女帝の行方-Ⅳ

「ホラ、立って」


 雨の降るスラム街。レイラが差し伸べた手を握ったアンナは、その温もりに勇気づけられた。「ちょっと通して」そう言いながら、レイラがトタン屋根の店内を進んで行く。


 マフィア、アサシン、テロリスト。彼女を形容する陰口をものともしないレイラは、申し訳程度の勝手口から出ると裏路地を歩いた。アンナの手をしかと握りしめたまま。そのうち、とあるバラック小屋の前で止まった。


「うわっ! レイラ」


「何、驚いてんのよ。死んだって噂でも流してんの? この二階を他に売ったりしてないわよね」


 怯えた様子の男が媚びたこわいろで揉み手をした。


「してねえよ、そんな事。久しぶりだな、相変わらず美人じゃねえか。ビールでも持ってくか?」


「ふうん……ま、いいわ。アルコールは要らない。部屋、しばらく借りるわよ」


 レイラは男の手に札束を握らせると、そのままオンボロの階段を上がっていった。スラム街特有の汚物臭が一気に安物の化粧品臭に変わる。嘘くさい喘ぎ声がこだまする中、二人は空き部屋に足を踏み入れた。


「奥にベッドがあるから座って。裸足で逃げてきたの? 傷だらけじゃない。お湯を持ってくるわ」


 びしょ濡れのアンナが手探りでシーツを探し当てる。気が引けてしまった彼女はそこで立ち止まってしまった。腰に手を当てたレイラが何を今更と笑いかける。


「そのぼろ切れを脱いでベッドに入りなさいよ、アンナ。寒かったでしょ。顔が真っ青」


「ここは貴方の何?」


「セーフハウスみたいなものね。まだトロイの幹部だった時に、売春宿を丸ごと買ったの。州警察はクズ野郎の狂信者ばっかりでしょ? アイツの嫌いな場所は監視も手薄ってわけ」


 クズ野郎――ヨシュアの事を言ってると理解したアンナは、ぼろ切れを脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだ。お湯を取りに部屋から出ようとしたレイラに声をかける。


「ありがとう」


「お礼ならキングとカインに言って。二人はアンタ達の為に命がけで戦ってる」


 




「こんなものしかないけど」レイラが娼婦用の寝間着を渡す。袖を通したアンナは、たらいの湯に足をひたした。あぐらをかいたレイラが鼻歌交じりに傷を洗い流す。


 アンナは、立ち上る湯気の向こう側に懐かしい匂いを感じた。ミルクの匂いだ。あの日のエヴァと同じ匂い。香りの主はレイラだった。


「レイラ、妊娠しているの?」


「ええ。動き回るなってカインがうるさいのよ。だから今回は後方支援に回ったんだけど。二人の気が散るといけないから、視覚共有を遮断しちゃった」


 以前のレイラはもっと刺々しい物言いをする女性だった。二人が最後に対面したのは、ジョージが死神化する直前だ。当時のレイラはまだ、アンナとヨシュアが本当の二卵性双生児だと思っていた。血を分けた弟、キングに恋するアンナを憐れんですらいた。何も知らないお姫様だと。


 アンナはマグカップの白湯に口をつけた。ただのお湯なのに、冷え切った身体にはほんのりと甘い。思わず顔を綻ばせつつ、命がけで戦うキング達を想った。傷口を洗い終わったレイラが顔を上げる。


「それにしてもひっどい頭だわね。誰がやったの? まさか自分で?」


「兄……ヨシュアがやったの。ずっと拘束されてたから、気が回らなかった。そんなに酷い?」


「酷いなんてもんじゃないわよ。所々禿げてる。後で整えるわ。その……以前はごめんね。アンタがここまで覚悟を決めてたなんて思ってなくてさ。馬鹿にしたような事を言っちゃった」


 柔らかいミルクの香りが近づいて、優しくアンナの頭を撫でる。ずっと我慢してきた何かが決壊して、アンナは唇を震わせた。温かな涙が頬を伝う。


「私こそ。ヨシュアを終わらせるのに失敗したから……こんな事になって、本当にごめんなさい」


「言わなくて良いよ。あの時の事は大体知ってる。辛かったね、アンナ。前の特別顧客とはこっちも上手くやれてたからさ。残念に思うわ、オリヴァーの件は」


 父オリヴァーの死。アンナには嘆き悲しむ時間すらなかった。堪らずレイラに抱きついた彼女は、妊娠で膨らみ始めた乳房に顔を埋め声を上げて泣いた。かつて、エヴァにそうしたように。


 ふと、革の匂いに気づいたアンナがレイラの顔に手を伸ばした。


「目、どうしたの?」


「私がもう一体のブラックダイアモンドだってのは知ってるでしょ。保険よ。。カインの為になりふり構ってられなかったの」


「……私達、二人とも酷い有様ね」


「ホント。これが終わったら、キングにたっぷりと嫌味を言ってやるんだから」


 不安と緊張の糸が切れて泣き続けていたアンナが微笑んだ。束の間の安らぎにレイラも微笑みを返す。ずっと会う事はなかったが、二人はある種の戦友だった。


「アンナ、何があってもキングを離しちゃダメよ。あの馬鹿、一人で全部背負い込むつもりだから」


「ええ。キングにだけ全てを背負わせたりしないわ。絶対に」


 それまでずっと強かった雨足が徐々に弱まり始めていた。





 ◆





 時は少し進んで現在。


 キングのマンションでは、クロエがはしゃいだ声で料理をしていた。どのくらい眠っていたのだろうか。ジョージは出汁の香りで目を覚ました。それまで全く動かなかった身体に力を感じて、ゆっくりと起き上がる。


 ジョージは改めて部屋を見渡すと、腹部に手をやった。


「ここに、卵をいれるの」


「クロエさまは料理がお上手ですね」


「知ってた? エマ。卵って栄養があるんだよ!」


 キッチンから聞こえる無邪気な声にジョージの頬が緩む。心臓の傷は塞がっていたが、生々しい跡が残ったままだ。胃の違和感に顔をしかめたジョージは、胸の傷跡が消えゆく様を眺めていた。


 キングのヤツ、偶像を叩いただけじゃなく、血も分け与えていったのか。


 ジョージは戦闘の後半、偶像が弱り始めてからの出来事をぼんやりと覚えていた。


 ここまでするには、相当の血を使った筈だ。

 大丈夫なんだろうか。


 幾らキングでも、身体が持たな――


 突如として激しい吐き気がジョージを襲った。堪らず口元を押さえたジョージの口からあふれ出てきたのは、


 ブラックダイアモンドとは、人類の記憶を収めた生体チップだ。バラバラと音を立て、チップが口から零れ落ちてゆく。


 胃袋から、偶像の笑い声が聞こえてきそうだった。

 悪意の化身。死神偶像。


 そのおぞましい執念におののいたジョージ。彼は毛布に零れ落ちたブラックダイアモンドを集めると、一つ残らず飲み込んだ。一連の音でジョージの覚醒に気づいたエマが、キッチンから出てきた。客室のドアを叩く。


「ジョージさま」


 声をかけたエマに、シィーッと指を口に当てたジョージ。首を傾げたエマが歩み寄って小声で尋ねた。


「どうされました?」


「俺はここに長居出来ない。というか、俺の命は長くない」


 ジョージを連れ戻った時、キングは少しも嬉しそうな顔をしていなかった。それどころか、悲痛に塗れた表情をクロエに悟られぬよう作り笑いすらしていた。


 ジョージの寝顔を見つめるキングの顔は、何かを覚悟していた。


「坊ちゃんがされていた表情から、何となく察してはおります。けれども、直ぐに発たれるおつもりですか?」


「いいや、きちんと話をするさ。今度こそは。ただ、それまで合わせてくれないか」


 やりきれない思いで頷くエマの背後で、元気よくドアの開く音がした。クロエだ。彼女は一刻も早く豆腐スープをジョージに食べて欲しくて、熱い器を持って笑っていた。小さな手が真っ赤に染まっている。


「あらあら、クロエさま。火傷をしてしまいますよ。私が代わりにお持ちしましょう」


「やけど? このくらいのアッチッチ平気だよ。私、産んだ人たちから『はいざら』って呼ばれてたや」


 クロエに入浴させた時、煙草を押しつけた痕が無数にあったのを思い出した二人の顔が曇った。それが日常だったクロエは、二人を不思議そうに見ると、器をジョージの元へと運んだ。


