#7 裏、開発者
蝙蝠一匹と人間一人の見える世界は違う。多くの蝙蝠は洞窟の中にいる。多くの人間は地上に文明をつくりそこへ住む。環境が違えば、見えるものが異なる。
それだけではない。蝙蝠は人が聴き取れないほどの高音、超音波を聞くことができる。
人間はある程度の帯域の色を識別することができる。蝙蝠の目は、退化している。
人間が蝙蝠に文字を突きつけても理解以前に視野へ届くことすらないし、蝙蝠が超音波を放っても人間には聞こえない。両者が理解しあうことはできない。
だけど、それは起源からではなかった。もとは同じ祖先だった。長い時、生と死を重ねる中で哺乳類が誕生し、自分が見えている世界、その場の環境に適合させるべく自分の身体と心を造り変えてしまった。絶望的なほどに両者の隔たりは深まっていった。
もっと小さなスケールでも、たとえば私と隣の席のあの子の間にも、同様のことは起きている。人間という共通の種として同じ器官と近しい感覚を持ちながら、生まれてからこれまで別の世界を見てきた。生まれた病院が違った。住む場所が違った。家族に連れて行かれる場所が違った。学校が違った。クラスが違った。親戚が、親が、兄弟が、出会った友達が、近所のお兄さんお姉さんが違った。多様な人と、違ったことを分かち合った。
いつものスーパーが違った。旅行先が違った。親が流すテレビ番組が違った。夕食の味が違った。日々染みつくものは、他者との細かなズレを生んでいった。
そして興味を持つものが、違った。
インターネットに触れた。好きなものを調べた。履歴が残された。SNSのアルゴリズムによってタイムラインを流れる内容は個人のズレを極端な方向へ捻じ曲げていった。
人間の脳が感じ、考え、見えている世界は一人一人、地球の面積以上の壮大さですれ違っていた。
戦争がおこったを見た。君と私では、意見が違っていた。お互いが抱いた感情は分からなかった。それを知覚したとき、寂しさを生んだ。わかりあえないことを、恐ろしいと思った。自分は一人で、他人の頭の中はのぞけなくて、想像しない結末で愛した人から突然嫌われるかもしれない。見捨てられるかもしれない。社会性によって生かされ、1人では生きていくことのできない人間は他者とわかり合わなかったときにどうなるか。隠された見えない凶器は恐ろしい。それは剃刀か包丁か、誰でも持っていて便利で、けれどたやすく人を殺す。
論争が起きた。残念なことに、戦争が起きた。
怖かった。
くらくてこわくて、さびしい世界。寒さに耐えられるように、また周囲の環境に適合した。その裏で、また誰かとのズレが生まれた。
いつも、分かりあえない世界はつまらないから、心は離れて自分だけの別世界を夢見ている。そこは、理想郷とよばれる現実からほど遠い世界になる。他の誰にも、知覚することはできない寂しい場所。だけど私だけの、秘密に守られた大切な場所。
きっと私が私をほどよく傷つけて慰めるための、やっぱり寂しい場所だ。
それだけでは限界があった。ちっぽけな自分一人だけの力では世界の輪郭がぼやけてしまう。不安定で、存在すら危うくて、やっぱり誰も認めてくれない。
傷つけるのも慰めるのも、自分嫌いがレバーを握れば結局は自分を落としていくほうへ傾く。
だから、誰かは他者の視線に晒された吹き通しの空の下に、自分だけのものじゃない別世界を創ろうとしたのかもしれない。それは、芸術作品。絵画、音楽、小説、漫画、アニメ――世界の表現は多岐にわたっていく。
集まった人たちで温かさを分かちあい、優しさを受けとるために。幸せをふくらまそうとするために。心が一時の気休めだとしても、満たされている。きっとそれは、素敵なことだ。
『【特集105】巷で話題の『ニル・アンヴェルト』監督・岡本聡大氏独占インタビュー!』
https://www.choujo^.net/article/feature105
――本日は、取材をお引き受けいただきありがとうございます。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。機会をいただき、大変光栄です。
――現在ニルの話題の中心は革新的なゲームシステムにあるかと存じます。開発のテーマをお聞かせください。
私たちは「理想世界」を目指しています。私たちは思考をつづけるために今立っている世界で生き続けることが必要不可欠ですが、それとともにニル世界もそのような存在になることを目指します。
依存と言えば悪い印象が付き纏いますが、ポジティブで自己向上に繋がるインセンティブを与えるという社会貢献だとお考えください。そのために現代技術の結集を図っています。
――現在話題の「メタバース」との関連がお見受けされますが。
ええ、米ゴーグル社との技術提携はそのような利点から構築にこぎつけました。ですが双方向性が重視される今日のメタバースとは違い、あくまでニル世界はユーザーが受動的であることが重要だと考えております。しかしユーザーがニル世界で成し遂げられることは少ないですが、それはニル世界が現実世界に与える影響が少ないことを意味しませんね。
――今回、詳しいシステムの概要をお聞かせいただけるとお聞きしました。
今回私が話したかったのはその点ですね。美しいゲームデザインの世界の裏で、アンケートや表情トラッキングなどを駆使して一人一人に最適な対応をはじきだします。人々によりそう、この作品でありたいのです。
――あのような課金システムの意図は何でしょうか。
ユーザー属性にあわせて、つまり収入と比べてですね、金額を決定しているわけです。社会の弱者には払えるだけ、強者にはより大きなご支援をいただきたいと考えております。
(中略)
――続いては編集部にも多く寄せられた質問です。「ニル」としての人格の正体とは、一体何なのでしょうか?
