第四十八話 残された命は、旅に出る



 洋平が亡くなってから、四ヶ月近く経った。

 

 四月。春。


 美咲と洋平が出会ってから、一年ほど。

 また、この季節がきた。


 ──あの事件のとき。洋平が亡くなったあと。

 

 美咲は洋平の共犯者として逮捕、勾留された。


 抵抗はしなかった。もう、どうでもよかった。


 洋平がいなくなった。死んでしまった。


 もう、戻ることはない。あの優しさも、温かさも、囁き合う吐息も、繋いだ手の感触も。


 もう、戻らない。


 最後のとき、洋平は幸せそうだった。幸せな夢を見たまま、遠くに行ってしまった。二度と手の届かない場所に。


 いっそ、死刑にしてくれないだろうか。洋平のいる場所に連れて行ってくれないだろうか。そんなことを思いながら、美咲は、留置所で過ごした。


 しかし、罪に問われるどころか、起訴されることさえなかった。勾留中に弁護士がつき、手が回されたのだ。


 美咲が洋平と共に不法侵入した家の大学生は、すでに死亡していた。それ以外の過去の不法侵入事件の被害者は、洋平のみに被害を受けたと証言している。


 美咲が関連した不法侵入事件の被害者は、コンビニの建物のオーナーのみとなっていた。


 そんな事情に加え、美咲についた弁護士が、このような証言をした。


「笹森美咲さんは、村田洋平に拉致され、連れ回されていた被害者だ。彼女に非はない」


 美咲は、法律には明るくない。というより、まったく知らない。ただ、弁護士が説明してくれたことは、ある程度理解できた。


「不法侵入という罪は、被害者が訴えを起こさない限り起訴されることがない、親告罪だから。母さんと口裏を合わせて上手くやれば、簡単に切り抜けられるよ」

 

