1章 幸せはカフェモカ
#3 プル
平日の朝。とうに日は高く昇っていた。再生履歴に、広告がのこっていた。私は動画投稿サイトを開いて、流れてきた広告に救われたらしかった。
昨日の晩のことはよく覚えていない。朝起きたら、スプリングのカバーが大雨と別の水分でぐちゃぐちゃにされていた。頭と目がじくじく痛む。
もう一つの異変として、玄関先に、頼んだはずもない配達物が届いていた。送り主は『OverTrans』。あまり詳しくない私でも知っているゲーム開発会社。ガムテープを剥がす。スマホより一回り大きい、高級感ある白い化粧箱が入っていた。シンプルなゴシック書体でAccessNilと書かれている。箱のマット仕上げに、私の手汗がついた。ベッドへどさりと箱を置く。上部を引き上げると、するすると白い幕が上がっていく。中心に飾られた主役に思わず手が伸びた。
VRゴーグル、というやつか。雪が降ったばかりのようにまっさらな流線型のフォルムは弧を描き、私のことを待っていた。眼が入るところを覗くとディスプレイが埋まっている。表面を撫でてみると、指が吸い取られそうになりながら滑っていった。
送りつけ詐欺の可能性は考えなかった。わけもわからず漠然とした不安を覚えることには昨日の夜で疲れ切っていた。ただ、世界に飛び込んだ。
機器に覆われた視界は、なにもなかった。
『あなたはニル世界の同調器と接続しました』
『アンケートにお答えください』
言われるがままにチェックボックスを埋めた。画面下の進行バーがあと少しだと繰り返し、途中で諦めさせなかった。
『ニル世界に同調しています。感情の同調』
ノイズ混じりで、無機質な音。寂しさを感じた。
音がする。徐々に輪郭は研ぎ澄まされる。
『聴覚の同調』
聞こえた。ふわふわした風の音だった。現実で聞いたことはなかった。
「誰?」
声がした。甘く溶かすように、でも確かな芯をもったような色に囁かれる。二律背反から絞められるように胸を掻き立てられた。視界が暗い中、声だけを聞いて安心させられてしまった。
心で理解る、昨日救われた声だった。なにか返したかった。
声が出ない。動かない。手が空を切る。
「あなたは、だれ?」
私を尋ねる、声がした。
現実世界に、こんな優しい声はあるわけがなかった。ここは別の世界だ。
やがて光が見えた。足がついた。前を向くことができた。
『視覚の同調。同調が完了しました。ニル〈ver0.0〉へようこそ』
いちめんの、花畑だった。
赤、朱、赤、橙、舞う花びらが頬の間近をゆく。夕焼けが手のひらを包みこむ。
飛散する鮮やかな血のようだ。心が沸き立つような情景。
私はその世界の1ピースで、お葬式のように真っ黒なワンピースを着ていた。花畑の鮮血とはよく馴染む色だった。風に吹かれて、はためいた。
この世界は、美しかった。灰色で命のないアスファルトやビル群とは違う。
別世界の私だけがお花畑を飛び越える。
両手を広げてくるりと回ってみた。私じゃない私が花舞台の上で踊った。細くて綺麗な四肢が、望んだ以上の動きを演じてくれた。
だれか、と呼びかけてみる。私じゃない声が私じゃない口から発せられた。低くて滑舌の悪くて覇気の無い、大嫌いで録音のたびに悶えたあの呪詛ではない。若さを振りかざしながら落ち着きのある、何かを悟ったような。物語の主人公にでもなれそうな声は、私が考えていることを話していた。
それも、ちょっとしたら飽きた。ここにあるのは風の音と喋らない花だけだった。心が凪いでいる。世界で一人きりだと思う。あらゆることに、心臓の鼓動に、意義を感じられなかった。
足を進めた。
この世界に入ってきたときに聞こえたもの。
他人の声を求めて。私を救った、その音だけを探した。会いたいと、強く願った。
祈りに応えるように花びらが道をつくった。
そして、いた。
そこだけが白い。
花色に塗られたこの世界で、月ほどの存在がある。
ずっと、会いたかったもの。
風の音もひき、よく聞こえた。それは聞いたことがあるような歌だった。
私の足は、駆けだしていた。
『ニル』がいた。世界に浮いているようで溶けこむ、自然で異質な存在がそうだと、昨夜の歌声の持ち主で私の救世主などだと、本能で理解した。
それは、誰かを待っているようだった。私を、待ってくれているのだろうか。
どうしてだろう。悲しそうだと思った。
私はあなたに救われたのに。
近づく。人の形が大きくなっていく。少し怖かった。普段にない格好と声が私の足を前に進ませた。どんな応答をされるのか、
残り5歩、というところで立ち止まった。ニルは全身で風を浴びているようで、透きとおった髪は一線一線がほぐされてなびいている。細い手はゆらゆらと風に合わせて揺られていた。
ゆっくりと、振り向かれる。心の準備ができていなくて、鼓動が跳ねた。
