正義-Ⅲ

 沈みかけた夕日。その反対側から夜が顔をのぞかせている。星がまたたきだした空に、ヨシュアの上半身が投げ出されていた。


 過去を改ざんする能力と引き換えに、心臓を代償としたキング。尽き果てようとしている命の傍らに、ヨシュアがどさりと落ちてきた。


 ヨシュアの瞳から一筋の涙が、伝い落ちる。悔しさに歯を食いしばっていた兄の顔。かすかに動いた口が、大切な家族を呼んでいた。


「アンナ……ごめん。アンナ……」


 どうにか身を起こし、ヨシュアにおおかぶさったキングは、自らの右目を兄の口に含ませた。


 ――生きて。兄さんは、無価値なんかじゃない。


 そんな兄弟をよそに、偶像は酷く上機嫌だった。この時を待っていたとばかりに、立ち尽くすアンナを見据える。おぞましい死神は、ヨシュアの下半身を抱えたまま、ベラベラと喋り始めた。


「アァ、楽しイ。つくづく愚かナ兄弟ダ。一卵性双生児ガ何を意味するか知らずニ、まんまと改ざん能力ヲ発動させタ。ヨシュアはキングなのダ。そして私ハ、ヨシュアに能力を全譲渡してイル。美しい……ハハッ、実ニくだらない兄弟愛ダ。同じ遺伝子ダカラ、共に時空ヲ渡り戻ってキタ。私ニ祝福をもたらす為ニナ!」


 目の前で起きた惨劇に、叫び声を上げていたアンナが我に返った。視界を取り戻した、すいしよくの瞳に怒りが宿る。彼女はじりじりと後ずさりをしながら、偶像をにらみつけた。


「貴方が何者なのか、ずっと知ってたわ。生存本能しかない、獣以下の存在よ。兄さんを取り込んで利用した。キングを追い詰め続けた!」


「好きニ言うが良イ。私の器ヨ。受胎をしたのハお前の意志だロウ? ここに戻ると選択をしたノモお前ダ。状況ハ最大限に利用スル。それの何が悪イ。ヨシュアを真っ二つにしたノハ、暴走したキングという事ニしておいタ。憐れな兄ハ、見事に騙されていたゾ。ヒ……ヒ」 


 黒煙で形作られた顔が、心底嬉しそうに歪む。ヨシュアの下半身を依代よりしろとした偶像が、大きく膨らみ始めた。耳まで裂けた口で嘲り笑い、首を奇妙な角度で傾けた。


「この時ヲ、ずっと待ってイタ。二百年! エヴァを作るノニ、二百年かかった! Ever永遠、素晴らしい名前ダト思わないカ? サァ、器をよこせ。アンナ。永遠の命ヲ我が手ニ。新しい世界ノ王キングは私ダ!」


 アンナは偶像をにらみつけながら、武器となる物を探していた。しかし、朽ちきった研究所跡地に、そんなものがある筈もない。気づけば、屋上の縁まで追い詰められていた。


「絶対に渡したりしないわ、偶像。貴方の思い通りになんてさせない」


 痩せた足が、縁に乗り上げる。アンナの直ぐ後ろでは、摩天楼が輝いていた。いびつに伸びた偶像の人差し指が、アンナの眼前で『無駄だ』と振られる。


「飛び降りなんて出来ないゾ。私ヲ誰だと思ってイル」


 そのせつ、ゆらりと動く影と共に、偶像の背後で聞き慣れた声が響き渡った。



 キングが振り絞った能力により、失った下半身を取り戻したヨシュアが、偶像にナイフを突き立てていた。

 