 美咲についた弁護士は、お婆ちゃんの息子だった。お婆ちゃんに頼まれて、わざわざ帰省してくれたのだ。美咲を助けるために。


 美咲が、洋平に拉致され、連れ回されていたことにする。つまり、全ての罪を洋平に着せる、ということだ。美咲が罪を免れるために。


 それは、不法侵入事件に関してだけではない。


 直接手を出していないとはいえ、秋田一家の殺人に関わったこと。偽造免許証を使っていたこと。無免許運転と知りながら洋平が運転する車に同乗していたこと。複数ある窃盗。


 大小全ての罪を、洋平ひとりに着せるということだ。


 当然のように、美咲はそれを激しく拒否した。どうでもいい、なんて思っていた心に、強い意志が芽生えた。


 大好きな人。何よりも大事な人。自分の命よりも大切だった、もう失ってしまった人。


 洋平のせいにするなんて、嫌だった。自分が罪に問われないために彼を貶めるなんて、絶対に嫌だった。


 私と洋平は一緒。ずっと一緒。洋平に罪を着せて自分だけ助かるつもりなんてない。それどころか、いっそ、死刑になりたい。死んで、洋平のもとに行きたい。


 一緒にいさせて。一緒に背負わせて。一緒に生きさせて。一緒に死なせて。


「美咲ちゃんなら分かるでしょ? 洋平君が、何を望むか」


 拘留中に弁護士から美咲に伝えられたのは、お婆ちゃんからの伝言だった。


 洋平が、何を望むか。


 美咲が、洋平とともに犯罪者になることか。死んでしまった洋平に縛られることか。洋平が必死に守ろうとしたその命を、捨てることか。


 それとも、美咲が普通に生きて、幸せになることか。


 そんなことなど、考えるまでもなかった。


『俺を信じろ』


 決して忘れることのできない、洋平の言葉。窮地の中で彼の想いが込められた、言葉。洋平が必死に守ろうとした──彼の中で守られた、約束。


 ひとつになる。一緒に生きる。


 だから、受け入れた。苦しくて、悔しくて、情けなくて、洋平に申し訳なくて。悲しくて、寂しくて、辛くて、洋平に会いたくて。


 泣きそうになる気持ちを必死に堪えながら、受け入れた。


 結果として、美咲は、全ての事件の関与を否定され、自由の身となった。


 だが、帰る家などない。自宅に帰ったところで、父親に嫌がられるだろう。もしかしたら、面倒な奴として追い出されるかも知れない。


「ウチに帰ってきてくれない? また、一緒に暮らしましょう」


 当たり前のように、お婆ちゃんが言ってくれた。


 美咲の父親は、美咲に関心がない。それどころか、邪魔だと思っている。お婆ちゃんの家で美咲が暮らすことに、何ら異論を挟むことはなかった。


 しかし、未成年者が親権者以外の者と暮らすことに、この国の法律は寛容ではない。


 弁護士は、美咲に、お婆ちゃんの養子になることを提案してきた。養子になれば、美咲の名字は変わることになる。笹森美咲ではなくなる。


 あの父親の娘であることに、未練などまったくない。むしろ、父親の娘ではなくお婆ちゃんの娘になれることは、嬉しくさえある。


 けれど美咲は、その提案を拒否した。

 自分の名前を、変えたくなかったから。

 洋平が認識している「笹森美咲」という名前を。


 美咲と洋平が共にいられたのは、わずか八ヶ月。四月に出会って、助けられて。自己紹介のように名乗り合って。それから常に一緒にいて。


 一年にも満たない期間。たったの八ヶ月。


 それは、何よりも愛しく、何よりも大切な八ヶ月だ。その八ヶ月の間、洋平は、美咲を「笹森美咲」として認識し「笹森美咲」として見てきた。


 洋平と過ごせた、宝物のような八ヶ月の中で。


 だから、今の名字を捨てたくなかった。洋平の中にある自分を、何ひとつ捨てたくなかった。それがたとえ、軽蔑する父親の名字であっても。


 美咲のこの申し出には、お婆ちゃんも賛成してくれた。お婆ちゃんも、弁護士──息子に頼んでくれた。


「どうにかならない?」


 弁護士はちょっとだけ困った顔をした後、苦笑しながら了承してくれた。どうにかするよ、と。


 結果として、お婆ちゃんは、美咲の未成年後見人という立場になった。


 美咲は、法律には詳しくない。この未成年後見人というのは、親を亡くしたり虐待を受けて親元にいられない子供を管理する人がなるらしい。成立要件は、そういった事情があること。


 美咲は、父親に関心を持たれず放置されていた。だが、虐待されていたわけではない。


 それでも、弁護士は、上手いこと父親と交渉したようだ。お婆ちゃんが美咲の未成年後見人として認められる方向に持っていった。


 美咲は、これからもお婆ちゃんと生活することになった。高校にも復学することになった。もっとも、八ヶ月近くも通っていなかったため、また一年生からのスタートとなるが。


 高校に復学する。周りは、当たり前に中学を卒業し、当たり前に進学してきた人達ばかり。


 みんな、普通の人生を歩んできた子。

 みんな、美咲のひとつ年下。


 もしかしたら、変な目で見られるかも知れない。いじめられるかも知れない。妙な噂が立つ可能性だってある。


 それでも美咲は、復学して、真面目に勉強をしたいと思った。目標ができたのだ。将来、なりたいもの。


 きっかけは、お婆ちゃんが買ってくれた指輪だった。洋平とペアの、白銀の指輪。洋平の最後を聞いたお婆ちゃんが、買ってくれた指輪。


 洋平と美咲を繋ぐ指輪。心臓と心臓で繋がって、ひとつになる。互いの体に流れ込んで、互いの一部になる。


 その、証。洋平と美咲の心がひとつになった、証。


 でも、ひとつになったはずの心に、欠けているものがあった。


 洋平が亡くなる直前。彼が、幸せな夢の中にいたとき。


 今にも消え入りそうな声だったけど、洋平は確かに言っていた。美咲への想いを告げる前に。


『秀人。俺、分かってたよ』


 そう言った洋平はやはり幸せそうで、顔いっぱいに笑みを浮かべていた。彼がどれだけ秀人を慕い、信頼し、尊敬していたか。それを表すように。


 美咲の中で、秀人は、洋平を見捨てた人だ。洋平や美咲をいいように利用しようとし、利用できないと知った途端に切り捨てた人。最後に見たときの彼の冷たい視線は、忘れたくても忘れることができない。


 そんな秀人を、洋平が盲目的に慕うだろうか。


 洋平は確かに社会性に欠け、常識に疎く、普通の人生を歩める人ではなかった。けれど、優しく、努力家で、賢かった。頭の回転の速さには、美咲も驚かされていた。


 もし、秀人が、打算だけで洋平や美咲と付き合っていたのだとして。洋平が、そのことにまったく気付かない、なんてことがあるだろうか。


 とてもそうは思えなかった。美咲には気付けなかった──洋平だけが気付いていた、秀人の気持ち。そんなものがあるのかも知れない。


 そう考えたときに美咲の脳裏に浮んだのは、秋田家での秀人の顔だった。冷たい目を見せる直前の、秀人の表情。言葉にできないような感情を抱えた顔。


 ──秀人。あんたは、洋平をどう思っていたの。あんなに慕ってくれた洋平を、どうしたかったの。


 聞きたくて、秀人の家に行った。けれど、かつて洋平と住んだ秀人の家は、すでに取り壊されていた。かつて拉致された、暴力団事務所にも行ってみた。そこも、すでに無人になっていた。


 ともに、ひと月ほど前のことだ。


 秀人の足取りは掴めない。追いようがない。けれど、彼が暴力団と繋がりがあることは事実だ。彼が行った犯罪も、紛れもなく事実なのだ。


 秀人を追いたい。彼の心の中にある、真実を聞きたい。


 それを、洋平に伝えたい。分かち合いたい。


 だから。


 私は、警察になる。刑事になる。秀人を追い、捕まえる。秀人の心の中にある真実を聞き出す。


 生まれて初めて、美咲に、自分が目指すべき目標ができた。


 洋平は警察を恨んでいた。弟を見殺しにした警察。秀人の家族を殺した警察。美咲との幸せを奪った警察。


 洋平が恨んでいたものに、洋平を愛している自分が、なる。


 ──でも、これは、裏切りじゃないよね?


 美咲は、自分の左手の薬指を見た。白銀の指輪。洋平と美咲が互いに望んだ、左手の薬指の指輪。


 私は、洋平と生きる。洋平と繋がって生きる。心臓と心臓で、繋がって。ひとつになって。


 だから、許して。突き止めたいの。知りたいの。洋平に伝えたいの。だから。

 

 美咲は、自分の人生を進み始めた。普通に生きながら、普通に目標を持って、普通の少女として。


 決して普通ではない人物を追うために。


 その旅路への一歩を、踏み出した。


 ◇


 お婆ちゃんの家には、小さな仏壇が作られていた。


 小さな骨壺に入った遺骨。


 その手前には、美咲の指輪と対になる指輪が飾られている。



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