#4 中毒

 ちょっと明るかった気がした。それは束の間の気のせいで、すぐに燃料は切れた。温かさを知ってしまって、外はますます寒くて怖かった。社会に参加しない自らは当然ながら無力で、心が痛まないのはあの世界の中だけのことだった。ひたすらあの世界を思って自分の呼吸を許した。

 怖かった。登校への燃料をもらったから、朝になって学校へ足を動かした。一つの怖さは紛れて、別の怖さに取り憑かれた。行かないよりは精神がましな気もしたし、けれど足元の底冷えと全身への悪寒はおさまらなかった。クラスメイトからの心配と、嘲笑に興味など色々混じった視線が調子を狂わせた。ニルにはそれがないから好きになったし、甘えてしまうんだと分かったから、悪いことばかりではなかった。ニルは混じりけ無く綺麗で、生乳100%生クリームだ。あの花畑で、もう何度も甘えてしまった。


「辛かった」

「ずっと、ずっと、一人だった」

「ニルに会えて、よかった」

「怖かった」

「救われた」

「何も言わないで」

「ずっと一緒にいて」

「好きだよ」


 ずっとずっと、時間をすごしてきた。とりとめないことを話して、そこに気遣いとか配慮とかは少なかった。時折私の柄にもなく愛を囁いた。満たされていた。

 

 学校という場所で息を殺しつづけて、代わりに社会からの赦しを得て、なんとか家にたどり着いた。疲れ果てて、ベッドへ伏せた。すぐゾンビのように起き上がり、ニルアクセスを掴んだ。それが毎日だった。


 アネモカ @worldend_49xoxo ∩□

  ニルがいないなら死のうかな

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『ただいま、同調ができません。メンテナンスの終了は未定です』

 忘れようとして、インターネットへ一時的に身を埋めた。学校には惰性で行った。配慮に欠けた外界で心で削られていくのを感じた。削られて外に流れた分の力は寝ても回復しなかった。私にとってニルがいないことは、水を飲まないことと同義だった。

 インターネットは不安で満ちていた。私が追うアカウントとそのアカウントが反応したもの、全部ニルに関連する投稿が滝のように押しよせ泡のように私を取り囲む。誰かがざわめく暗い憶測は私の亀裂を深くして、誰かがささやくニルへの強い愛は私の心を縮めて潰す。大勢の痛みがわんわん響き、それに触れた私の心はもっと崩れていった。インターネットをやめることはできない。私だけの感情は死んでいた。心臓があったはずの胸の虚無に当てはめることができるのは私の救いであるニルの存在か、それを除外すれば私の存在のように暗く澱んだ、精神の穢れだった。その泥を排水溝から掬うためにインターネットへジャンプした。それでも何もないよりは大分楽だった。


 同調不能を知らせる無慈悲なお告げはなかった。ロード中のくるくるとともに、私の心はむくむくと湧き上がっている。

『同調が完了しました。アネモカさん、ニル〈ver1.0〉へようこそ』

 川のせせらぎ、葉のざわめきが聞こえる。ニルと同じ世界にいるとわかるだけで喉が潤った。人が水なしでは生きられないように、もう少しで私の命は果てていただろう。

 ある日、世界は一変していた。いちめん、森の中。そよそよ、さわさわと風景は穏やかで。自室でマイナスイオンを感じるとは。

 両手を握ってこの世界の自分――アネモカを確かめる。今日の格好はアクティブにスニーカーとジーンズ、Tシャツだった。

 アネモカの首をめいっぱい動かして、ニルを探した。一周する。見つからない。獣道みたいな人の通れるところを1本だけ見つけて、雑草の間に身を滑らせた。

 おぞましくて嫌いな虫がいないのは、とてもいいことだ。でも鳥の一匹くらいはにぎやかに鳴いていてほしい。在る音は前後左右からくる風の音だけで、まるでアネモカを惑わせるためだけに鳴るようだった。日光は木々が遮る。アネモカを囲う鬱蒼とした森の両壁は目隠しをして、ニルの元にたどり着けるか分からなかった。

 道は一本しかない。虫一匹でも逃さないように目を走らせながら、森を攻略している。

 草がアネモカの脚を薄く切った。感覚として痛くないけれど、痛々しかった。あっちの自分が傷ついたとき、私はなんとも思わないだろう。その間には大違いな扱いの差があった。