 ◆





「アァ?」


 目を細めた偶像は振り返ると、自らが錬金したナイフを振り払った。偶像が作った武器は、死神に傷をつける事が出来る。それは、このこうかつな死神でさえ例外ではなかった。


 しかし、ナイフで一突きした程度だ。かすり傷にすらならない。カラカラと音を立て、アスファルトに落ちたナイフをいちべつした偶像は、ヨシュアに視線を戻した。


「出来損ナイは、そこで大人しく指デモくわえテロ。お前ニハ、これっぽっちの価値もナイ。惨めニ死を待テ」


 それでもヨシュアは、偶像から目を逸らさなかった。そんな笑みを浮かべ、揺るがないプライドそのままに立っている。


「偶像、貴様の存在にも価値はない。人間を見下し、何が新しい生命体だ。笑わせるな。私は、ヨシュア・キンドリーだ!」


 ヨシュアの言葉に、偶像が暗闇を見た。空はすっかりその色を、夜に変えている。


「何ヲ言ってるンダ、出来損ナイ。気でも触れたカ」


「貴様が一番、嫌がる事をしたまでだ。


 ヨシュアの胸に、ぽっかりと穴が空いていた。ニヤリと笑った口から、一筋の血が流れ落ちる。


 瞬間、死んだかに思えたキングの身体が大きく反り返った。命が再びそのみやくどうを刻み始める。ヨシュアの頭上で旋回していた眼球が、持ち主に還った時、キングは完全に命を吹き返した。


 跳ね起きたキングとは対照的に、ヨシュアが崩れ落ちていった。大の字になって、夜空を見上げている。ヨシュアは、笑っていた。


「私の心臓は、弟の中で生き続ける。お前の事はキングが倒す。アンナは渡さない」


「「兄さん!」」


 キングとアンナの叫び声が重なった。薄れゆく意識の中、ヨシュアは満たされていた。


 ――僕にも価値はあった。キング……アンナ、アンナ……幸せになって。


 ヨシュアには自己犠牲の精神があった。その事を見抜けなかった偶像が、如実に焦りを見せだした。大きく膨らんだ顔を伸ばし、一息にアンナを飲み込もうと口を開く。


 ……!


 偶像は、激痛に動きを止めるしかなかった。長く伸びたキングの犬歯が、偶像の身体を喰いちぎっている。

 

 それは、キングに訪れた本当の覚醒であった。


 特徴的な右目が赤く染まり、刻印が刻まれている。白い髪は逆立ち、背中からは薄い刃のような羽根が何枚も生えていた。


 四つ足の姿勢を取ったキングの口から、ほうこうが放たれる。


「偶像! 貴様をここで封じ込める!」


 長く伸びた鋭い爪が、偶像をえぐった。すかさず距離を取った偶像が、高く浮かび上がる。その隙をかいくぐった白き死神が、ヨシュアの身体を羽根で絡め取った。


「兄さん……ありがとう。絶対に死なせたりしない」


 黒煙をDNAのせんに変えた偶像が、身を回転させながら、刻印の刻まれた瞳を狙う。


「お荷物ヲ抱えて戦う気カ。人間ハ心底くだらナイ。貴様から先ニ喰ってヤル。身体をヨコセ!」


 凄まじい速さでキングに突っ込んできた偶像。尖った爪で身をえぐったキングが、黒いせんを喰いちぎる。偶像も負けじと、キングの肩を喰いちぎった。激しく命を奪い合う姿はさながら、獣同士の死闘そのもの。


 もつれ合い、転げ回って、互いの急所を喰らう。


 らちかなくなった偶像は、聖杯を旋回させ始めた。キングの背中で、羽根に包まれているヨシュアは、虫の息だ。『最初に、この男を焼き殺す』その一念で、聖杯の血を一気に浴びせ掛かる。


 四つ足で素早く避けたキングが、狼のように走り回りまわった。逃げに徹し、ヨシュアを守るべく、自身のせきずいから体内に飲み込む。

 予測不可能な動きは、偶像を混乱させた。アンナに意識を向けている余裕がない。

 

 唸り声を上げたキングが、空を爪で切る。あらわれた大鎌が、偶像の首をねていった。


 しかし偶像は、あくまで能力を全譲渡しただけの、わば実体のない幽霊のようなもの。大鎌は、黒煙を横切っただけだった。


 確実にダメージを与えられる方法は限られている。覚醒したキングは、偶像のDNAを実体として攻撃する事が出来た。


 こうなると、喰らい合うしか道はない。ヨシュアを体内に収めたキングは、真っ赤な両翼の刃をうねらせている。

 分が悪いと悟った偶像は、狙いをアンナに定めた。器を乗っ取って、この場は撤退する。生存本能だけの死神が急速に身体をねじる。


 偶像とキングの死闘をじっと見守っていたアンナは、大きく開けられた口をまばたきもせずに見ていた。縁に乗り上げていた足を、後ろに引こうと身構える。


 高層ビルの高さは、優に200メートルを越えていた。


 その瞬間、雨のような物が降ってきて、偶像が急に苦しみだした。黒煙が、小石の集合体を思わせる実体となってゆく。


「よくも、こんなもんに閉じ込めてくれたな! 死神ってのは、人間のDNAに弱いんだろ?」


 そこには開いたパラソルをくるくると回す、プルトの姿があった。と同時に、彼の周波数を通してレイラの声が響き渡った。


(一緒に戦うわよ、キング。アンタ、? 全部、見せて貰ったわ)





 ◆





 ソビエトでアーキテクトの降臨があって、しばらくした後。プルトの解放に向かったセツコとカインを見送ったレイラ達は、それぞれの持ち場につこうと時空の切れ間に足を踏み入れかけていた。


 レイラは、民兵を招集すべく南米へ。

 フランツとエマは、ばら撒かれたへんようばつかくきんの解毒剤を依頼すべく、製薬会社へ。


 電流が走ったように身を硬直させた彼女らは、同時に歩みを止めた。引き返して、互いの顔を見つめ合う。最初に口を開いたのは、フランツだった。


「……今日は、何日だ?」


 全員が同じ事を思っていたのだろう。エマがテーブルに広がった手帳を拾い上げた。


「5月6日です。Xデーは、5月16日でしたよね。ヨシュアがメキシコとの国境に現れて、父親の大統領出馬演説をした」


「私はヨシュアを殺そうと、カインに黙って一人でヘリに乗ってしまったの。そのせいで、セツコが犠牲になってしまった」


「エマ。私は、君の告白を覚えている。ヨシュア君から受け取った、留守番電話の事も」


 束の間、何が起きたのか分からない沈黙が流れたが、直ぐに答えは出た。フランツが、壁にあった地図のポーランドを指差し、確信する。


「キングが、過去を改ざんしたんだ。覚えているかい、エマ。彼は最後に、と言っていた。そして私達は、Xデーまでの事を全て覚えている」


「はい。よく覚えています。坊ちゃんは、本当に記憶を奪わなかったのですね」


 突然、二人の会話を聞いていたレイラが、顔を上げた。しきりに目を動かしては、何かを見ている。

 さりげなく、身重の彼女を気遣ったエマが、ソファーに座らせた。その間もレイラは、何かをずっと見ていた。


 一時間は続いただろうか。ようやく目を閉じたレイラがうなれて、頭を抱えた。「なんてこと」思わず、溜め息と共に口から零れ落ちる。


 エマから白湯を渡されたレイラが、二人を見た。


「アンナとジョージを救出した時に、キングと視覚の共有をしてたの。ヨシュアの過去を見たわ」


 レイラは、ヨシュアの過去を話して聞かせた。偶像に取り込まれてしまうまでの、余りにも悲しい生い立ちを。

 フランツは沈痛なおもちでうつむき、エマもショックを隠しきれない様子で口をおおっていた。


 白湯を一口飲んだレイラが、話を続ける。


「偶像とキングは、研究所があった場所で戦ってるわ。ヨシュア達が住んでた高層ビルの屋上よ。でも、キングは力を発揮出来てない。アンナがいるの。偶像が……彼女を乗っ取ろうとしてる」


 青ざめたフランツが携帯電話を手に取った。亡くなったオリヴァーから、無理矢理州知事にさせられたのは、州警察の署長だった男だ。彼はまれに出る、洗脳の入らない人間だった。故に、家族を人質に取られ脅されていたのだ。


「直ぐに、州兵を招集させよう。彼なら信頼出来る」


 電話しかけたフランツの手を、やんわりとエマが制止した。


「相手は死神です。まずはプルトさまが応援に向かうべきかと。もちろん、街の方の避難も大事ですが。彼は、解放されたのでしょうか?」


 それだ、と言いたげなレイラが、飲み干したコップを置いた。


「全く分からないのよ。そもそもこんな事態、誰も想定していなかったじゃない」


 瞬間、部屋に異変が起きた。ぼんやりとした、モザイクフレームがあらわれて、徐々にその姿を鮮明にしてゆく。


 レイラ達の前に姿をあらわしたのは、眼鏡のマシューとだった。


 Xデーまでの記憶を持つ全員が、死神の姿に驚きを隠しきれずぜんとしていた。


「えっ……アンタ、死んだんじゃないの?」


「死んださ。今の俺は死神だ。何があったかは後で話す。レイラは俺と一緒に来てくれ。へんようばつかくきんはまだストックがあるんだ。無効化の方法は、マシューに教えてある」


 眼鏡のマシューが、フランツの元に走って行った。


「お願いです、力を貸してくれませんか? 僕も覚えてます。キングと喧嘩して、和解した事。僕は、友達を救いたいんです」


 力強く頷いたフランツに、マシューが安堵の涙を浮かべていた。死神はそんなマシューの肩を抱くと、真剣な表情で訴えた。


「マシューに、能力を一部譲渡しました。フランツさん、後はお願いします」


「分かった。しかし、君の能力は一体……どのような物なんだい?」


 は、頬をポリポリ掻くと生前の姿そのままに、少しだけ情けない顔で笑った。


「人間に触れるって事と『』だけです」





 ◆





 研究所がある高層ビルにほど近いダイナーの裏手に、レイラ達は移動してきていた。合流したセツコがやれやれと、ふさがった傷を触っている。

 彼女とカインも、同時期に記憶のからりに気づいていた。が、プルト解放に向けた戦闘が佳境を迎えていて、それどころではなかったのだ。


「しっかし、甥っ子とこんな形で再会するたぁねえ……」


 死神として殺され、死神界から速攻でリスポーンされたジョージを、半ば呆れ顔で見やる。


「文句があるなら、エンマに言ってくれよ。俺だって訳が分からないんだ」


 キングの視界に集中していたレイラが、二人をにらみつけた。

 カインは泣き出しそうな顔で、レイラを見つめている。彼には、落下してゆくヘリコプターの悪夢が、鮮明にこびりついていた。


「無駄口を叩いてる暇があったら仕事しなさいよ、ジョージ。アンナの救出を頼むわ。セツコには、もう一回、病院へ戻って欲しいの。申し訳ないんだけど」


 そう言ってる間にも、セツコが時空の切れ間を描いた。Xデーの惨劇を誰もが覚えているから、口にせずとも何が必要か手に取るように分かる。


「病院に残ってる人間のDNA液だろ。ありったけ、持ってくるさ」


「俺は、ジョージと一緒に行く」


 唐突に口を開いたカインに、全員の視線が集中した。金色の瞳は真剣そのものだ。


「レイラ、お前に言ってなかった事がある。俺が拘束されていた間の話だ。ヨシュアのヤツ、二人になると泣いてたんだ『僕から離れていかないで』って」


 お互いの手が自然と伸びて、二人はようやくほうようを交わした。『レイラが生きてる』涙を堪えきれなくなったカインが、黒髪に顔を埋める。


「ヨシュアも救いたいのね。分かったわ。でも、Xデーの私みたいな無茶はしないで。お腹の子は私達の希望よ。その……愛してる、カイン」


「ああ、絶対に生きて帰る」


 笑顔で二人を見ていたセツコが、快活な声で合図を送った。


「さあ、皆の底力を見せつけてやろうじゃないか! 偶像に突きつけてやる『人間を馬鹿にするな』って」


 レイラは、後方支援に。

 セツコは病院へ。

 そしてジョージとカインは、研究所へと向かっていった。





 ◆





(キング! DNAは効いてる?)


 レイラの問いかけに、キングは目頭が熱くなっていた。

 人間には触れられないプルトの代わりに、死神のジョージが落下寸前だったアンナを抱きかかえている。


「ああ、効いてる! ありがとう!」


 ――ありがとう。本当に皆、ありがとう。


 内側から鼓動がする。何とか命を繋いでいるヨシュアもまた、泣いているのだ。キングには痛いほど、それが伝わってきていた。


「チィ……人間風情ガ偉そうニ」


 囲まれた偶像は、驚くべきスピードで聖杯を増やすと、血の雨をお見舞いした。邪悪な死神のやり口を知り尽くしているジョージが、聖杯を見た時点で姿を消した。アンナをレイラの元へと、送り届ける。

 

 プルトは、とつにパラソルを盾にしてしまった。焦げた臭いと共に、見るも無惨に武器が溶けている。


「くっそ! 何だ、コイツ!?」


 キングは素早く回り込むと、背後から偶像の身体を喰いちぎった。「ギャッ」身体をもがれた偶像が悲鳴を上げる。黒い塊を飲み込んだキングが叫んだ。


「コイツに、死神の武器は通用しない! 血に注意しろ、プルト! 死神でも身体を焼かれるぞ」


 戻ってきたジョージと手を合わせたプルトは、口の端から炎をたぎらせると、てのひらからせんこうを放った。の能力を使った、プルトニウムなしのエネルギー攻撃だ。


 寸前まで偶像を押さえつけていたキングが、攻撃すれすれを避けていく。膨大な質量を喰らった偶像から、もうもうと水蒸気が立ち上った。

 

 凄まじい絶叫と共に、偶像は消滅したかに思えた。


 どれだけこうかつで、悪の権化であろうとも、命の危機が迫れば力は増大する。生存本能しかない偶像であれば、尚更だった。

 水蒸気の切れ間から、けんろうな鎧でもまとったかのような偶像が、憎悪そのものを向けていた。


 怯んだプルトに、口をすぼめた偶像が、血をいて攻撃を仕掛ける。その首を捉え、寸前に軌道を変えたのはカインであった。

 

 カインは、研究所にまだ偶像の武器が残されているのを知っていた。

 特に、セブンが愛用していたチェーン。いつでも手入れの行き届いていたこの武器は、偶像が好んで錬金をしていた。聖杯では直接、首をねる事が困難だからだ。


 しになった首に、キングが喰らいついた。長い爪を立て、硬質化した身体にヒビを入れる。

 背中に生えた薄い刃は、偶像の身体を回り込んで深々と突き刺さっていた。諸悪の根源から、げんごくかの如き叫びがこだまする。


 身動きを封じた偶像の身体を、キングは容赦なく喰らっていった。


 その光景は、プルトと死神となったジョージですらせんりつを覚えた。抵抗する偶像が大きく口を開く。しかしキングは、長い犬歯で顔面ごと喰いちぎってしまった。


 噴き上がる血で、キングの身体は焼かれていた。

 治癒に割いている時間がない。赤い刃を抜き去ったキングは、自らの身体にそれを巻き付けると、なおも偶像を喰らい続けた。


 ついに、偶像を喰い尽くした時、屋上にはなんとも言えない沈黙が漂った。


 それまで四つ足だったキングが、急に力を失ってへたりこんだ。犬歯から血をしたたらせたまま動かない。真っ赤だった右目からは、刻印が消え、色もせていた。


 根源的な恐怖で、ジョージに抱きついていたプルトが小声で呟いた。


「……これで、終わったんだよね。キング、死んでないよね?」


 そのせつ、地響きと共にキングの身体が、巨大な岩石のように膨れ上がった。





 ◆





「ウガァアアア……ギィヤアアアア!!!」


 ビルの屋上からうなる声に、レイラが青ざめた。ほうこうと同時に、視覚がしやだんされてしまった。避難していたアンナが、走ってゆく。


「キング! 兄さん!」


 下にいるレイラ達にも、突如としてあらわれた黒い物体は視認出来た。かなりの大きさだ。現場近くにいた民衆からも、指差す者が続出していた。


(視覚がしやだんされたわ! 何が起きているの!)


 屋上は、レイラの問いかけに答えるいとますらないほどに緊迫していた。大きく膨れ上がった漆黒の身体から、偶像が巨大な顔を出している。

 こぶだらけの仕込み刀を構えたジョージが、居合いの構えを取った。


 プルトのてのひらから放たれたエネルギーを刀に載せて、おぞましい顔をいつとうに切り捨てる。転がり落ちた首は砂と化したが、切った先から血をまき散らし、ジョージの身体を焼いた。


 ……!


