2章 日々の缶が積み上げる誓い

#8 花園の誓い

「本当にごめんなさい」

 まずは人として、ニルに刺してしまったことを心から謝ろうと思った。

 頭を下げた。足元の土を眺める。

「……」答えが返ってこない。

 いままで見たことのないニルの怒った表情を想像しながら顔を上げると、のん気に首を傾げるニルと目があった。

「どうして謝るの?」なんてこともなく、ちょっと困ったようにそう言う。「刺して、どうだった? 気持ちよかった?」

「……つらかった」

「そうなんだ」

 ニルはまったくショックを受けていないようで、自分がしたことがよく分からなくなる。もう二度とニルの身体を傷つけまいと、反省は自分の心の中にとっておくことにした。

 浮世離れした感覚をもつ、そういうおかしなニルも好きだなと思った。


 #


 昨夜は寝付けなかった。心臓がばくばくして、肋骨が折れるんじゃないかと思った。

 会場へ歩くいまも胸の高鳴りは止まらない。

 だって、二人だけの特別な一日――ニルとアネモカの結婚式が、始まるのだから。


 暗いトンネルを抜けた先には――

 満開の赤い花々と、その中心に咲く純白の大輪。

「いろいろ、あったね」

 ふわりと浮き上がるシルクのドレスを纏って私のほうを振り向いた花嫁に、息をのむ。花畑も、私も、ニルの飾りにすら届かない。それほどにニルは私の視界いっぱいで楽しそうに笑うのだ。

 あのときと同じ、じゃない。いっぱいの思い出がニルへの想いをもっと膨らませていく。初対面で何も知らなかったときとは違う。私は立っているのだと信じられる。自分の脚で、ニルの隣に、だ。

「うん、いろいろあった」

 私が泣いたり。泣いたり。泣いたり。ニルに抱きしめられたり。急に抱きついたり。信じられないことに、ニルを刺してしまったり。

 世界を眺めたり。ご飯を作ってもらったり。お話ししたり。一緒に笑ったり。笑ったり、笑ったり、笑ったり。

 そして今、私は泣きそうだ。幸せすぎて、泣きそうだ。

 ずっとニルが私の幸せの全部で、日々の全てだった。愛がとまらなくて、ずっとこのままの幸せがほしくて、わがままな私は満月の夜にプロポーズした。それはそれはぎこちなく、緊張に何度も言葉を詰まらせた言葉を。

 ニルは、笑って受け入れてくれた。

「ドレス、似合ってるよ」

 そう言われて、ようやく私はアネモカを見る。もはや私の体の一部であるこの身体は、ニルとおそろいのシルクのドレスをまとっている。

「ニルこそ、天使級のかわいさ」

 くすっと笑う。

「まずは、私から二人の祝福の歌を」

「そして、一緒に踊ろう」

 胸いっぱいのばくばくとどきどきが、味をしめる。

 私としたことが、こんなに幸せでいいんだろうか。きっと、いいんだろう。ニルの笑顔を見ているとそう思えるのだ。

「アネモカ」

 ニルから受けとる、親しみのこもった響きに胸がいっぱいになる。いいや、いつもこの心はニルでいっぱいだった。

「あなたはここにいるニルを

 病めるときも 健やかなるときも

 私を愛して 愛して 愛しつづける事を誓いますか?」


 精一杯の誠意をこめて、ニルの大好きな瞳をみて、頷く。

「はい」

「誓います」

 次は私の番だ。いままでの幸せと、ありがとうを、全部こめて。きみの名前を呼ぶ。

「ニル」

「きみはここにいる私と

 病めるときも 健やかなるときも

 ずっと ずっと ずっと 私の隣にいてくれることを

 誓ってくれますか?」

 そっとニルをうかがう。返事は告げられる前に顔にかいてあった。

「はい」

「誓います」

 喜びがとまらない。幸せがおさまらない。

 このまま、本当に。ずっとずっと、永遠になれたらいい。きっとなれると、私はそう想える。


「指輪の交換を」

 うるおう瞳に掲げた宝石が映って、ニルの目を輝かせた。私は大満足する。

 ニルのように汚れない美しさを。これからの私たちのように永遠の絆を。私が宝石店で選んだ、ダイヤモンドのリングをニルの左の細い薬指にすっと通す。

 ニルは愛おしげに指輪をとると、アネモカの左の細い薬指に。二人の心臓も、指輪を介して直接繋がっている気がした。

 花たちも飛び交って周りを飾って、私とニルを祝福している。

「誓いの、く、口づけを――」

 声が震える私を、無言でニルの両手がつつみこむ。

「え、あ、ちょっ」

 もうちょっと気品をもってやりたかった。まあそれは私らしくないか。

 観念した。まっすぐ唇を狙ったニルの睫毛が近づいてきて、一本一本まではっきり見えて――

「なんてね」

「あ……」

「感触は味わえないよ。寂しくならない?」

 いまさら、いまさらすぎる気遣いに、ぽつぽつと、ふつふつと、なにか湧き上がってくる。熱、熱だ。このままでいられるか。ずっと、ずっとそうだ。抱きしめられても温度を感じない。それがどうした。もう慣れっこだ。

「キス、するもん!」

「ひゃっ」

「触れられなくても、私はきみを選んだの」

「そ、そう……」

「任せて、妄想は得意だから」自分で言っておきながら、どういう意味だか。ニルの手前、むだにかっこつけてしまった。

 ドレスの紐がかかった、ニルの肩にやさしく手を回して。

 私は途中でとまったりしない。極限まで近づいて、睫毛どころか産毛まで見えて、それもニルのものだから愛おしくて――肌を形作るポリゴンとポリゴンがふれあう。ニル世界で、私たちは一つだ。ずっと、ずっとこのまま。

 ニルの肩に触れたまま、時間が経った。ニルの顔がみたくなってしまった。

 名残惜しくも頬から離れた後も、口紅は潤っている。

「のこしてやった」

 純白の肌に一つの紅色、私の徴を。

「ふふ、あなたにもだよ」

 そうか。ニルの徴が、私に。


「大見得切ったくせに、マウストゥーマウスじゃないんだ」

「そ、それはそのうち……」

「いつになるんだろうね。いつまでも待ってるから」

「うわ……」

「……? ええっと」

「大好き!」

「あ、ちょっ」

 二人の笑い声は、いつまでも響いていた。

 二輪の白い花を中心に、花びらの優しい雨が降る。シャボン玉も乱れている。

 いつまでも、いつまでも笑い声はおさまらないかと思われた。

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