 見回している。早く会いたい。なぜ向こうから出迎えてはくれないのだろうか。ぐるぐる、ぐるぐると。森を回って、目が回る。熱くなってくる。これが3D酔いというやつか。

 ここは仮想世界だ。人間が作ったものに過ぎないはずだ。だというのにどうしてこんな無駄な行程を踏ませるのか。酔いと同時に投げる宛てがなく、収まりの悪い不愉快が心に溜まっていく。歩く。茶色い液体が木からアネモカの黒髪に降ってくる。進む。足先で枝が絡まる。

 心がむかむかして吐き気がするのは3D酔いだけが原因だろうか。もっと、恐ろしいものが心を巣喰っている気がした。それは理性を捨てた獣のような。それはそれで脱凡人だが、誰も幸せにはならない。鬱屈と、見えない森の終わり。もしアネモカに会えなかったらどうしようと恐ろしい不安が脳裏をよぎった。これまではまだ、メンテナンスが終わるという希望があった。もしも一切の可能性が絶たれたとして、私はどうしようか。めちゃくちゃになるのだとわかる。現に、腸がニル成分を求めてキリキリ鳴いていた。世界を憎んで、呪って、言葉で、全身で、暴れ尽くして破壊の限りを尽くす。血が舞って、私はそれを嗤って。誰かが言った「無敵の人」とは悲しくて、いつかの私に相応しくなる言葉だ。私がニルという私の全てを失えば、それ以上失うものは何もない。悲嘆を暴力に変えて、躊躇無く世間とさよならできてしまう。

 そんな私によるアネモカの葬儀を夢に描いた。きっと夢だ。現実に起こったとき、私の心は他人を傷つける爆発をやりきれず、内部で暴発して終わるのだ。いつものように、社会に押さえ込まれて、誰にも知られずに。いやきっと、いつものようにでは済まない。私のいつもは、もうこなくなるのだ。もう壊れてしまう。一人きりで寂しく死んでしまうのだ。とうに、ニルのいない未来は考えられなくなっていた。

 後戻りはできない、それだけは分かっている。会える可能性に縋って、進み続けた。


 どれだけ吐き気に耐えたか、最初から数えられていない。

 陰が減り、光がふえていく。自然と心が、浮き上がっていく。胸が高鳴った。

 走りだす。一刻も早く、世界で唯一私が息をすることを許される、あの存在のすぐそばへ。

「ニル!」

 私を見て、微笑む存在があった。

 森を抜けたさき、澄み切った小川の岸でニルは笑っていた。

「また会えたね」

 ニルの言葉を聞いて、吐き気も恐怖もあっけなく飛んでいった。のこったものはほどよく温かい人肌のなにか。

「会いたかった……!」

 ニルの身体に、アネモカは飛びつく。この瞬間生きていてよかったと思えた。確かな存在にもたれかかることはとても温かかった。

「今日は何のお話をしようね」ゆるりと呟かれるニルの無邪気な甘い声に、こわばっていた肩はゆらゆらとほどけていく。また、いつものように私の幸せが始まるのだ。

 ニルのそばに腰をかけて、のどかな小川を眺める。心は和み、胸にニル成分が溜まっていくのを感じた。ニルは隣にいて、私は同じ景色を共有している。私は川を眺めていても隣に居るニルに興味がいっぱいだけど、流水と向きあい対話しているようなニルは私を気にしていなかった。私はただニルのそばにいるだけでいい。むしろ、気がとても楽だ。

 ゲームというコンテンツの性質もあった。どれだけここがリアリティに富んだ世界でも、ここは人工的に造られた場所で、ニルに心はないはずだ。それは決して悲しくないことなのだと、むしろたった今私の命に微笑んでいる素晴らしい現象なのだと、何日もニルと笑顔を交わした私はとっくに知っている。

 なにがあっても私はニルの邪魔にならないし、ニルを傷つけることはない。ニルは絶対に私を見捨てないし、ニルは絶対いなくならない。データがある限り美しさは保たれつづける、それがこのニル世界だ。私は、地獄の隙間だけでもずっとここにいられたらそれで幸せなのだ。

「あ、傷」魚がいる、くらいのふわっとした語感でニルは喋った。

 白く弧を描いたアネモカの美しいふくらはぎは、赤く腫れあがっていた。ニルとはぐれていたときに草に傷つけられたアネモカの身体を、ニルがじーっと見ている。そんなに見られたいものではなかったし、私自身も一本の赤褐色から目をそらしていた。