 痛みを感じている余裕もない。飛び上がったプルトとジョージは、再び刀にエネルギーを載せて、今度は縦から真っ二つに巨大化した異形を切り裂いた。

 しかし切られた身体は、液体化すると直ぐにくっついてしまった。ダメージを受けているようには、到底思えない。


 最早、生き物と呼んで良いかも分からない黒い物体から、キングとヨシュアの声が聞こえてくる。


「「首をねろ! ジョージ!」」


「ふざけるな! そんな事、出来る訳ないだろう!」


 巨大な漆黒は、そのまま二人の意識を飲み込んでしまったかのように思えた。ズズッ……ズズッ……と歩みを進める度に、ビルがきしんで崩壊の予兆をかなでる。


 ――一時撤退か。せめて人間のカインだけでも、避難をさせないと。


 ジョージとプルトが焦りを見せた時、時空の切れ間があらわれた。眩い光の中にいたのはセツコだ。


「遅くなった! 人間のDNAだよ!」


 ヨシュアがルルワのまつえいに丸投げしていた、DNA溶液。どの程度あれば、死神を弱体化出来るかなど知らない医師達は、1トンもの溶液を作り出していた。


 巨大な漆黒が、アンナが避難しているダイナー裏手を見た。彼女を目指し、再びズズッ……と歩みを始める。地獄の底から手招きするような、声が響いた。


「アンナ……アンナァアアアア」


 ついにビルが崩壊を始めた。窓ガラスがじんに砕け散り、街の人々も異変に気づいて悲鳴を上げている。

 民衆は、州兵によって既に安全な場所に避難していた。フランツの手配がどうにか間に合ったのだ。


 最後の一人を避難させた戦闘車両が、足早に走り去って行く。


 歩みを止めない、巨大な漆黒に回り込んだカインが、チェーンを素早く巻き込んだ。残ったチェーンを腰に巻き、重心を低く取る。

 人間に耐えられる重量ではない。とつに背後についたジョージが、カインのサポートに入った。


「プルト早く! DNAを入れてくれ!」


「だって……こんな化け物相手に、どうやって入れるんだよ!」


 あたふたするプルトに、レイラから通信が入った。


(落ち着いて。ジョージの武器を使うの。セツコと一緒ならやれるわ!)


 振り返ると、溶液に放水ホースを取り付けたセツコがうなずいている。

 震えていたプルトは、ジョージの武器を手に取ると、覚悟を決めて構えた。口の端から炎をたぎらせ、瞳を燃やす。


「ボクは、人間が好きなんだ! 偶像! お前なんかに奪われてたまるか!」


 せつ、意識ごと飲み込まれてしまったかと思われた、キングとヨシュアの声が全員に聞こえた。


「「……!」」


 ごうと共に、突っ込んでいったプルトが、全身で刃を突き立てる。子供の頭ほど崩れ落ちた隙間に、セツコが思い切りホースを突っ込んだ。


「これが人間界の総意だよ、くらえ!」


 1トンの溶液。人間のDNAが、巨大な漆黒――偶像に放出される。

 みるみるうちに石化の始まった物体は、叫びとも呼べない不快な音を立てて、歩みを止めた。


 完全に崩壊を始めたビルは、研究所を破壊し、石化した漆黒ごと巻き込んでいった。


 忌まわしき始まりの場所が、音を立て崩れ落ちてゆく。


 研究所の象徴だった、建屋を貫く大木や奇妙な花々も、れきの中へと飲み込まれていった。


 カインを抱きかかえたジョージとプルトで、街への被害を最小限に食い留めるべく手をかざす。ビルの崩壊を目の当たりにしたアンナ達には、その光景がまるで奇跡のように映った。

 割れ落ちたガラスや鉄骨が、ゆっくりと重量などないかのように、降り注ぐ。そうして、見る間に形を砂へと変えていった。


 全てが終わった時、ちょっとした砂丘と化したビル跡地に、キングとヨシュアを飲みこんだままの巨大な石だけが残った。





 ◆





 アンナ

 死神のジョージ

 レイラ

 カイン

 プルト

 セツコ


 巨大な石の周りに集まった面々が、中にいる二人の様子をうかがっていた。偶像が死んだのかどうかも分からない。自然と視線は、死神の二人に向いていた。


「……死んだなら、能力の回収が出来ないとおかしいんだ」


 思わず口ごもるジョージに、プルトが同調してうなずいた。希望の見えない結末に、全員が黙り込む。

 ふと、背後に気配を感じて一斉に振り向いた。


 そこには、フランツの身体を借りたアーキテクトがたたずんでいた。眼鏡をしておらず、瞳もかすみがかって色味がない。


 何より、穏やかだが平坦な口調が、アーキテクトそのものだった。


「この男を再び借りて済まない。偶像は、人間によって封じ込められた。この死神の寿命は後、20年だ。寿命が尽きた時、死神が回収をしに訪れる」


 ――20年。皆が言葉を失う中、アンナが一人、アーキテクトに歩み寄った。


「キングと兄さんは、生きてるの?」


 アンナを見て、紳士的な笑みを向けたアーキテクトが、後ろ手を組んだ。ずうっと遠い所を見ているような目で答える。


「生きている。しかし、偶像をこのまま封印するには、二人の力が必要だ」


 その言葉に、堪らず感情的になったレイラが詰め寄った。


「ちょっと! 死神界は無責任すぎるんじゃない? 私達が助けたかったのは、あの二人よ!」


「無責任。確かにその通りかもしれない。しかし、偶像を取り込んだキングの首をねれば、我々もことわりを果たせた。死神の首をねる、もしくは寿命が尽きるのを待つ以外に、偶像を回収する方法はない」