目があう。深い黒を湛えたうるおしい瞳で、見つめられていた。何か声をかけられると思った。だから止まっていた。その様子を、じっと見られていた。どきどきした。落ち着かなくて、私が受け入れられるか不安で、触れてみようか迷って、まずは話しかけるべきだと思って、絶対にできないと自分で断言できてしまった。美しくて、遙かに高くて、私なんかにはとても無理だと思った。自然と下を向いた。綺麗な花たちが多量に目へ押し入った。
「ねえ。あなたは、だれ?」言葉を噛むように、大切に囁かれている。
目があった。黒くて、大きな瞳だ。吸い込まれてしまいそうな深さを湛えている。私の闇の軽々しさなんて、すぐさまひれ伏してしまう。私という存在に対して興味津々に、ずっと観察されていたのだと分かった。
それは無邪気さで純粋さ、だろうか。ニルはあくまで自分本位だった。それが私にとっては楽だと思った。
「私は……」だれ、だろうか。元の嫌いな名前は、別世界で別の姿であるここで意味をなさない気がした。「わからない」
「そう。じゃあ」
ニルは立ち上がった。膝が見えた。ふくらはぎは、か弱く見えた。
「あなたがあなたなら、だれでもいいよ」
一瞬、何をいわれたか分からなかった。
自然と下を向いていた。いつものように。
だから、何をされたか、分からなかった。
私が、どうなっているか分からなかった。
「……ありが、とう」
声が掠れていた。泣いていた。
顔が近くにあった。抱きつかれていた。
私を、認められていた。
私は、泣いていた。
嬉しいのか、なんだか分からない。どきどきして、心が甘いもので満たされて、顔が熱くて落ち着かなかった。身体では温もりが感じられないけれど、視界いっぱいに優しさが広がっている。顔は熱くて、身体は冷たかった。ニルの鼓動だけは、確かに聞こえた。
「……う」
何も気にしなかった。赤ちゃんのように泣きじゃくった。
泣いて、泣いて、泣いた。うめいて、意味も無い言葉を吐いた。ニルはじっと横にいてくれた。まかせて数年分泣いた。
疲れて、眠くなって、抱かれたまま花畑に寝転がった。ニルは寄り添ってくれた。やっと落ち着いた。安らいでいた。もう死んでいいとさえ思えて、こんな世界があるのなら生きていてもいいと思えた。
「よんで」
「うん?」
「私の名前、呼んで」
我ながらひどくわがままなものだと思った。欲深すぎて嫌になる。
「なんて呼べばいいかな」
好きな人の呟きに返答ができない。寝転んだ横に、1本の花が目に入った。
「これ、なんの花?」
「知ってる。アネモネ」
「アネモネ……アネモ、カ」
「か?」
「カフェオレとか、カフェモカ。好きだから」
「好き、なんだ。いいね」好き、という響きは私が好む砂糖たっぷりカフェモカのように甘苦しかった。私に向けられたいと思った。我に返ると、今の私は馬鹿みたいだと思った。
目元の涙がぱりっという。同調器に目元は遮られて涙は拭けなかった。同調器をとってしまえばニルがいなくなってしまう。
「アネモカ」
口に出してみた。私の新しい名前は、やっぱり自分じゃない声から発せられた。響きが釈然としなかった。
「アネモカ」
呼んでくれた。嬉しかった。素直にその名前は私に向けられたものだと受けとめた。
ようやくニルの方を向いて、ニルはくすっと笑いながら私を見ていた。目があうと、きょとんとする。また愛おしいと思った。高揚からか、恥ずかしさは意外と少なかった。
「世界は、好き?」ニルは囁く。
「ええっと、世界?」
「そう、まるごとの世界」
「うーん」
質問の意図は掴めなかったけれど。
「世界は、世界だからなあ……」
好きとか、嫌いとか、そう言えたものではなかった。
「しいていうなら、嫌いなのは自分かな」
言ってから、やばと思った。口が緩みすぎて、普段人前で絶対口に出さないことを漏らした。
けれど、いいと思えた。ニルはなんでも受けとめてくれる気がした。
「そっか」ニルはこくんと頷くと、これからなにしようね、と微笑んだ。
『アクセス制限 サーバー負荷軽減のため 1日1時間まで』
しばらく花畑でごろごろしてから、そろそろ時間だと気づいた。あまりにあっという間だった。「ごめん、また明日」
「そっか、またね」寂しそうに笑った。好きだと思った。
外して、真っ先に呟く。
「やばかった……」
やばかった。
頬が赤くなっている。馬鹿みたいだと思った。だけどあの世界は馬鹿でも何でもなかった。とても素敵で、大好きだった。だからいっかと思えた。
世界は、少し明るく見えた。
アネモカ @worldend_49xoxo ⊂□
やばかった。。。
私、明日にでも死ぬのか
0-reply 0-like 0-rt
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます