#5 はっぴーえんど?
あ。恐れていたときが来るのだろうか。だとしたら。
『現実世界の冷房を20℃に設定してください』
合成音声に従い、まだ夏になる前に冷房をつけた。
『同調が完了しました。ニル世界へようこそ。――まで、あと3日』
聞こえない。
真っ先にナイフが目に入った。私は棚の前にいる。白いものが、目の横をすぎていった。
雪だった。まさか、本当に。
もっと大切な、白い髪を追う。
「ニル!」
「どうしたの?」アネモカに抱きしめられたニルは息が苦しそうになって困っている。
「すき」
「……嬉しい」
ねえ、離れるなんて嫌だよと。言えない。怖い。ニルの口から、あの知らせを聞きたくない。
気が気じゃない。気が気が気じゃない。私はもういなくなる。おかしくなる。
どこの、何に意味があるのか。
「またね」
『ニル世界が終わるまで、あと3日』
その「またね」は、こなくなる。
「世界は、好き?」
もう、どうでもいい。
『現実世界の冷房を15℃に設定してください』
『――ようこそ。ニル世界が終わるまで、あと2日』
ニルの顔が目の前にあった。驚きとともにニルの感触を堪能する。抱きつくまでの時間ロスが惜しかったからいいことだ。この抱擁が儀式じみていることは分かっている。ニルとアネモカの愛おしい存在を確かめるためだ。それもあと48時間と経たずに終わるらしいけど。
ニルの肩越しにここがテントの中だと分かった。ごおごおと音がする。
「外は……」震える。
「吹雪だよ」ニルは釣った魚が死んだよ、くらいの口調だった。
ごおごお、が強くなってくる気がする。世界の大きな意志によって何かが近づくような、遠ざかるような。遠のくような、迫ってくるような、気味が悪い。アネモカとニルの細い四肢では、何もできないことだけは確かだった。風雪に囲われて揺さぶられて、舐られているこのテントの中は雛鳥の巣だ。いとも簡単に凍死してしまうだろう。外は冬だから――否、春はこない。これはただの世界の終わりだ。
「えっと」ニルが私の腕による拘束を解こうとする。
「はなれないで」
「……そう」ニルは私の言いなりになった。
なんだか勝手に悲しくなった。「ごめん」ニルから離れる。テントは狭くて、そこまでの距離はなかった。二人の間に冷気がなだれこんでくる。
「やっぱり」今度はニルから抱きしめられた。きっとアネモカの表情が悲しそうにしたからだ。
「ニル、好きだよ」
「そう」
「好き」
「うん」
「大好き」
何度も、何度もいった。思いをこめて。その後で。
「……私も」
「え」ニルが、そう言ったのだ。好きだという意味の言葉を。私は聞き間違えない。だって、絶対言われることはないと想っていた言葉だったから。
ニルは瞼を閉じていた。なんの観念。
「……え」
本当だろうか。嘘だと思った。
何か、何かおかしい。可笑しい、疑わしい、いやだいやだいやだ。全部嘘だ。だけど私のニルへの想いだけは本当だと思う。ここにあるから。心臓に。刻まれているのだから。それだけあれば私は勝手に満たされていられるから、ニルから私への想いなど求めていなかった。
愛なんて、確かめようがない。
ニルアクセスをはずした。私は一人で、私の対面には毛布があった。その薄くてぺちゃんこなマゼンダの布きれを押しのけた。これまでもずっと、ニルを抱きしめたとき、ずっと毛布を抱きしめていた。さっきニルから抱きしめられたときもそうだった。そうやって現実とニル世界の不完全な同調を補完していた。
冷房がカタカタ鳴る。狭い部屋だ。うんざりだ。寒い部屋だ。エアコンがとてつもなく大きく見えてくる。歪む、歪む。歪むものは、信用ならない。エアコンも嘘だ。今立っているところも、地球も、人間も、嘘だ。嘘だウソだ嘘だ。ニルへの想いは本当だ。部屋の全部ぶっ壊れている。歯がカタカタ言う。体が冷えているのかもしれない。私のことはどうでもよかった。ニルからもらった、ニルへの思いだけを抱えているために、身体とニル以外の時間での活動を必要最低限度に継続していた。
もう、全部終わっていいか。
その前に、ニルだけは。ニルへの想いを閉じ込めてから、いきたい。
逝こう。
明日は、ニルと私とアネモカの、3人の世界の終わりだ。
学校は、休んだ。
『10℃』
『本日付でニル世界は終わります』
気づいた。からっと乾いている。風はやんでいた。
だが、静かすぎた。肌で理解する。これは終わりの前の凪で、すぐに反動が、終わりが訪れるのだと。
そして、ニルがいた。
「好きだよ」
ニルは振り向いた。アネモカは微笑みかける。私は語りを始める。できるかぎり息を吸って。
