正義-Ⅰ
「……どうして?」
メキシコ国境付近の大統領演説会場。クロエに胸部を刺されたヨシュアが、震える声を絞り出していた。
演説会場に集まった民衆は二千を優に超える。マスコミも大挙して押し寄せており、突然の悲劇に誰もが理解を拒絶していた。シン……と静まりかえった会場で、クロエの泣き叫ぶ声だけがこだまする。
「ひどいよ、ヨシア! どうしてジョージを殺したんだよ!」
ヨシュアは偶像の能力を全譲渡――つまりは、死神を
大粒の涙を
その気配に気づいたヨシュアが、クロエに
「やめろ! この子を撃つな! これ以上、私から奪うな!」
しかし悲しいかな。ヨシュアサイドの人間は、全員洗脳されている。彼らにとっての最優先事項は、ヨシュアに及ぶ脅威の排除。それだけだ。
黒マントに銃撃を浴びたヨシュアの口から、一筋の赤い糸が垂れ落ちた。
一方、上空では。
マスコミを偽装したヘリに乗ったレイラが、スナイパーライフルのスコープを覗き込んでいた。
――クロエがヨシュアを刺した。このチャンスを逃したらダメよ、レイラ。感情は捨てるの。
緊張で呼吸が浅い。これ以上は、手に汗をかいて精度が落ちる。一息に空気を吸い込んだレイラは、ヨシュアの頭部に照準を定め、引き金を引いた。
……!
弾道が
――クソッ! あんな男に同情したっての、私は!
その時、自分の放ったライフルとは違う
マスコミを装っていたのは、何もレイラだけではない。ルルワの
彼女を取り囲んだ何台ものヘリが、不気味な
◆
悲劇は続く。悲劇は連鎖する。
ヨシュアが刺された事で、それまで会場の後ろで沈黙していたF-16が二機、一斉に飛び立った。
戦闘機は、黙りこくる民衆の
もちろんこれも、ヨシュア自らが描いてしまった絵図である。国境付近上空で待機していたNATO戦闘機は、余りの出来事に上官への報告も忘れて絶句していた。
最初の数分。民衆はただ爆撃を眺めていた。
会場入りしたカインがバイクのアクセルを全開にしながら、再び無線を手に取る。民衆の阿鼻叫喚をかいくぐり、取り囲まれたレイラのヘリを見た。
「国境を越えた者は二手に分かれろ! 戦闘機はF-16、繰り返すF-16だ! 弾を無駄にするな! NATO連絡班は、至急応援を
レイラのヘリから、男の死体が落下してくる。中に居るのは、レイラ一人だ。操縦に集中しており、囲んだヘリからの攻撃に応戦できていない。数に勝てず、立ち往生してしまっている。
――セツコ、間に合ってくれ!
岩場から飛び跳ねたモトクロスバイク。ステージに向かって進み続けたカインは、これ以上ない大声でヨシュアに叫んだ。
「一緒に死んでやる! 俺を連れて行け、ヨシュア! 頼むから、レイラへの攻撃を止めてくれ!」
その頃。
イスラムから既に発射されてしまった核ミサイルを、プルトが誘導していた。しかし、どうにもミサイルの様子がおかしい。
核が
「ヨシュアのやつ、何がしたいんだよ。意味わかんないな」
抱きかかえて大気圏を突破するまでもない。口の端から炎をたぎらせ、瞳もまた燃ゆる色に変えたプルトは、ドレスハットをかざして核を吸収し始めた。
踏み潰された缶詰と化したミサイルから、プルトニウムを抽出して、ドレスハットに収めてゆく。作業中、どうにも頭をもたげて仕方のなかった疑問符が、口をついて出ていた。
「これって、ボクをあそこから切り離したかっただけなんじゃ……」
とうに会場から飛び立ち、ハワイ近辺まで来てしまったプルト。彼はゴミ屑になって海へ落下したミサイルを見送ると、米帝の方を向いた。遠くの上空から周波数を拾う。
愛らしい顔に、直ぐさま深い
はたして、その勘は当たってしまった。プルトは明確な意図をもって、会場から切り離されたのだ。肝心の意図に気づけないまま、小さな唇を震わせた。
入ってくるのは会場の大惨事。逃げ惑う人々の悲鳴と爆発音。全身がわなないて肌が
プルトは必死にレイラ達を探し、そして見つけた。
「嘘だ……レイラ? セツコ!」
◆
武装したマスコミヘリに囲まれたレイラは、墜落を免れるだけで精一杯になっていた。ホバリングすら成立していない。容赦ない
レイラは『このまま、ヨシュアがいるステージに特攻してしまおうか』という誘惑に駆られていた。
どうせ捨てると決めた命だ。
覚悟したその日から、お腹の子に「身勝手な母親で済まない」と
けれども、彼女にはどうしても、自爆を仕掛ける決心がつかなかった。
ステージ上にいるクロエの存在だ。
幾ら一度も話した事がないとは言え、血を分けた実の妹である。ブラックダイアモンド奪取を特別顧客ヨシュアから指示された時、彼女はクロエ殺害に抵抗がなかった。
ヨシュアに脅されたからではない。レイラは殺しを生業とする、テロリストに過ぎなかったからだ。彼女は、洗脳された里親さえ存命なら、後はどうでも良かった。
様々な出会いとカインの存在がレイラを変えた。それらの結晶である、お腹の子が彼女を殺しだけの人生から救った。
レイラは自爆できない己の弱さを悔いた。が、仲間が傍にいれば、明確に否定しただろう。それは人として、ごく当たり前の感情なのだと。
今のレイラに、クロエを巻き添えにして、ヨシュアを殺害するだけの非情さは残されていなかった。
……!
