#2 救済
平日夜、ベッドに倒れ込む。朝から調子が良くて、外に出掛けてみたりした。街は騒がしかった。そのせいで一人きりの虚しさが増した。
世界が、おかしいと思った。
思った、思ったけれど。それどまりだった。
そもそもの正常な形も知らない。自らの立っている場所も分からない。
そんな中で、世界をどう見れば良いのか、と。
美味しい林檎が遠い昔の真実では、赤色じゃなかったとしても梨の形をしていたとしても辛かったとしても、その禁断の果実の命が冒涜されて捻じ曲げられていたとしても、そんなの知ったことではないのだ。在る今を受け入れて、赤くて特有の形で甘い、得体の知れない細胞の集まりに幼子は、顔を綻ばせてかぶりつくだけ。
おかしな世界に生きているのだから、何がおかしいのかなんて分からない。おかしいことはこの世界で全て常識だ。
おかしい、おかしい、そう唱えていた。
自分の不幸を不条理を、おかしいと決めつけて世界に転嫁している。それだけだろうか。
疑問を抱いていたら、考えて考えて頭を働かせて疲れきってしまうから、いつの間にか諦めていた。
不幸な環境のせいで。先進国のせいで。欲張る人間のせいで。身勝手な人間のせいで。
たったいま、誰かが死んだ。昨日、誰かが死んだ。明日も、誰かが死んだ。
たったいま、誰かが泣いた。昨日、誰かが泣いた。明日も、誰かが泣くだろう。
同じくしてこの地球で。この世界で。私が生きて笑った、その裏で。
おかしいといえば、全てがおかしいのだろう。生きる欲がない私の命がここに在ることさえも、おかしいのだろう。
もう知らないと、自分可愛さに蓋をした。
私はもう、世界の深淵を見ない。心が耐えきれない。
これからの人生なんて、考えられなかった。
脳内の神経回路を使ってときたまに指振りをして、自分で何かした気になって、それから、それから、流れる景色を他人事のように眺めて、辿る果てを受け入れるだけだ。
ひどい私は、誰の人生とも深く交わることはできない。
とても、寂しかった。
部屋の明かりを消すと、私を観察するものは何一ついなくなった。同時に、私の視界もなくなった。寒すぎる。街の明かりを取り込もうと、ベッド脇の小窓を開けた。網戸の四角は濡れそぼっていた。私が座るスプリングは雨粒で染みた。湿った生ぬるい風が水滴と共に部屋へ侵入した。
生ぬるい風すなわち生ゴミの匂いなんて、破滅的な思考回路を辿るのはこの人生が狂っているからだろうか。そう、順風満帆というか平凡でありきたりで、そこそこの進学校に通っていてそのときは何も持たない自分がどこか嫌いだった。将来への不安というものも抱えていた。今の状況からするとばからしい話だ。あのとき底だと思っていた自分にはもっと底があった。今がそうだ。これからもっと、未だ知らないどん底に落ちていくのかもしれない。
学校に、行けていなかった。
生ゴミになりたいな、と思ってみる。くさいくさいと人々から白目を向かれ、心残り無く育てられた親から投げ棄てられて。優しい誰かが事務的に回収してくれて、他のゴミと一緒に熱く燃えてしまえ。
なんて、無理だ。私の存在は焼却炉ほどの煮えたぎる高温になれやしない。生ゴミ以下だ。身体は葬儀場で炎上できるとしても、心は火がつかず冷めている。
雨を掴む。冷たい。皮膚に溶けていく。
暗い部屋。抱えた膝は雨と光を受けている。
私以外、何もない部屋。水彩に滲む街のネオンは痛々しいが、私の心臓まで届いてくれない。
母親は帰ってこなかった。本当に一人きりだ。お金だけは振り込まれていて、なんとか成り立っていた。
風が髪を撫でる。ふと、世界が自分が消えた気がした。風が私をどこかへ連れて行ってくれた。それが天国ならいいと、そう思った。遠く遠くへ、余計な感情なんてない穏やかな場所で一生眠りつづけることができたら幸せだろうか。
雨粒が、頬に触れた。
全部、気のせいだった。
手のひらを無感動に眺める。私は雨音に逆らいながら鼓動し、望まれない存在を続けていた。
息が零れる。代わりを吸う。冷たい街の空気が、意志を持たずに私へ侵入する。やはり心臓には響かない。
心臓の傷口に砂糖を塗ってほしいと思った。自分で塗るのはあまりに虚しいから、痛みに耐えられないから、優しい誰かが引き受けてほしい。心臓をこじ開けるためにメスを執って身体に傷を入れることも、グロテスクで痛々しい心臓を見ることも、誰かに委ねてしまえば。委ねてしまえば。気づいた。他者を求めるなと、他者に委ねるなと、自分を叱責した。ありもしない誰かを望んで、現実から逃げていた。また、自分が嫌いになった。
嫌悪が食道を這い上がってくる。なぜ膝を抱えている。動け。立て。学校へ行け。まともな生活を送れ。無価値だ。いてもいなくても変わらない。インターネットに駄文を流し、自分を慰めて恥をさらし、なぜ平気で生き続けていられるのか。もっと苦しい人がいる。現に私は泣けていない。吐き気がこみあげるが、胃を空っぽにするところまで到達しない。食欲はある。夜は眠れてしまう。自分なんて、その程度の苦しみだ。もっともっと辛いのに生きて、前を向こうとする人たちがいる。それなのに、自分がまるで世界で一番不幸な人間かのように脳内で振る舞い、将来への行動をとらず、自堕落に時間を捨てつづけている。全く行動をとらない私は世界で一番不要な人間だ。なぜ生きているのか。進め、進め、学校へ行け、受験勉強をしろ、社会へ適合しろ、笑え。
結局膝を抱えたままだ。嗚咽する。泣けない、吐けない、なにもできていない、嫌いだ、嫌いだ、馬鹿、死ね、自分。
もし私が再帰したとして。私なんかが努力を始めるのもどうなのか。私なんかが人の前で笑う資格はあるのか。汗を流し、輝いていいのか。スイーツを食べて、笑っていてもいいのか。辛い人たちがたくさんいることを知った上で。無理だ、不可能だ。私なんかが輝いてはならない。嫌いだ。
だったらどうするのか。嫌いな自分は行動しろ。嫌いな自分は行動するな。
進め、進め、学校へ行け、受験勉強をしろ、社会へ適合しろ、笑え。
落ちろ、落ちろ、自分を虐めろ、人に醜い表情を見せるな、二度と笑うな。
私は動けない。挟まれる。軋む。潰される。脳が悲鳴をあげる。
ああ。
涙がようやく、目に滲んできた。私は苦しめているだろうか。そんな考えが頭をよぎった。また嫌いになった。どうしようもなかった。自分は苦しんでいるふりをして、また逃げようとしているだけなのか。苦しんでいるから、もう限界だから、頑張らなくてもいい。大した胆力だ。大した努力もしていないくせに。どこまでも嫌いな自分にどこまでも甘いくせに。ひょっとしたら自分が嫌いだというのも誰かに振る舞うための言葉で、自分を愛おしく思うための妄言なんじゃないか。生まれてから今日まで私は自殺さえ成し遂げていないのだから。
責める。時計の針が進む。私は進歩しない。27時、人々は眠っている。明るい街は私のことを見ている。母もいつか帰ってくるかもしれない。私にどうしろと。
ぷつんと、切れた。思考が途絶えた。脊髄で動いた。スプリングに倒れ、スマホに手を伸ばした。何も考えなかった。生命の本能は生きるために助けを求めた。
『Nil Umwelt』
ある一つの、世界がはじまった。
歌が聞こえた。
きみが生きていればそれでいいって、そのとき私だけに叫ばれていた。
何も叶わなくても、生きていればそれでいいって、あまりに乱暴であまりに幸せだった。普段は拒絶してしまうほど綺麗な私への優しさが、心臓を刺した。
幻想を見た。私は落ちようとした。痛みを感じて、空中で止まった。誰かがいる。誰かはナイフを私の心臓に突き立てて私による私への否定を黙らせて、私を傷つけていることに泣きながらナイフを掴んで私を落とすまいとしていた。そんな幻想を見た。自己否定などせずに、明るく生きてほしいと、誰かに望まれていた。いたずらな優しさはスマホの画面とスピーカー越しだった。
首から血が零れていた。自分の血だったけれど、綺麗だと思った。
私は寂しくなかった。首から零れる血が温かいと思った。
スマホを心臓に抱いたまま、安らかに眠りについた。
×× @worldend_49xoxo ⊂□
生かされちゃった。
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