死んでも私と大差ないほど好きになれる相手があらわれたら新しい恋に移っちゃいますけど、私は星くんだけなんです。星くんがいないと生きていけないんです」

 えぇ……。露の気持ちはめちゃくちゃ嬉しいけど、私に対する認識ひどくない?

「そうならないように、露がなんとかしてくれる。なにが起きても自分自身と私の両方を守ってくれる。でしょ? ちがうなんて言わせないから」

 私は信頼の証として露を抱きしめた。あえぐような息遣いが肩越しに漏れる。宇宙を模したデザインのイヤリングが彼女の耳輪で揺れた。私が見繕った初めてのプレゼントを露はとても大切に思っていて、いつもつけてくれている。

「ちがい、ません。私が星くんを守ります。私は死にません。星くんがずっと私のそばにいられるように」

 よしよし、露はこうでなくちゃ。だから安心できるんだよ。

 このまま愛撫に移行して押し倒そうかなと思ったとき、先行者試験発生のスペクトルが明滅した。……狙ってやってるんじゃないだろうなこのやろう。

 表示された発生場所は、なんと露の実家だった。

 そんな次第で実家に到着した露はさっそく家の内外を点検開始した。まず両親と妹の部屋を確認し、いまは自室その他をじっくり調べている最中だ。手持ち無沙汰の私は数日前と同様に雫ちゃんの部屋で彼女の相手をしていた。

「そういえば雫ちゃんの占い、すごく当たってたよ」

「ほんとですかっ? えへへーっ、嬉しいです! 仲よしのクラスメイト相手にも何度かやってみたんですけど、よく当たるってみんなから好評でした」

「すごいね。占いの才能があるんだ」

「モアが言うには、人間には持って生まれたスキルポテンシャルがあって、あたしは占いの資質がものすごく高いそうです。そして、彼女がくれた占い用具を使えば、限界までポテンシャルを跳ね上げられるって!」

 オシャレなマントルピースの棚に置かれた用具一式を指さす雫ちゃん。虹の色彩が印象深い水晶玉、不思議な銀河が描かれた円盤、火星の惑星記号が彫られた白銀色の小石が数個。なかなか本格的だし、洗練されたデザインが見栄えの素敵なインテリアとしても通用する。

「そうだ、あのブローチ役に立ったよ。詳しいことは話せないけど、あれのおかげで本当に助かった。そのモアって子にも私からの感謝を伝えておいてよ」

「お役に立ててよかったです! あ、まってください、もしかしたら来てくれるかもしれないから呼んでみますねっ」

 雫ちゃんがスマホをいじってしばらくすると、どこからか少女の声が聞こえた。流麗な声色だが、のんびり、ゆったりした調子の声だ。

「ちょうどしずくのもとへおじゃましようと思ってたところ」

「今すぐ来れる? 星さんがいるけど、いいかな?」

「だいじょうぶだ、問題ない。いちばんいい茶菓子をたのむ」

 なごやかなやりとりを終えた雫ちゃんがクッキーの詰まったお茶請けを用意する。アールグレイの紅茶を淹れたところで、私にとっては驚くべき現象が起きた(雫ちゃんは慣れているらしい)。窓際の空間が渦巻銀河のように歪曲して、その中からひとりの少女が逆さ宙返りで飛び出てカーペットに着地したのだ。背丈は雫ちゃんとおなじくらいか。さっと上げた顔は、まったりしたドヤ顔で、そして、その瞳は……七色にきらめく虹彩。

 数日前に雫ちゃんから見せてもらった写真そのままの容姿だが、実物を目にすると宇宙観あふれる神秘さが一層際立つ。さらさらと揺れる白銀の髪(短いツインテール)は白い粒子がきらきらしていて、白皙の肌はなめらかできめ細かく、虹模様がほどこされた未来SFっぽい白銀の衣装とむきだしの太ももは煽情的ですらある。

「ええと、初めまして。あなたがモア?」

「そのとおり。はじめてだね、せい。きみのことはしずくからよく聞いてる。しずくはわたしのことをモアと呼んでる。たまーにアンゴ呼び。モアでもアンゴでも好きなほう呼んでいいよ」

 よくわからん。アンゴだと坂口を連想するからモアでいいや。

「じゃあ、モア、あなたのくれたブローチのおかげで助かったよ。本当にありがとう」

「仲間が勝手なことしたらバランスとるのは議長としてあたりまえ」

 えっへんと言わんばかりの得意げな顔で、モアはお茶請けのクッキーをつまんでもぐもぐやりだした。七個ぺろりとたいらげて紅茶をごくごく飲みほした。

「いい菓子だった、掛け値なしに。ところでしずく、占いはどうだった?」

「すっごく好評! モアのくれた道具と占い方のとおりにやったよ。星さんもすごく当たってたって。そうだ、星さん、いまここでまた占ってもいいですか? お姉ちゃんがなんかやってるの、うちでなにか起きるってことですよね」

「うーん、せっかくだからお願いしてみようかな」

 雫ちゃんが元気ましましで銀河盤に小石を振って水晶玉を凝視する。前回とおなじく私にはなにも見えないが、雫ちゃんは青い目を細めてふんふんと顎を上下させた。

「負の宇宙曲率……マルチバース……観測の壁の彼方……らしいです」

「なんか宇宙論っぽいね。露ならわかると思うから、あとできいておくよ。ありがとう雫ちゃん」

「そうきたか。テーゼのやつ、効果的だけどまわりくどい」

 モアがなにやら訳知り顔で面白そうにつぶやいた。それから私を見て指パッチンした。

「せい、ひとつ言っておくね。しずくの占いは、わたしがそばにいるときは100パーセントの確率で的中する。今日のはとても重要」

「それってどういう――」

「つゆがもどってくる。わたしはまだ彼女と直接会うわけにはいかないから、今日はここまで。つゆにはそのうちわたしのほうから間接的にコンタクトする。じゃあ、しずく、今度は外でゆっくりあそぼう」

「わかった。テーマパークとか遊園地に行こうよ」

 雫ちゃんに親指をぐっと立ててOKを示すと、虹の瞳をもつ不思議な少女は渦巻銀河の空間歪曲に消えた。モアはどう考えても人智を超えた存在っぽいのに、私の心はさして驚きを感じなかった。もしかしたら彼女がそういう状態にしているのかもしれない。露がドアをノックしたのはモアがいなくなってから一分後だ。


 露の部屋に移動すると、彼女は点検の結果を教えてくれた。現状どこにも異常は発生していないが、ここでなにかが起きる確率がもっとも高いらしい。

「ところで露はマルチバースや負の宇宙曲率ってわかる?」

「そのならびだと量子的マルチバースですね。宇宙物理学と量子力学はおおむね良いパートナーなんですよ」

「シュレーディンガーの猫とかいう思考実験のやつだっけ? あれ、なんかオカルトっぽいイメージあるけど」

「それはニーチェの永劫回帰や超人思想が超自然要素として誤認されるようなものです。まあ、量子論はオカルトやスピリチュアル方面からすれば相性がいいのでしょうけど。それより星くん、もしかして、物理学に興味が湧きました?」

 急に瞳をきらきらさせて期待のまなざしを向けてくる。おおやばいやばい。

「いやまったく。雫ちゃんが占いにハマってて、さっきこの家で発生するなにかについて占ってもらっただけだよ」

「ほお、雫が占いですか……ほんとうに星くんと仲がいいですね。私はお姉ちゃんなのに妹のことをよくわかってないですし、なさけないです」

 へーえ、意外と気にしてるんだ。露って常にマイペースだから私以外の誰にどう思われても無関心だと思ってた。

「露は占いって信じる?」

「まったく信じません。否定はしませんけど。それよりマルチバースのことで――」

 そこへ、なんの前触れもなく、私たちの待つなにかは発生した。

『ごきげんよう、過去の私と星くん』

 部屋の中空にホログラフィーが浮かんだ。バストアップで映る三次元立体映像の少女は露だった。髪型や服装はおなじだけど、顔が少しだけ大人びている。私のそばにいる可愛くて綺麗な露ではなく、可愛さの面影を残した綺麗な露だった。

『単刀直入に言います。私は不老不死を捨てた未来の露です。私たちは先行者の試験で何度も命の危機に見舞われました。そこで決断したのです。不老不死を捨てたことで先行者の試験から解放され、私と星くんは限りある生と肉体を含めた人間としての成長を甘受しています。だけどまだ完璧ではありません。それは過去の私たちの意識を変えることで達成されるものなのです。だから過去への介入と通話手段を発明し、実行に移したわけです。あなたたちに伝えます、先行者の試験を破棄して不老不死の解除を選択してください。それがあなたたちにとっても最良の道となりますから』

 うわあ、宇宙からの侵略昆虫種族の次は過去を改変しようとする未来の私たちときたか。

「映像越しとはいえ、過去の自分と直接顔を合わせる行為を実行したということは、その危険性をクリアできたとみていいのですか?」

 露がきいているのはフィクションでよくある「おなじ人間同士が鉢合わせたら消滅する」ことだろう。

『問題ありません。いま干渉しているのは私たちの直接の過去ではなく、ごく近い世界線の過去だから、対消滅やタイムパラドックスの危険性はないのです。そのうえで選択の結果のみをこちらへ抽出するので安心安全』

「ほお? それが本当なら多世界解釈は正しく在ることになりますね。でも、枝分かれ式のマルチバースを観測することはできないはずです」

『できるのです。私たちの世界は「可能性の波動論」が確立された世界線ですから』

 となりでひゅっと息をのむ音が聴こえる。露がそれだけ衝撃を受けたということだ。このままわけわからん会話をされても困るので、露の肩を揺さぶってわかりやすい説明を求めた。

「ええとですね……「可能性の波動論」とは、かつて世界の革命をかけて「ヴォマクトの法則」とぶつかり、ありとあらゆる学会を二分した理論です。提唱者は魔術師カサフの異名で知られたスノウ・ビヨンド氏。もちろん私たちの世界では「ヴォマクトの法則」が確立しましたが、あちらさんは逆の未来を辿ったようですね」

「それで、「可能性の波動論」ってなに?」

「たとえから入りましょう。星くんがコンビニで宇宙猫パンを買ったとします。このとき、星くんがパンを買った世界と買わなかった世界が誕生して、それぞれ未来が分かれることになります。パンを買うという選択イコール可能性はそれ自体が粒子で、それがぶつかって次々と流れを変えてしまうわけです。これが一般的にイメージされる未来についてのモデルであり多世界解釈です。ここまではわかりますね?」

 私は宇宙猫パンより銀河猫パンのほうが好きだ。

「でも、そうではないと異を唱える人がいました。未来とは、可能性とは、そんな連鎖反応による選択型の枝分かれから生じるのではなく、もっと気まぐれに見えると。それこそ猫のように。だれかれ笑っているようにも怒っているようにも悲しんでいるようにも見える、そういうものだと。……えーと、光を思い浮かべてください。光は集めれば強くなりますが、広げてしまえば暗くなり、それがあることさえわからなくなっちゃいます。スノウ・ビヨンド氏は、可能性とはそのようなものだと予言したのです。実際そこに無さそうな可能性は、その存在がきわめて大きい波を描くせいで、この世界のある点に確率的に存在している状態が、きわめて小さくなるというのです。それが、この世に龍がおらず、万能の力が存在しないことの説明です。といっても私はこの点について否定しますけど。こほん。さて「可能性の波動論」はさっき述べた事柄を実際的な研究に発展させた理論ですが――」

「ねえ露、なんかそれっぽいこと言えばそういうものだと理解してもらえると思ってない?」

「少しでもわかりやすく説明しようとすると、抽象的にならざるをえないんです」

 そうか? まったくわからなかったけど、でもまあいいや。それより気になることがある。

「ところで未来の露に質問。未来の私はそこにいないの? いやほら、私は不老不死に満足してるから、それを捨てたいと思うとは思えないんだけど」

『星くんは納得してくれました。訳があってこの通話には同席できませんが、これが成長した星くんの映像です』

 成長した私の映像が表示された。おお、今の私が正統進化したかのような美人だ。となりの露もちょっと見惚れている。うーん、さすが私。

 とはいえ、そうかあ、別の世界線とはいえ、未来の私は不老不死を捨てることに納得したんだ。それだけ先行者の試験が危険続きだったのかなあ。まあ私のことだから考えが変わることもあるのは否定できない。

『さあ、先行者の試験を破棄して不老不死を捨ててください。それですべてうまくいって、平穏な未来と幸せな生涯を得られます』

「お断りします」

 断固とした声で露が即答した。

「星くんが納得したのではなく、あなたが納得させたのですよね。星くんが同席できない訳とは、過去の私たちを目にした星くんが「やっぱり若いままのほうがいい」と気変わりしないよう、理由をつけて同席させないだけです。どんなに世界が違っても、心までは変わりません。星くんが不老不死をやめたいなんて本気で思うわけがないんです!」

「そ、そうだよ。うん。露の言うとおり!」

 便乗して露の言葉に同意した。不老不死サイコーだもん。ずっといまの容姿のまま露とイチャイチャしていきたい。

 未来の露が赤い瞳をすっと細めた。

『すぐ後悔して心変わりすることになりますよ。――ほら』

 彼女の言葉の意味はすぐに理解できた。たしかにすぐだった。私は、自分の手が、足が、顔が、いや、服も含めた全身がうっすら透明になりつつあった。びっくりして露に目をやると、私とおなじく透きとおりかけている!

 露は冷静に状態を確認して眉をひそめた。

「これは、まさか、逆転するタイムパラドックス?」

「なにそれ! どういうことなの、どうなってるのこれっ!」

「不老不死を捨てる未来を否定したことで、私たちの存在が消えかかっているんですよ」

「えっ? なんで? そういうのって過去を改変しようとした未来の人間に起きるものなんじゃないのっ?」

『それは私がこの世界線に干渉する上位権限を獲得しているからです。可能性の波動論と非凡発現者の能力が合わさった私だからこそできることです』

 私も露もゆっくりとだけど着実に透明化してる! こんなことで消えるのまっぴらごめんなんだけど!?

「なんとかしてよ露!」

 露が紅玉の瞳をきらめかせた。一瞬にして精神フィールドが展開され、淡く白い雪っぽい光が無数に浮かぶ空間と化した。あっという間になにかの核を掌握して微笑する。

「こっちの私はこういうことができるのです」

 よかった。ファッキンクソバグズのときみたく、これで解決……解決……してない!

「ねえ、つゆっ、透明化の進行がおさまらないんだけど? 消えちゃう、このままじゃ私たち本当に消えちゃう!」

「確実に掌握したのに……ほかに原因があると……」

 あ、あ、こんなに焦った露の顔ははじめて見た。これはこれでぞくぞくするけど、そんな興奮に身を任せている場合じゃない。まずい。正真正銘の大ピンチだ。

『これでわかったでしょう。手遅れにならないうちに不老不死を破棄してください。私だってこんなことはしたくないんですから』

「ほお。つまり、あなた自身の意思ではないということですよね」

 未来の露が押し黙った。図星ということか。

 そのとき私は唐突に雫ちゃんの占いとモアの言葉を思いだした。

「雫ちゃんの占いだけど、こんなことも言ってた。観測の壁の彼方って」

「ああ、第四の壁――!」

 それだけでなにやら理解したらしい露が目を見開いて集中する。すでに雪世界が半分ほど透けるなか、鋭いまなざしで中空の一片をにらんだ。

「視えた!」

 すると、おお、恋人の視線の先に数多の影が浮かんでいる。それらの集合シルエットは、男女さまざまな黒い人影からなる山脈だった。

 露がダンスの要領でステップを踏んだ。右腕を凪いで五指を広げた。フィギュアスケート選手も顔負けの華麗な動作で、織り糸を編むように左手を上段から真下へすべらせる。人影の波が驚愕と懇願に満ちた悲鳴をとどろかせた。

「タイムパラドックスの掌握と世界観測の編み直し――完了。この場においては正の宇宙曲率となりマルチバースは遮断される。消えなさい、不埒な観測者たち」

 うごめくシャドーマン群衆が嘆きの合唱でむせび泣きながら、白い粒子の彼方へ溶けた。

 そして、消えかかっていた私と露の体も元に戻った。

 露は未来の自分に向けてさわやかにほほえんだ。

「私たちは好きにやります。だからあなたも好きにしちゃってください」

『不老不死を捨てたことを後悔はしていませんので、このまま余生を過ごします。ただ、星くんとのあいだに子どもをつくることにします。私と星くんの生きた証が、ふたりの血が、未来へ続いていくように』

「ほおおお、それはそれは」

 深い息を吐いて感心する露。ふむ、と思案してから漢詩を詠んだ。


  悠悠我祖  

  爰自陶唐  

  漠為虞賓  

  暦世垂光  

  禦龍勤夏  

  豕韋翼商  

  穆穆司徒  

  厥族以昌


 陶淵明が長男に名前をつける「命子」だ。この第一章は陶淵明の家系の始祖が尭帝であると謳っている。露の家系も尭の時代にさかのぼるので、これから子どもをつくるという未来の露に対するエールとしてぴったりだ。

『それにしても……あなたはマルチバース多世界のすべての私のなかで、可能性を超えて最高の私になるのかもしれませんね』

 羨望を秘めた微笑を残し、未来の露のホログラフィーが雪世界とともに消えた。

 周囲が見慣れた部屋にもどると、我が恋人の露は満点のドヤ顔を浮かべて私を見る。

「なんとかしてみせました」

 うーん、可愛い。

「結局どういうことだったの?」

「量子力学には観察者効果というものがあります。えー、今回の件にあてはめてざっくり言うと、万物のもとである素粒子は観測されない状態では波動にすぎず、誰かに観測されることで粒子として物質化するという理屈です。これを人間の意識にも適用すると、つまり、世界線を観測して介入できる人間たちのなかに、この世界の私と星くんが不老不死になることを望まなかった観測者たちがいて、それらが不老不死を捨てた世界線の私の背後で……」

「あー、だから第四の壁か」

 演劇において舞台と観客席を隔てる架空の壁。物語内の登場人物が、物語外の作者や読者(視聴者)を意識した言動や干渉をおこなうことを「第四の壁を破る」といい、さっき露がやってのけたのはそれだろう。

 異星の妖虫に乗っ取られそうになったり、自分勝手な観測者たちに存在を消去されようとしたり、先行者試験の内容ハードになりすぎてない? そりゃこんなのが続けば不老不死を破棄したくなるのもわかる気はする。

「星くんは、子どもが欲しいですか?」

 だしぬけに露が言った。さっきのことに触発されたのだろう。

 稀人星の技術なら女性同士でも受胎が可能だと、以前に聞いたことがある。

 なんにしても私の答えはひとつだ。

「子どもなんていらない。私は露だけいればそれでいい」

「意見が合いましたね。私も子どもはいりません。結婚もしたくないし夫婦にもなりたくない。このまま変わらず、永遠に恋人同士でやっていきたいです」

 私は露を正面から抱きしめた。

「解釈違いの観測者たちなんか二度と干渉させないで。私が不老不死を捨てたくならないように安心させて。私が露との恋愛に飽きたりしないように、ずっと私を満足させて。露が私を求めてくれるかぎり、私は露と永遠を歩めるから」

「そうやって口当たりのいいことばかり言いますけど、ぜんぶ私任せですし、私の負担だらけなの、まぎれもなく星くんですよね」

「私は自分の幸せのために露とラブラブでいたい。つまり私が幸せになると露も幸せってこと。完全な恋の等価交換。これこそ愛だよ!」

 すると露はふふっと笑った。

「星くんがいつか私を愛してくれるように、幸せの可能性を演算しておきます」


 * * *


 私のあれは精神フィールドじゃないんです。どちらかというとハイパースペースに近い、精神世界をベースにした固有の内的宇宙といったところです。

 そんなことを星くんに説明したら「じゃあ、デューフォール・ユニバースという名前に決定」と決められちゃいました。まんまじゃないですか。


 気になるのは、不埒な観測者たちのなかで、ひとりだけノーリアクションのシルエットがあったことでしょうか。あの長身の影だけ、私が観測世界の編み直しをする最中に姿を消したのですよね。まるで結果を見て用はすんだとばかりに……。


 なにはともあれ、多元宇宙と多世界解釈の存在が確定したことは意義ある事件でした。不老不死を捨てて星くんと子どもをつくり、歳をとりながら限りある人生を謳歌していく私が別の世界線にいるというのは、それだけでなかなか感慨深いものがありますね。


 さて、あなたは私にどうあってほしいですか――?








 ――――


 可能性の波動論 出典:「ゆきのかなた」(RUNE)2000/03/17

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