ついにヘリのフロントガラスが、完全になくなってしまった。バッテリーも攻撃されて、煙を上げている。F-16による無差別攻撃の爆風を浴びたヘリが大きく傾いた。
「遅くなって済まなかった。逃げよう、レイラ!」
後部座席が時空の切れ間で光っていた事にすら、気づかなかったレイラ。彼女はセツコの姿を見つけるや否や、おもむろに視線を
「アイツを……ヨシュアをここで殺さないと!」
セツコにも余裕はない。彼女の存在で、ヘリは再び安定飛行を開始した。だが、言い換えればそれだけだ。死神能力の一部譲渡者でしかないセツコには、弾丸を防ぐ能力は備わっていない。
「イスラムから、核ミサイルが発射された」
「ヨシュアは、自殺する気なの? 全員を巻き添えにして」
背後を
「プルトが止めに行ってる! 質問は後にしてくれ! ここから逃げるんだ!」
「カインはどこに居るの? カインを助けて!」
「同時に二人は無理だ! カインに頼まれたんだ。お願いだから、私と来てくれ!」
吹き付ける風が長い黒髪を
「いやっ! カイン、行かないで!」
「レイラ! 顔を出すな!」
堪らず後部座席から飛び出したセツコの眼前に、武装ヘリが浮かび上がってきた。戦闘員と一瞬だけ目が合う。弾丸の雨がセツコに降り注いだ。白髪の革ジャンが、そのままの姿勢で動かなくなる。
顔を
プルトは遠く離れたハワイの上空で、取り返しのつかない
セツコの周波数が途絶えた時、プルトはこの世の終わりを告げるかのような悲鳴を上げた。
感情の制御が出来ない。
世界中の核ミサイルのリミッターが一気に破壊され、勝手に発射態勢を整えた。こうなっては、世界の最高機関だろうが、お手上げだ。
各国司令塔および首脳は、どうにも止められないミサイルに、
ヒロシマとナガサキの悲劇は、プルトの感情暴走によって引き起こされた。
元来、感情的になりやすい欠点があるのだ。だから、戦後処理として兄魔術師が能力に制限を掛けた。
そしてこれこそが、ヨシュアの突き進もうとした道であった。
プルトを使って、世界中を巻き込み、心中を図る。
だがそれは、あくまでアンナが健在だった時の絵図であった。
ヨシュアは、心のどこかでアンナだけは生き延びると思い込んでいた。
そんな話、ある筈がないのに。
『これは、遠い世界で起きた、空想の物語なのです』
何度、そうあって欲しいと願ったことだろう。
目覚めないアンナを見た時、クロエと食卓を囲んだ時、そして偶像から見捨てられた時には全てが手遅れだった。
突如として起き上がった
覚悟を決めたNATO戦闘機が、ついにミサイルを発射した。
落下してくるレイラを乗せたヘリ。
ヘリを見て、バイクを止めてしまったカイン。
F-16を止めようと、発射されたミサイル。
世界中でリミッターの外れてしまった核兵器。
核兵器の起動で湧き上がった
自分に向かって飛んでくるミサイルを、死んだ魚のような目で見つめるカイン。そんな彼を見つけたヨシュアが、声にならない叫びを上げた。
その時だった。一筋の光が、凄まじい速さで会場を突っ切っていったのは。
ミサイルは、空中で動きを止めた。そこだけが、切り取られたフィルムの世界だ。
光の周りを
落下すれすれだったヘリを支えた光は、そのまま手をかざすと、F-16を二機同時に強制着陸させた。
「もう止めよう、兄さん」
光の主、それは。小柄な身体に白マントをたなびかせ、プラチナブロンドとサファイアブルーの瞳を輝かせる死神。特徴的な右目を、茨の冠かの如く頭上で
◆
「キング! てめえのせいで俺の人生は、滅茶苦茶になったんだぞ!」
堪らず飛び出してしまったノーマンが、サブマシンガンの火花を散らした。だがキングは青い瞳を向けただけで、銃弾をすべからく無効化してしまった。
攻撃の全てを大鎌に任せ、レイラ達を地面に着地させたキングが、再び宙を浮く。
ステージになっていた一枚岩を軽く飛び越え、天高く昇る太陽と完全に重なった瞬間、キングの
キングによる死神の能力発動で、世界中の時が止まった。
頭部を強打して気絶しているクロエ。
