本当の悪魔-Ⅰ
レイラが買い上げたスラム街の売春宿。その一室がセツコの放つ光に包まれていた。光は透き通る動脈のように、キングの体内を循環している。腰を抜かしてしまったレイラを見たセツコが笑いかけた。
「アンタがレイラって子か。べっぴんさんだね。黒髪の綺麗なこと」
「だったら何? そっちこそ何者なのよ」
「だから、ジョージの叔母さ。死神の能力譲渡者でもあるがね。ノースを知ってるだろう? ソビエトの特別顧客だった。彼がアンタを探してる」
「なんでノースが出てくるのよ。意味が分からない」
セツコはキングの心臓に手を刺したまま、余った方の腕で大きな正方形を描いた。空間が剥がれ落ちて、ぼやけた景色が姿を
「ジョージ?」
セツコが作った時空の切れ間は、キングが住むマンションと接続されていた。突如現れた、光り輝く切れ間の奥には怯えるエマと彼女を庇うジョージが居た。クロエはベッドでぐっすりと眠っている。
「何が起きたんだ? お前は誰だ?」
ジョージはフラフラの身体で、死神の武器に手を掛けていた。空間を作った主がセツコと気づいたエマがその手を制止する。
「ジョージさま。貴方の叔母にあたる方です」
「俺の叔母? ……何処かで会った事があるか? 見覚えがあるぞ」
「なんなんだい、そんなに皆して驚く事かね。まあいい。自己紹介といこうじゃないか」
セツコは片手で器用に煙草を
「……プルトがナガサキとヒロシマを破壊したなんて」
プルトと一番親しかったレイラが、驚きを隠せない様子で口元を覆った。そう言えば、プルトは度々口走っていた。「先の大戦でボクにやらせた事を死神界はまだ許してない」と。
「死神を挑発して武器にする。狂気の沙汰だよ。そして、それを決定したのは当時の特別顧客達だ。まあ、と言っても
「私をノースと引き合わせて、何をするつもりなの? セツコ」
セツコは煙草をもみ消すと、疑心暗鬼になっているレイラの顔を覗き込んだ。
「ソビエトは新しい特別顧客を立てたがってる。聞けば、アンタは元々承認されたのが保留状態だって言うじゃないか」
「それだけじゃないだろ。知っている事を全て話せ」
それまでずっと黙っていたカインが拳銃の引き金に手を掛けた。冷たい金属がセツコのこめかみに押しつけられる。セツコは皺だらけの顔でカインの金色の瞳を見やると『好きにしろ』とジェスチャーをしてみせた。
「私が誰の能力を譲渡されてると思うかね? プルトだよ。そして、私はどう見たって寿命が近い。これらから推測される事は何だと思う?」
「ちょっと待て。その女は、俺の姉貴を殺したんだぞ。そんなヤツに能力の譲渡をするつもりなのか?」
拳銃を持っていたのがジョージであれば、銃口をレイラに変えてそのまま撃ったかもしれない。それぐらい、ジョージの口調は
ヨシュアによる本格的な策略は、レイラを使ってジョージの姉を殺害させる所から始まった。言い換えれば、ジョージの姉殺害さえなければ、彼は生家に戻って隠し金庫を開ける事もなかったのだ。
沈痛な面持ちでジョージの訴えを聞いていたアンナが、口を開いた。
「それを言い出したら、ジョージ。ここに居る全員が罪人だわ」
眠っているクロエの髪を撫でていたメイドのエマも、重たい口で同調する。
「ジョージさま。私も父親を殺しているんです」
そのままなんとも言えない沈黙が流れて、カインが拳銃を下ろした。金属特有の無機質な音が床に響く。一向に目覚める気配のなかった、キングの身体がピクリと動き出した。
キングを包んでいた光が一際強くなる。
次の瞬間、売春宿に
◆
最初、何が起きたのか誰一人として理解が出来なかった。手首から先を失ったセツコが、本能的に止血しようと自らの白髪を巻き付ける。噴き上がる血を見て、直ぐさまシーツを切り裂いたのはレイラだった。そのシーツも一瞬でどす黒い朱色を描く。
セツコの手はキングの心臓に飲み込まれていた。