開発チームは独立していて、詳しくは話せませんが……これだけは約束です。オリジンは一人の少女、です。あとはお好きなご想像を膨らませてください。
――最後に、ファンの方々へどうぞ。
ニル世界〈Ver2.0〉もご期待ください。世界は一度だけ、繋がります。
「本日はありがとうございました! とても貴重な話をお聞かせいただけました。こんなに話していただいてよかったのでしょうか?」
「大丈夫、世界は終わるものですから」
退出ボタンを叩く。汗がべとりと背中に絡みついていた。体裁を取り繕うので精一杯だった。
無理を言って、深夜の取材にした。眠れない。いつもそうだった。頭はかってに動き出す。正しい方向などわからないし、もう止められはしない。
「私が、やりたかったことは」
ただ一つ、誰に与えられたともしれない使命に縋っていた。
「環世界とは、ドイツの生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルによって提唱された概念だ。すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動している。ユクスキュルによれば、普遍的な空間も、動物主体にとってはそれぞれ独自の空間として知覚されているらしい。わかりやすく言おうか。犬の耳は人よりも良い。犬の目には青信号が認識できない。そんなところだ。生命はそれぞれ異なった目や耳や鼻を持ち、別の世界が見えている。決してわかり合うことはできないだろう。そしてそれは、人間同士にとっても、そうだ。あの人は背が高い。あの人は少し太っている。この程度の違いならわかり合える。しかしだ。ちょっと思想を違えては誰も理解しようとしない。あの人は幼女趣味だ。あの人は人を殺したい。否定される。牢屋へGOだ。同じであることを求めるからだ。違うことは不安因子だからだ。人間は生存を、安寧を望むからだ。しかし、それが自由を奪われた人の苦しみを生む」
「その大それた思想を持つ者だけのことではない。渋谷スクランブル交差点の中心で奇声をあげることはできないし、大街道前の交差点でも座り込むことはできない。何かを怖がっているから」
「ならば、ならばだね。自分だけの世界があるのならば、それは大変幸せなことではないか。他に誰もいない仮想の世界なのだから、なんだって好きなようにできてしまう」
「その世界を理想郷と謳おう、それこそが芸術として人が短い生の中で追い求めてきたものだ」
「理想郷があれば、悲しい現実世界さえ理想をひきたてるスパイスにならないだろうか。ああ、なんて素晴らしいのか。どれだけ責め立てられたとしても、自由な世界がある。ある一般人からはくだらない無に映るかもしれない。それでも引き寄せられてきた仲間から観測したその環世界は、まさに現世にあるそれと違いない希望の楽園となるだろうよ」
「さらに言えばだ。現実世界から攻撃されることでその理想はより高みへととどくのではないだろうか。変わりなく続く世界で人は堕落しきってしまう。美味しい料理に舌が慣れきってしまえばそれが普通になってしまうように。それこそ現実と理想はどちらもほどほどに、というやつだ」
「さすれば、私の望んだものが完成する――」
その世界こそが、《Nil Umwelt》。
一人は世界を操り、悲しく頬を引き攣らせて笑っていた。
「これは泡沫が見せる夢だ」開発者である彼だけは、この世界の終わりを知っていた。
「ありがとう、世界」
その口調はどこか稚拙で、つとめて独善的だった。
こんな世界でも、別の世界を創らせてくれて、それだけありがとうと。モニターの光をみつめている。
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