落下してゆくヘリに
己の選択に後悔するレイラ。
守り切れぬまま命を落としたセツコ。
感情暴走してしまったプルトですら、止まっている世界。
切り取られたフィルムの世界で、キングは兄ヨシュアの瞳を見た。全く同じ、サファイアブルーの瞳を。直ぐさま視線を逸らした兄に、ゆっくりと距離を縮め、食ってかかる。
それは、二人が一度もした事のない、兄弟喧嘩であった。
「兄さんがしたかったのは、世界を道連れにした心中なのか! アンナの事は、どうでも良かったのかよ!」
クロエとカインの生存を確認したヨシュアが、絶望の
「黙れ、出来損ない。気安く話しかけるな、
キングが大鎌を
白と黒の対比の中、キングが聖杯を睨みつけた。
「兄さんだって、本当は気づいてるんだろ。偶像は味方なんかじゃない。一度だって、味方だった事はないんだよ!」
「うるさい! 出来損ないは黙れ!」
ヨシュアの中で、偶像は沈黙を守っている。数をどんどん増やす聖杯に囲まれたヨシュアが、会場を高速で
「偶像! お前の目的はアンナだろう! 僕の覚醒は、予定外だったんじゃないのか!」
黒マントに
「兄を解放しろ! 喰いたければ僕を食え!」
その時、黒マントが素早く動いた。聖杯ごとキングに突っ込んでゆく。「ジャッ!」という音がして、二人の身体から煙が立ち上る。
焦げた臭いと共に、ケロイド顔のヨシュアがキングの胸ぐらを掴んだ。
「目の前にいるのは偶像じゃない。私を無視するな!」
「何やってんだよ、兄さん! 酷い火傷じゃないか」
ブルネットから覗くサファイアブルーが、悲痛に
「僕を無視するなと言ってるだろ!
火傷の
――偶像本体の攻撃とは、比べものにならない。軽すぎる。
キングは、火傷まみれで逃げるヨシュアを追った。
――兄の言葉は矛盾だらけだ。見てくれと訴えながら、逃げ回る。世界を巻き込んで心中を図ろうとしながら、大切な人には生きて欲しいと願う。
「同じなんだよ、兄さん! 僕も見て欲しかったんだ! だから、集落を出たんだよ!」
キングは、叫ばすにいられなかった。抵抗するヨシュアは、
――このままじゃ、兄さんが先に死ぬ。
飛び上がったキングは、羽根を長くしなやかな
……!
クロエが突き立てていった偶像のナイフ。それを引き抜いたヨシュアが、血の
その生暖かな感触に、ヨシュアは思わず頬に手をやっていた。自分を捉えようと構える、忌ま忌ましい存在を見やる。
同じだけの火傷を負った筈なのに、キングは一瞬で
――どうして僕だけ、何も持ってないんだ。どうして僕だけ、これっぽっちの価値もないんだよ!
どうにもならないヨシュアの
「兄さん!」
「ギャァ! ……お前なんか、大嫌いだ!」
水蒸気の中からヨシュアのくぐもった声が聞こえる。
キングには兄の抱えている闇が、染み入るように理解出来た。
じりじりしているキングに向かって、飛行しているのがやっとなヨシュアが挑発をする。
「絶対、お前になんか止めさせない。そんな事をされる位なら、死んでやる!」
人間は全身の2/3が火傷状態になれば、死ぬと言われる。それは、能力を全譲渡されたヨシュアも同じだった。
飛びついてきたキングから距離を取り、三度、聖杯を増やし始める。
キングは兄を止めるべく、ついに大鎌を構えた。動きを封じるとは、四肢を刈り取るのと同義である。ようやく理解したいと思えた兄に、その仕打ちだけは避けたかった。
中にいる偶像に凍てついた視線を送り、ヨシュアの説得を試みる。それは、祈りにも近い叫びであった。
「僕を憎んでるのは分かってるよ。だからって死ぬことはないだろ! アンナにとって、一番大事なのは兄さんだよ。研究所に戻りたがったのはアンナだ。僕が兄さんを殺すと言ったから……でもそんなの、彼女の本心なわけないだろう!」
「それ以上、アンナの話をするな。そうだ、出来損ない。最後に面白い話をしてやるよ」
「
瞬間、ヨシュアの
-つづく-
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