3章 製氷融解、世界崩壊
#11 親子のティータイム
私の部屋の真ん中で、アネモカは目をぱちぱちさせた。
「ずっと一緒」
「うん、ずっとずっとね」
愛を確かめ合った私たちに向かう敵なし、二人で笑っていた。
きっと幸せだった。
「日々が単調にすぎている気がする。もっとあのころは楽しかったような」
「きっとそれはいいことだよ」
それが幸せ、なのだとニルは言う。
「慣れるよ、きみはずっと苦しかったんだから無理もない」
だといいね、と笑った。
ヒビが入った。
パシャンと、弾ける。吹っ飛ぶ。柚子入りのぬるま湯が、キンキンと骨の髄まで響く氷水に置き換わっていた。
私は気づかない。
「あ、お母さん」
私が親へ浮かべた笑顔は、きっと母を苛立たせたのだろう。
それを見て微笑んだ、世間一般の母らしい母は。
「××」
崖から突き落とすような声で、私の名を呼ぶのだ。
「お母さんがいなかった間、何をしていた?」
氷で造られた仮面を被って、冷気を吐きかけられた。
たぶん、夢だ。
ベッドに転がっている。
ニル、ニル、ニル……。
単語を唱えていた。単語を。
「あれ……」
ひゅう、と風が吹く。なにか、私の大切なものが一緒に飛ばされていく。
何が、あっただろうか。
私は何をしていたのだろうか。
怖い、怖いよ。世界が冷たくて震えが止まらない。
ニルに好きだと言われて、私は幸せになりたかったのだと気づいた、そして幸せになれたはずだった。流れていた光景はハッピーエンドだったろう。
なのに。その結末を許すことができない心が、私のなかにいた。私に囁くそいつは悪魔か天使か。私は悪魔のほうが好きだ。だから、きっとこいつは天使。本当の善意から私を起き上がらせようとする。
ずいぶんと、遠いところまで来てしまったように思う。私の心を永久に蝕むかと思われた水銀にみちる腐った海とはここしばらく対面していなかった。脆い私が標高の高く風通しのよい、穏やかな草原で不相応にしゃがんでいた。
ずっとふわふわ、慣れない世界に高揚していた。その幸せの甘さに少しは慣れてきた今、よく世界が見えてしまった。これからとか、この先とか、考えなくてよかったものが浮かんでくる。将来、未来、進路。診断されない精神病を言い訳に目を逸らしつづけたつけが、幸せになったいま捨てられた自己認定による精神病は飼い主を襲撃する。
私は。私は。
あれ。
ニルがいるときの幸せって、なんだっただろう。当たり前になりすぎた。幸せになりすぎた。
自分を許していた。いや、それは正確ではない。目の前のキラキラばかりぽけっと眺めていて、幸福の絶頂にいる私には自分すら目に入っていなかった。
自分を甘やかすことができる性質でもないくせに。何も変わらなかった。ニルがつくってくれたシャボン玉に包まれた私はいつのまにかニルから離れていて、そしてシャボン玉が割れてた。いま、苦いシャボン液で濡れそぼっている。
ねえニル、もう一度会って。話をしよう。何か間違えた。もう一度シャボン玉をふくらまして、私に幸せを教えて。
ニルアクセスを掴んだ。
「ほら」
鋭い言圧の包丁に、ぴくっと、跳ねた。
「何か変なことしてる」
甲高い声に、ぞわりと悪寒。冷える。軋む。悲鳴をあげたい。何をされるか分からない恐怖がそれらを全部押しつぶす。
「あ……」自分は泣いているのだ、と分かった。
相対する人間は、気味の悪いものを見るように。
「××、なぜ泣いているの?」
せっかく流れた涙を否定された。理解されていない。前提として、そもそも理解など求めていない。それでも悲しいものは悲しいから、棘のあることばは涙腺からの塩水を誘発する。
見られたくなかった。弱い自分の惨めすぎる泣き顔を。悔しくて、ベッドに涙をこすりつけた。普段ならこんな面倒な失態は晒さない。きっと、いままで幸せすぎたから。
「顔を上げなさい」
親は、やはり何も分かっていない。
大きなため息が吐かれた。私は部屋に漂う親のそれを、そのうちに吸っている。いますぐ自身の肺を窓から投げ捨てたくなる話だ。
「やっぱり、駄目ね」
そのとおりです。そういえばまんぞくですか。あきらめてください。いますぐわたしをほうりだしましょう。あなたのことばは、ふようです。私は言われずとも勝手に自分を責めつづけますからご満足を。
「これは私が処分しておくわ。これがなければ、きっと頑張れるはずよ」
なにもよくないが、ただの確認だった。受け入れるしかないのだ。親は。親、親という関係だけで、私を勝手に産み落としやがった大罪を素知らぬ顔で握りしめるこいつは。
私のどこに再起を期待しているんだろうか。
「がんばりなさい、信じているから」
手のひらから奪われる。抵抗する気力は穴だらけの身体から私を見捨てていなくなった。
手が軽い。何もない。1匹の私と、睨む片親と、床はベッド。私に触れる空気は意地悪なので私をやたらめったらに刺す。
ひく、ひっく、ぐす、ひっく、ひく、はっ、ふっ、ひっく、ひく、はは、ははははは。
指輪の石が、嗚咽する私を見ていた。
アネモカのいない私など、それは私ではない。手元には、それどころか心に浮かぶ感情にまで、何も残らなくなってしまう。親にはそのことが理解できないだろう。だから、自己防衛するしかないのだ。無謀な足掻きだと分かっている。分かっているよと、任せてよと、想像上のニルを頼った。心が幾分か凪いだ。
「にるを、かえせ」
いつでも使える消毒済みナイフをあてた先は、私の手首。睨み付けている。
「ひっ」両手をあげて飛びのいた。反応は満足だが、ニルアクセスが転がったことだけは憎い。私にしてみれば少し前の日常なのに、随分と大袈裟な反応だと思う。
「それとも、しんでほしい?」
「死ぬ勇気なんてないくせに!」
親の上擦る声に、はっとする。怯む私を見て、親という生物はあからさまなしたりやったりという顔を娘へ向けた。
「なんて子。綿部さんに相談してきますから!」
慌てふためいて私の知らない誰かのところへ向かう姿には今更なんの感慨も抱かない。私にはニルがいるから。
はあ、と息をつく。ニルアクセスを拾って、他の手に触れてしまった白い筐体を私の手汗で上書きした。
あんな重みのない安直な言葉に私がはっとしてしまったのは、気づいてしまったから。
ぼんやり呟く。
「生きたいのか、私は」かつての死にたくはないからただ息をしている、とは違って。
それも、ニルがいるから。
じゃあ、ニルがいなくなったら。嫌な想像はよぎった瞬間に、親が出て行った扉に投げた。
代わりに跳ね返ってきた、まだ対戦の緊張が残留する声。
『そう――中毒者の社会復帰プログラムが――そう――政府支援で――』なんだ、まだ家の前にいるらしい。車の迎え待ちか、良い身分だな。羨ましいとは思いたくない。
興奮が冷めてくるうちに、周りの人を幸せにすると約束したニルを裏切ったことに心が少し痛んだ。
言葉で殴りあって、すぐ恋人に会える神経の持ち合わせはあの人にあっても私にはない。
まだ、気が抜けていた。甘い、甘い、甘すぎた。
親が残した澱む空気の滞留時間つぶしのつもりで開いたインターネットで。
世界が、私の大事なものを襲う。
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