それまで大きく放たれていた光が、一瞬で収束して小さな欠片となる。代わりに姿を顕したのは、おどろおどろしい黒煙だった。
キングの目が開く。
力の象徴である特徴的な右目には刻印のようなものが刻まれ、真っ赤に染まっていた。
「ギィァアアア……」
キングの口から漏れてきたのは今まで聞いた事もない、獣の声だった。四つん這いになったキングの
「ギャア!」
背中から噴き上がる血液を操れないキングが、
「ジョージ!」
レイラから呼ばれて我に返ったジョージが、売春宿へ移動しようと立ち上がった。しかし、こちらも身体がボロボロでどうにも動かない。何とか手を伸ばしたジョージは、セツコの腕を掴んで止血した。たったそれだけで、以前のように鼻血が滴り落ちる。
ジョージは飛びそうになる意識を鼓舞して、キングの身体を分析した。
「なんてことだ。人間の血が殆どない……」
「どういう事なんだ、ジョージ!」
「俺に血を分けた時、偶像から喰らったんだ! あの死神の血を!」
エデンの家地下での戦闘。鏡張りの部屋から聞こえた、キングの絶叫を思い出したカインが
安普請の
「考えるのは後にしてカイン! キングも所詮は人間って事よ!」
のたうち回っていたキングが突然、ピタリと動かなくなった。再び、獣としか形容の出来ない四つん這いになる。そのまま飛び上がったキングは、天地無用とばかりに部屋中を駆けずり回った。その度に誰かが怪我をして、何処かが壊れる。
獲物の匂いを嗅ぎつけたキングが天井に張り付いた。レイラの腹部を見ながら、しきりに大きく育った犬歯を舐めている。その顔は完全に捕食者であり、狙いは一目瞭然だった。
「ギィヤアアア!」
「やめろ! キング!」
カインの拳銃がキングの眉間を捉えた瞬間だった。飛び掛かってきたキングをアンナが抱きしめたのは。彼女のか細い首に食いついたキングが、鬼の形相で血を
直ぐに黒煙が姿を消し、刻印を刻まれた赤い瞳も元のサファイアブルーに戻る。
キングは、泣いていた。
「……もう嫌だ。集落から出なければ良かったんだ! 僕さえ、我慢していれば! 普通の生活なんて望まなければ!」
「違うわ! キング」
肩の肉を食いちぎられたアンナが悲痛な声で叫びながら、なおも強く抱きしめた。
「どうして僕なんかが人類の分岐点なんだ! 不幸しかばら撒いてないじゃないか! こんな人間、死んだら良かったんだよ! あの集落で!」
その時、どさりと何かが落ちてきた。辛うじて開いている時空の切れ間から、這い出てきたジョージとエマだ。錯乱状態のキングが、涙でくちゃくちゃになった顔をジョージに向けた。
「ジョージと友達になりたかったんだよ!」
「うん。分かってる。分かってるさ、キング」
「一緒にTVの話をしたかったんだ! 本当にそれだけだったんだ……嘘じゃない。信じてよ……」
キングの意識が再び不明瞭になり、瞳が赤く染まる。ナイフで
手足を大きくばたつかせるキングに殴られながら、アンナが絶叫した。
「偶像! キングの心に入らないで!」
ジョージも、キングの
「俺の寿命を使い切ったらどうだ! 残り数週間だろ!」
しかし悲しいかな、ジョージの刀はキングの内部から跳ね返されてしまった。
全員を払いのけたキングは、床で激しくのたうち回っていた。切り裂くような悲鳴と共に、サファイアを思わせる眼球が飛び出してくる。そのまま意識を失ってしまったキング。代わりに、滅茶苦茶になった部屋を青く照らした眼球がゆっくりと惨劇の修復に入った。
ズタボロにされた壁紙とシーツが花吹雪かの如く舞い上がる。
偶像に焼かれたまま治らなかった肌が、あっという間に元の青白い肌へと戻ってゆく。
意識が完全に戻ったキングの第一声は「魔術師の力を今すぐ使いたい」であった。
◆
現在、売春宿の一室に居るのは
死神化の進んだキング
寿命が近いジョージ