「お前は、エンマか? ことわりがどうのって言うなら、どうして俺を直ぐ死神としてよみがえらせたんだ」


 アーキテクトは、ゆっくりと視線をジョージに移すと、参ったとばかりに首を振った。


「流石は元人間だ。鋭い所を突いてくる。我々死神界も、ことわりからがんがらめにされていたのかもしれないな。例外は認めない。だが、死神界の総意は違う。私は調停者として、仕事を果たしに来た」


 アーキテクトが明けの明星を指差す。そこには、無数の死神が空を舞っていた。


「皆が少しずつ、偶像の犯した罪を背負いたいと言っている。偶像はこれから108に分割され、彼らに取り込まれる。20年の寿命は我々が引き受けよう」


 調停者の宣言を皮切りに、人間界ではカラスとしか認識出来ない死神の群れが、一斉に巨大な石をついばはじめた。


 キングが、を抱きかかえて姿をあらわした時、ようやく長い夜が終わった。


 太陽が通りの果てから昇って来る。

 朝が、来たのだ。





 ◆





 駆け寄ったアンナに抱きしめられたキングは、涙を零してその肩に頭を預けた。腕の中にいるヨシュアは、まるっきり生まれたての赤ん坊だった。小さな手が握っては開くを繰り返している。


「兄さんが、ここからやり直したいって」


 ブルネットの赤子は、その生命いっぱいに、愛を求めて泣いていた。スカートを切り裂いたアンナが、小さい身体を包んでそっと抱き寄せる。

 アンナの頬を、ただひたすらに涙が伝っていった。


「名前は、ヨシュアが良いって言ってた。アンナが呼んでくれていた、大事な名前だからって。それから……お腹の子を大切にしろって」


「兄さん――ヨシュアは罪の意識でこんな事を望んだの?」


 朝日に照らされた、キングのサファイアブルーの瞳が一際、美しく輝いた。


「ハッキリとは言わなかった。記憶も奪ってないんだ。だけど……」


「だけど?」


「これから時間をかけて沢山、話をしたいんじゃないかな。僕達、家族の話を」





 アジアンタウンのアパートでは、夜通しクロエが泣いていた。

 当然、彼女にもXデーまでの記憶が残っている。ジョージの死に身を引き裂かれるような思いで、一晩中泣いた。


 ――ジョージが死んじゃった。


「うえぇえええ、ジョージィ、ジョージィ」


 アパートのドアが開く音がしても、お構いなしでたんに暮れる。涙と鼻水で、シーツはぐちょぐちょだ。

 

 その時、ちょっぴり居心地の悪そうな声が、ダイニングに響いた。


「……ただいま」


 クロエは最初、幻覚を見ているのだと思った。いや、もしかしたらジョージのホロをまとった別の誰かかも。


 クロエは人身売買に出されてから、その手の事件に巻き込まれ過ぎている。彼女が、自分の見ているものを信用出来ないのも、無理はなかった。


 なんとも言えない沈黙が流れる中、不器用なジョージが動いた。


 節くれだった手が泣き過ぎてれたまぶたを、硝子細工でも触るかのように、優しくでる。その仕草、匂い、雰囲気。全てがジョージで、クロエは目を見開いた。


「本当にジョージなの?」


「うん……死神になっちまったけどな」


「……はえ? だって、半分くらいは死神だったじゃん」


「それもそうだ。頭が良いな、クロエは」


 頬を掻いて笑うジョージに、クロエの涙は塩辛いものから、熱いものへとへんぼうげていった。


「ジョージ! ジョージィイイイ! お帰り!」


 駆け寄ったクロエは、ジョージの身体によじ登ると、思い切りひたいを擦りつけた。涙と鼻水まみれの親愛のあかし。人はそれを絆と呼ぶ。形は違っても、二人は親子だ。


 クロエとジョージはいつまでもいつまでも、泣きながら笑っていた。





 -最終話『世界はここに』へつづく-

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