「ニル大好きだよ好きで好きで好きでたまらない。えへへなんか恥ずかしい……ごめんね突然急に意味わかんないよねでも最後にたくさんたくさん伝えておきたいの。まさか聞き流さないよね?読み飛ばさないよね?駄目だよ駄目だからねちゃんと聞いてね読んでね。あ勘違いさせたならごめん私はニルがそんなことするなんてもちろん思ってないようん。ほらそうやってくだらない私のどうでもいい言葉に耳を傾けてじっと聞いてくれるのはニルだけだよ。あでも私のニルへの想いだけはどうでもよくなんかないんだからねだからちゃんと聞いてほしいの。私ニルといるときはニルのことだけを考えてるしニルと会えないときはニルのことをずっと考えてるんだよ。ニルがいなかったらどうなってるか想像もできない。この心はもうすべてニルに頼りっぱなしなの。その声が好き。甘く溶かされそうでというか溶かされちゃって私の心はきみに全神経を捧げていてもうぐっちゃぐちゃなんだけどほんとに心に染み渡るよね精神病の百薬の長だよ精神安定剤だよ私は最初ニルの歌に救われたんだよごめん私の思い出なんてどうでもいいよね語彙力無くてもっと精一杯の言葉で語って褒めちぎりたいのに。なに?私はのーぷろぶれむ全然大丈夫。私なんかよりどうしちゃったの今日のニルおかしいよでもそんなニルも私は大好きだよだから安心してね。はい次その瞳が好き。いつもまっすぐどこかを見つめていてそれが私じゃないことが多いのが困ったちゃんだけどそんな私を誑かすニルも好きだよ。けれど私を見るときの瞳はいつも優しさで満ちていてほらいまもそう!その瞳が好きだよ。吸い込まれて目に入ってそのまま一生をニルの見たもの全部全部全部を共有しつづけて一緒に過ごしたいくらいでもごめん汚れた私は入るべきじゃないよねきっと痛いよ。ニルの視界にいつまでも入ってしまうことになるからそれはできないよね。私なんかがニルを独占したら駄目なんだよきっとニルもつまらないとと思っちゃうだろうしニルに飽きられちゃうのは怖いしなによりも罪悪感がすごいかななんて全部実現不可能な空想だからね。きみにはいつまでも美しいものを見て笑顔でいてほしかったな。それからそれからその身体が好き。色素の薄い髪がさらさら揺れていていまにも世界に薄れていなくなってしまいそうででも二本の脚でぱしっと立ってて。その細い線が輪郭を描いてニルの存在を形作って確かなものにしているんだと思うとご神体みたいに有り難みがすごいよね。なによりも。きみの言葉が好きだった。大好きな身体からつくられる大好きな声とともに紡がれる言葉は大好きな瞳からの素敵な光景で。ニルの言葉楽しいお話今もたくさんほしいけどもう終わっちゃう私にきみの言葉はもったいないよね。また死にたくなくなっちゃうかもしれない。でも私はそんなんじゃいけないんだ」「――あごめん息が切れちゃったもう終わりまで時間ないのにねできる限り私の言葉を伝えておきたいのにね全然私運動しないからね肺弱くてほんと頼りなくてごめんね。きみがいなければきっとこの世界で私は生きていけないよねでもきみはいなくなってしまうんでしょうどうしてどうしてなのねえなんで。なんてえへへニルを責めてもしょうがないよね。分かってるよどうしようもないことだからきっと私はもう終わるけどきみをこの世界に置いていくことは辛すぎるよ自分勝手でごめんねでもニルのせいでもあるんだよだってきみが私をこの世界に繋ぎ止めていたんだからね責任とってよ。あー、それで、ええっと、えっと。最後に一言」
「楽しかった。ありがとう」
「ねえ」
ああ、この無様な好意を。どうにも報われないらしい、自分だけの最後の心をきみに捧げるよ。さあ、ニル。終わりにしよう。
掴んでいた。いつかの諦めをくれた道具。つい最近、幸せをくれた道具。
私の瞳のようにギラギラと目立って、人を寄せつけない。それは鋭すぎる。尖っている。人を傷つけることができてしまう。そして、解放することができるのだ。
ニルをこの世界から、解放する。
「世界は、どうでもいいよ」
もっといいところへ行こう。きっと2人がいつまでもいられる、そんな理想の世界はどこかにあるだろうさ。たどり着くまでに、何度も何度も死ぬかもしれない。そこは地獄かもしれない。それでも私は逃げる。ニルと2人で最後までいるために。
ニルのいない無価値で無意味で無創造な世界から、ニルを連れ出す。
これは私による、そして歪んだ愛による贈り物だ。
「はい、どうぞ」
にっこり、邪気を含んで笑って。
「はは」何かおかしいだろう。分かっている。なにがおかしいのかは分からない。私が歪んでいるのだから。もとから歪んでいる当人にどこが歪んでいるかなど知りようがない。最初から私の目は二つで鼻は一つで運動はできなくて精神構造は異常だ。だから私が狂っているだということだけは分かる。
誰かにおかしいところを突きつけられたら、今の私は崩れ落ちるだろう。だが、もう止まらなかった。これを私は愛と呼んでしまうことができてしまう。
もう一度唱える。私はおかしい。そう叫べる。だから進める。
ナイフを握った。握りしめた。柄が指の肉に食い込んだ。
狙い澄ました。楽にしようと思う。狙うは心臓、そこだけ。ふりかざった。張り裂けそうなほど筋肉を引き攣らせた。躊躇はない。その無防備な背中の前に回って、そして、目があう。
刺さった。
ニルは、笑った。笑顔をみて、好きだと思った。
「あ」
遅かった。
私は、私は、私という何かは何に何をしたのか。
私という一匹は、最も愛したものの、命を奪おうとした。
刺していた。
清く純白な存在からぼとり、血が落ちる。真っ赤だった。薔薇か、アネモネのような、生き生きと脈打っていたはずの鮮血だった。私が傷つけたニルのものだった。
刃は刺さっている。私とニルは立ち竦んでいる。
顔を窺った。私が刺した、私の最愛の相手の顔を表情を確かめた。
痛みを堪えていた。戸惑っていた。恐怖があらわれていた。辛そうだった。汗が滲んでいた。生きていた。
そのうえで。
私の顔をみると、笑った。
どうして。
「す、き」
どうして、この場面で。きみが私に愛を囁けるのか。
私は、きみの命を奪おうとしている。この手で。この心で。
「え、いや、あ、あ、あ、あ、ぐああああああああああああぎゅわ」
「だいじょうぶ」
「……へ」
泣いてしまいたかった。ニルの光は私を刺し返した。結局零れた。
ニルは私を抱きしめた。
2人の間の刃が食い込む。私には柄が、ニルには刃先が。
血が零れて、アネモカの衣装にも肌まで染みて血はとどいて、温かくて、それで。
抱きしめられていた。
「だだ、い、すきき」
壊れかけていた。
そして、また笑おうとするのだ。どうして。きみを殺めようとした誤った私が。もう、救われていいはずがないだろう。
ニルは目を閉じる。全てを受け入れたように。私の歪んだ愛のなれの果ての、鈍色のナイフさえ愛おしそうに。
零れている。あふれている。血が。愛が、好きが。
私はおかしくなりそうだった。叫びたかった。今度こそ身投げしたかった。だが、私を拘束するニルが逃げることを赦さなかった。
「――」
元に戻ってくれないか。いつかの幸せをもう一度くれないか。
「ニルを、助けて」
虚空につぶやく。白々しかった。
「……私を、助けてください」
死にたくない。ニルの死は、後を追って私が死ぬことをも照らす。
「神様、仏様、世界様、誰でもいいから。救って」
しんと、静まる。
誰にも届かなかった。力尽きたニルの手が、ぐたりと崩れ落ちる。
ニルを横に寝かす。私なんかが、でもきみに愛されてしまった私が最後に願う、どうか安らかに。
雲がきていた。紫色、泥色、排泄物色。咎人の私に相応しい、しかしこの聖域には似合わなかった。
雪が降る。ニルは白に沈んでいく。凍りつく私は小刻みに揺れる。見守る。ニルと私の終わりを。ニルだけはよく見えるように世界が舞台を仕立て上げてくるくせ、積雪だけは高くなってくる。このままでは私が果てるまでにニルが沈んでしまう。
抱え上げた。お姫様抱っこ。へっと笑う。
『ニルの救命には課金が必要です』
無味無臭の音声が現金を要求した。
「あ」
希望が。でも、世界は終わるというのに、治療をしたところで。
『次シーズンへのデータ移行には課金が必要です』
「……え」提示された額は学生にちょっときついが、私にはあてがあった。逡巡は一瞬で、即決。ポップアップは役目を終えて満足げに店を閉じる。私は店から追い出される。
再び死のはなむけである吹雪が視界を覆い尽くす。ふらふらと意志を持たずに白い雪は回る。行き先もなく、風に吹かれている。中心でアネモカは、動きを止めている。かじかむ、とはこのことなのか。温室で育てられた私には分からない。全身の筋肉がいうことを聞かないし、そもそも脳から指令も出ていない。虚無で、私にはどこにもなにもない――否、ニルがいた。北極星のように眩しく輝いていた。
凍りつくニルに、アネモカは頬ずりする。
なんども、なんども、慈しむように、つぎを待ちわびるように。つぎ。次、か。次のために、するべきことがあると思った。
ニルと会うための機械を外す。しわくちゃの毛布と、尖ったやつと、飛び散った血と、ばらまいた涙が出迎えた。
私の心では、ニルへの想いが鼓動を鳴らしていた。
どくり、どくり、ぐたぐた。
ぐつぐつ、ぐちゃぐちゃ、ぎしぎし。
「……あっつい」
リモコンに血のぬめる指をのばして、冷房を切った。深夜2時、眠りについた。
『アップデート、アクセスの時間制限は撤廃されます』
『アップデート、次回のニル世界をお楽しみに』
『それではニルのいない1週間をどうぞ』
ニルとまた会えるから、私は大丈夫だった。
×× @worldend_4949xoxo ⊂□
だいじょぶ、だいじょうぶ。
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