「ありがとうな、クロエ。でも、アッチッチは俺が悲しいんだ」


「どうして?」


「大切な我が子に傷が出来るのは耐えられない。それが親だからさ」


 器を受け取ったジョージが優しく笑いかける。小さな手は赤くなっていたが、火傷まではしていない。安堵の溜め息をついたジョージに、クロエが豆腐スープを飲ませた。


「あっつ! 熱いよ、クロエ」


「私の料理は美味しいって言うでしょ! ジョージ」


 レンゲに載せられた熱々の豆腐に、ジョージが苦笑いする。エマもあらまあと言う顔で困った笑顔を浮かべていた。


「卵も入ってるんだよ。ジョージは元気にならなきゃでしょ? 沢山食べて」


「分かったクロエ、美味し……あっつ! あつ!」


 口を開けた側から、クロエが熱々のスープを流し込む。それでも嬉しそうに笑って、されるがままになっているジョージ。そんな彼を気遣って、エマがアドバイスをした。


「クロエさま。スープはふーふーしてから差し上げた方が、より美味しく感じますよ」


「あや。ジョージ、ふーふーする?」


「うん。折角、クロエが作ってくれたんだ。味わって食べたい」


 ジョージにお願いされたクロエは、丸い頬を膨らませてレンゲに一生懸命、息を吹きかけた。ジョージとエマは目を見合わせると、その愛らしい姿を永遠に見ていたいと願った。


 口から漏れ出したブラックダイアモンドと自分の余命。話はキングが戻ってからでいい。そう思ったジョージは、目の前にいる世界で一番愛おしい存在との幸せを、ただ享受した。





 ◆





 エデンの家地下では、セブンの死体を前にヨシュアが佇んでいた。革靴で小突いても、亡骸は動かない。しばらく小突いていたヨシュアは「本当に死んだのか?」と独りごちた。伏せていた顔を上げて周囲を見渡す。


 地下広場は、石柱一本が完全に折れて天井に亀裂が入っていた。鏡張りの部屋も原形を留めない程に破壊されている。


 ジョージとアンナもいなくなった地下広場で、ヨシュアが叫んだ。


「偶像! どこにいる。返事をしろ!」


 偶像はジョージの中だ。返事などある筈もない。ぼんやりした顔で天井を見上げたヨシュアは「アンナ!」「ジョージ!」と次々に叫んだ。


 しかし還ってくるのは、天井を伝い落ちてくる雨の残骸だけ。


「そっか。皆、僕から離れていくんだ」


 子供のような口調でぼやいたヨシュアは、落ちていたれきセブンの頭部を破壊しようとした。だが、どうにも手が動かない。なんなら興奮もしなかった。「相手は玩具だぞ」自分に語りかけたヨシュアは結局、生来の加虐性を発揮出来なかった。おざなりにれきを放りだす。


 そのままきびすかえしたヨシュアは、地下室を後にした。地上では、ノーマンが待機している。その後ろ姿にセブンを見たヨシュアが、いつもそうしていたように肩に手を置いた。ノーマンは、キング殺害という利害の一致でヨシュア側に付いたに過ぎない。女性の恋人がいる異性愛者だ。


 ヨシュアの男性を触る独特の手つきに、ノーマン目が一瞬だけ嫌悪の色に染まった。相変わらず、心ここにあらずのヨシュアがセブンではないのか? と言った面持ちで見つめる。


「大丈夫ですか? 特別顧客」


「ああ……うん。この教会を爆破してくれ。ガス漏れによる事故という事に」


「かしこまりました。プルトの拘束が完了したと、ルルワの構成員から」


 しかし、ヨシュアはノーマンが報告を終える前に、エデンの家から出て行ってしまった。ノーマンの恋人、レベッカの運転する車に乗り込んだヨシュア。彼は自宅ビルに到着するまで一切、口を開かなかった。