ボロボロのアンナ
同じく満身創痍のカイン
身重のレイラ
腕を食いちぎられたセツコ
辛うじて無事なエマ
以上の7名である。
キングの『魔術師の力を使いたい』その提案を一旦脇に置いた、ジョージが現状の説明を始めた。
「直ぐに動いてほしい事が二つある。まず一つはルーカス達だ。あの子らは無事だ。俺のアパートに居る。もう一つは、麦角菌のワクチンだ。説明は後でする。それも俺のアパートに置いてある」
エマが挙手をして名乗り出た。
「ジョージさまのアパートへは私が参りましょう」
壁にもたれていたセツコが立ち上がって、エマの肩を叩いた。
「私も一緒に行こう。死神の能力にはほど遠いが、ないよりゃマシだろ」
「でも、セツコ所長は腕の怪我が」
「大丈夫だ、傷は塞がってる。信用出来る病院はあるかい? ジョージ」
「ああ、アジアンタウンにモグリの医者が居る。輸血用血液の予備もある筈だ。医者に診せたら子供達を国外へ逃がしてほしい」
セツコは動く方の腕で大きな四角形を形作ると、時空の切れ間が出来る事を確認した。
「能力は使えそうだ。子供達をポーランドに居るルビーの元へ連れて行けばいいね?」
「ワクチンの接種をしてから行ってくれ。少ないが、ここに居る人数とポーランドの屋敷分くらいはある」
一人納得のいってないキングだけが、話の輪から外れて佇んでいた。彼は、自分の陥った状態を全く把握していなかった。獣状態になったキングから腹の子を狙われたレイラが、部屋の隅から語りかける。
「アンタは自分の身体をまずはどうにかしなさいよ」
この二人は何かと言うと口論になる。この時もそうだった。反抗的な目でレイラを睨んだキングがキツい口調で言い返す。
「何が? こんな事をしたって焼け石に水じゃないか。今すぐ、過去を改ざんする。ヨシュアが特別顧客に就任する前まで戻せば良い。兄を殺せば、父はアンナを特別顧客に立てる。アンナが特別顧客の世界なら、アダムの子は生まれない」
「アンタって本当に頭でっかちね。死神界の理とやらはどうするの?」
「……僕は、集落から出ない。あの場で一生を終える」
立ち上がったレイラが、カインの制止を振り切ってキングの元まで歩み寄る。そうして、まだ血の気のないキングの頬を思い切り打った。
「ふざけた事を抜かしてんじゃないわよ! アンナはどうなるの? ここまで命をかけた彼女の気持ちはどうなんのよ!」
俯いたまま動かないアンナを見たキングが涙声で訴えた。
「新しい世界でアンナは僕と出会わない。出会わない方が幸せ……」
キングが言い終える前にもう一度、レイラが頬を打った。
「自分がさっきまでどんな状態だったか、よく考えてからにしなさいよ! セツコの腕を食ったのはアンタよ、キング! 人間の血が殆どない状態なの」
――僕がセツコの腕を食った。偶像の血で自我を失ったのか。
ショックで顔を引き攣らせたキングが、レイラの大声に
「人間の血がないって言うなら、母さんだって! エヴァだって同じだったじゃないか!」
「お前は、偶像の悪意を知らないから言えるんだ。キング」
ジョージの冷静な声にカッとなっていた二人が我に返った。レイラの背後に立っていたカインが話を繋ぐ。
「偶像はお前を食おうとしてただろ。エデンの家で。さっきもジョージの武器を跳ね返してた。お前を乗っ取るつもりなんじゃないのか? あの死神は」
「本当の悪魔は兄さんじゃないわ」
ポツリと呟いたアンナの言葉に全員が黙り込んでしまった。だが彼女は、自分の口にした言葉で記憶の欠落に気づいた。その事実の方に呆然として、口を閉ざした。
――
眉をひそめて額に手を当てるアンナ。そんな彼女をやるせない表情で見ていたジョージが、覚悟を決めて本題に戻った。
「俺の寿命なんだがな。もってあと数週間だ。知ってるんだろ? キング」
「……今の僕じゃ、偶像を回収しても押さえ込めない」