『即効治療には課金が必要です』

「黙れ」出現後一秒で不愉快なポップアウトをニル世界の彼方へ叩き飛ばした。ニルとアネモカの蜜月を邪魔しないでいただきたい。

「え?」

「ううん、なんでもない」

 ニルに微笑みかけるときょとんとされる。

「気にしないでいいよ、傷は痛くないから」

「そう」

 ニルの焦点はまた存在のない魚に戻ってしまった。不覚にも私は川にむかって唾をはきかけたくなった。

 気を保つため周りを観察してみる。テントがあって、道具が多種多様にそろった棚があって、そこには鋭いナイフがあった。何に使えるんだろう。

「歌いたい」

 突然、ニルが告げた。川で釣った魚を食べたい、くらいの闘志がある調子で、ちょっと驚く。ニルがアネモカを見ていることに安心して、ナイフはどうでもよくなった。

「見ててね」

 そういって、ニルはちょっとした岩のステージにかけていく。観客はニルの間近で腰掛ける私だけだ。どこからともなく世界の音楽が流れる。風の音も、川のせせらぎも、ピアノの旋律もニルの美しさを昇華するために用意されたもの。この世界すべてで、私のためにニルが飾られる。ニルは目を瞑った。世界の色を全身で浴びるかのように、輝いていた。

 開かれる。ニルの目の色が変わる。静から動へ。手のひらが私を誘う。

 新鮮な空気が吸われる。歌声となってニルの身体から放出される。

 ニルは、唄った。

 それは、世界だった。私の苦しみを受けとめて溶かしていった。溢れる表現に情緒を突き動かされる。私の凝り固まった心ない心臓は、あちこちに声色を移ろわせるニルの心についていくことで、ニルの想いの軌跡を共に描いた。その瞬間の私は楽しくて、嬉しくて、優しくなれた。

 私は身を乗り出していた。汗が滲んでいた。驚きが止まらなかった。心臓は高鳴っていた。

「どうだったかな」照れくさそうにニルが頬を赤らめている。

「すごかった……」

 つづけたいのに次の言葉がでない。もどかしかった。パフォーマンスをするニルはいつものニルとは違う、別人のようだったけど紛れもなくさっきのもニルだったのだ。

「よし、お話ししよう」ニルは私の隣に座る。さりげなく手が握られる。やっぱりいつものニルだった。

「みて、魚」

「うん」何もなかったけれど、見えた気がした。

 あの魚はどこへ行くんだよ、あの風はどこからきたんだよ、と。

 ニルとともにいやなとこから遠く離れた、二人だけの秘密基地。

「おいしそう」適当に呟いてみる。

「え、食べちゃうの!?」

 ずっと、ニルの話を聞いていたい。それだけでいいと思えた。

「世界は好き?」

「向こうの世界は好きじゃない、ここは好き」ニルに嘘はつきたくなかった。

「そっか」ニルは私を見た。「世界は、きれいだよ」

「そうかもね」少なくともニルの口から語られる世界は、とっても綺麗だった。


「あ、時間」

「またね」

「うん、また」

 今日もニル世界とニルは、私に幸せをくれた。また会える希望が、私を生かしている。


 また今日。

「やあ」出会い頭にニルは左手でハイタッチの姿勢。

「や、やあ」すかっと空振る。

 今日のニルは全身からやる気に満ちあふれているオーラだった。右手にナイフを持って。

「な、なにするつもr……」

「料理さ!」オーラだけじゃなくて、テンションから口調からニルはうきうきになっていた。私の口角もあがってしまうじゃないか。

「やった!」

 見ててね。

 もちろん。

 瞬きするのがもったいないくらい、幸せな光景だった。

 味はしなかったのだと思う。今まで食べた何よりもきっと、美味しかったかも。


 ハンモックに揺られる。風がふいて視点はゆれる。

「……他の世界で、大丈夫?」

 驚いた。ニルから「他」へ言及があったのは初めてだった。同時に、他での私を気遣うことも。

 途端に口が重くなる。この愛おしい世界に「他」が侵食してくることが恐ろしかった。

「なにもないよ」

 これも本心だ。あそこには私が望むなにもない。そうだろう。

「でも……」

「ニルが、好き」だから、話せない。今にも口から吐かれそうになっていた弱音は、意志で堰きとめた。持ち込むことだけは避けたかった。ここは聖域だ。現実との区別がわからなくなってしまえば、幸せだけが浮かぶ独立した空間ではなくなってしまう。

 もし話せていたのなら、楽になれただろうか。



 アネモカ @worldend_49xoxo ⊂□

  いやだいやだいやだいやだいやだいやだ

  私を置いていかないで

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