 夜のスラム街が欲望で活気づいていた。相変わらず嘘くさい喘ぎ声がそこかしこから聞こえる売春宿に、キングとカインが到着したのは21時過ぎの事だった。


 ぐったりとしたキングを背負ったカインが、ドアを蹴破る。


「ちょっと! 足があるならノックくらいしてよ」


 慌てて駆け寄ったレイラにカインが改めてドアを見た。彼はテロリストとして英才教育を受けているが、行儀に関しては集落を出たばかりのキングと大差ない。


「ヨシュアと同じ顔したコイツを担いでくるのだけで精一杯だ」


 ぶっきらぼうに吐き捨てたカインは、キングの身体をゆっくりと降ろした。アンナも直ぐに走り寄ってきたが、キングの意識はもうろうとしたままだ。レイラは再び、お湯を取りに階段を下りていった。


「二人とも大丈夫?」


「俺よりもキングの心配をしてやれ。血を使い過ぎた」


「ジョージは?」


 レイラが急いで戻る足音が聞こえてくる。カインは立ち上がると「走るな、危ないだろ」そう言って、レイラの持っていたバケツを代わりに持った。冷たくなったたらいの水を窓から捨て、新たに湯を張る。


「ジョージはキングのマンションに居る。死んではいないが、大丈夫というわけでもないらしい。詳しい話を聞く前にコイツが倒れた」


「カイン、服を脱いで。傷の処置をするわ」


 ギョッとした顔でレイラを見たカインは、首を横に振った。アンナは盲目とはいえ女性だ。トロイの少年兵がカインをする時、誰もが彼を『石頭』と呼んだ。女性に対する潔癖さも含めて。


「俺はかすり傷だからいい」


「ガラスの破片だけでも取らないと、破傷風になるわよ」


 気を遣ったアンナが頭からサッと毛布を被った。居心地が悪そうに服を脱いだカインを迅速に処置してゆく。その辺りのあんばいは流石レイラだった。私情を挟まず衛生兵に徹している。キングは依然ぐったりとして、意識があるように見えない。


セブンは死んだ」


 ポツリと告げたカインの傷口を縫いながら、レイラが答える


「そう。ようやくけじめがついたわね、カイン」


「まあな。ところで、キングに輸血って可能なのか? どうにかしないとヤバいぞ」


「あの……私の血を使って。偶像の血なら、私にも入ってるんじゃないかしら」


 被った毛布の中から必死に訴えるアンナに、カインとレイラが顔を見合わせた。


「キングの話だと、アンタは遺伝子をいじられただけだって。偶像の血は入ってないらしいわ。やっぱり、プルトを遠ざけるべきじゃなかった」


「そもそも、死神の血なら大丈夫なのか? 思えばキングの身体がどうなってんのか、俺らは全く知らないんだよな」


「……本人も分かってないわよ、多分ね」


「私の血を使ったらどうだい」


 突如響き渡った声に、三人は凍り付くしかなかった。気配が全くなかったからだ。戦闘態勢を取ろうにもカインは結構な怪我をしている。レイラは身重でキングは意識がない。アンナが一人、痩せた身体を投げ出して全員を庇った。


「誰?」


 ドアの隙間から眩いばかりの光が漏れ出して、ゆっくりと扉が開く。光の中に居たのは、革ジャンにジーンズ姿の老婆だった。煙草を口にくわえている。


「跡をつけるような真似をして悪かったね。私はセツコ・モリシタ。ジョージの叔母だよ。今回は甥っ子の為に本当にありがとう」


 いくら何でも情報量が多過ぎる。ぜんとしたレイラの声が自然と大きくなっていた。


「ジョージの叔母さん? はっ? えっ? 意味が分からない。どうして死神と同じ事が出来るわけ?!」


 セツコは部屋の中にズカズカと入ってくると、一切のちゆうちよなくキングの心臓に手を突き刺した。額が割れて、中から第三の目が覗いている。状況が把握出来ず、黙り込むしかない三人に向かって、セツコがニカッと笑いかけた。


「キングから聞いた事ないかい? 死神の能力を譲渡出来るって話。。死神ほどの力はないがね」


 セツコの全身が内側から光り出して、キングを包んでいった。





 -第三章最終エピソード『本当の悪魔』につづく-


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