「分かってる。その……なんだ。俺が言えた義理じゃないんだが、頼むから自分を責めないでくれ。な? キング」
キングの頬を冷たい涙が伝っていった。無力感に打ちのめされた小さな背中が震えている。その肩を抱き寄せたジョージが、周囲を見渡して問いかけた。
「プルトっていう死神が居るんだろ? そいつに能力の回収を頼めないのか」
ジョージは、プルトが離反してしまった事を知らない。レイラが苛立たしげに床を踏んで吐き捨てた。
「キングと喧嘩して何処かへ行ったわ」
やりとりをずっと聞いていたセツコが、白髪を掻きむしって煙草に火をつけた。煙をくゆらせつつ渋々、打ち明ける。
「あの子の居場所なら分かるよ。ただ……周波数がやけに弱いんだ」
「どういう事?」
聞き返して来たレイラに、肩をすくめてみせる。ここに来て、最初の話に戻ってしまった。キングの現状を加味するならなおのこと、避けては通れない。
「今のプルトは、能力を解放しないと死神としての役割を果たせない。
途端にカインの顔が強ばって、眉間に深い皺を刻んだ。
「
「
「……新しい世界なら、私にも出来るって事よね」
ずっと俯いていたアンナが覚悟を決めたように囁いた。本当にそれでいいの? とレイラが悲しそうな目で見つめる。アンナは見えぬ目でレイラに微笑みかけた。
「私とキングを二人にしてほしいの」
ジョージも疲れ切った表情で、これが最後だと自身の思いを
「俺の余命を待つ必要はない。ヨシュアと偶像が何か企んでる。俺の望みは、クロエとの時間だ。あの子は、俺が死ぬ事を知らない。一週間でいい。二人で過ごしたい」
◆
セツコが「私の生存確認にも使えるだろう」と時空の切れ間を各所に繋いだ。とりあえずは、この部屋とキングのマンション、それからレイラ達のアジト。必要に応じて切れ間を追加する。「
レイラとカインは元のアジトへ戻り、ジョージもクロエの元に戻った。
キングとアンナ、二人だけになった部屋。膝を抱えたまま動こうとしないキングにアンナが手を置いた。
「会いたかった。マシューと一緒に会って以来ね」
「……マシューはヨシュアに取り込まれてしまった」
「知ってるわ」
キングの膝を抱える手がより頑なになる。涙がポタポタと手の甲に落ちていった。
「マシューの記憶を奪ったんだ」
「魔術師の力を使うために? 過去を改ざんって聞こえは良いけど、失うものの方が多いもの。辛い選択だわ」
魔術師の力は、今まで築き上げた全てをリセットするのと同義だ。人との出会いや繋がり、喧嘩すらなかった事になってしまう。言わば絆の喪失だ。相当な精神的苦痛が伴う。
自分を追い込んで力を使うしかないと思い詰めたキングは、マシューの記憶を奪うという強硬手段に出てしまった。
「僕はいつも失敗してるんじゃないかって……本当はすごく怖い」
「失敗なら、皆してるわ。私だって、ヨシュアを終わらせる事に失敗したもの」
ふいにキングの手が伸びて、アンナを引き寄せた。惨めなまでに短く切られてしまった髪を愛おしげに撫でる。しかし、自信のない声は今にも消え入りそうで震えていた。
「本当に僕なんかで良かったの? このまま化け物になってしまうかもしれないのに?」
「ええ。私はキング、貴方が良かったの。出会った時からずっとね」
まだ、たった15歳の少年がそこにはいた。小さな身体でひたすらに生き抜こうともがいてきた、愛に飢えた少年が。
二人はこれ以上、言葉を交わす事が出来なかった。泣きながら抱き合う他の方法を見つけられなかった。唇が自然と寄り添い重なり合う。
再会を果たしたこの日。バラック小屋の売春宿で、二人は無言の愛をただひたすらに重ねた。かつてのエヴァがそうする以外の愛情表現を知らなかったように。
-つづく-
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