エピローグ~幸せな光りの中で~
気が付くと、明るい部屋にいた。
大きな部屋だ。十畳くらいの間取りだろうか。どこかの家のリビングのようだ。窓からは、日差しがいっぱいに入ってきている。眩しいくらいに明るい。
目の前に、大きなテーブルがあった。皿が並んでいる。会食でもするようだ。
洋平は頭を掻いた。自分が今、どんな状況にいるのか。まるで思い出せない。いつからここにいたのか。何のためにここにいるのか。
「兄ちゃん!」
後ろから呼ばれて、洋平は振り向いた。弟が立っていた。両手に、大きな料理皿を持っている。腰には、どこか可愛らしいエプロン。
「あ」
ああ、そうだ。まるで流れ込むように、洋平の記憶が蘇ってきた。今日は、結婚祝いのパーティーだったんだ。どうして今まで忘れていたんだろう。
「危ないからどいてよ、兄ちゃん。タキシードに染みがついたら、格好つかないだろ?」
「え?」
洋平は自分の服装を見た。いつの間にか、タキシードを着ていた。ピシッとした、シルバーのタキシード。自分で言うのもなんだが、あまり似合っていない気がする。
弟は、手慣れた様子で料理をテーブルに運んだ。
また、洋平の頭の中に記憶が流れ込んできた。清流のように、優しく。
そうだ。思い出した。弟は、美咲の料理を初めて食べたとき、もの凄く感激していた。それがきっかけで、料理の道に進んだんだっけ。
弟は、両手に持った料理皿をテーブルの上に置いた。皿には、美咲が初めて弟に振る舞った料理。
「ビーフシチュー?」
「ああ。俺の料理の原点だからね、美咲姉ちゃんのビーフシチューは」
頭の中に浮んでくるのは、初めて美咲の料理を食べたときの、弟の顔。
あのときの弟は、顔いっぱいに笑みを浮かべていた。不器用にスプーンを持って、美咲が作ったビーフシチューを食べていた。口の周りには、ご飯粒や夢中になって食べているビーフシチューが付いていた。ベタベタになった口から、嬉しそうな声を出していた。
『兄ちゃん、美味しいね。凄く美味しいね』
「ああ、そうだったな」
懐かしくて、つい、洋平は目を細めた。涙が出そうな感覚。
「おめでとう、洋平君」
声を掛けられて、洋平はまた振り向いた。
婆ちゃんがいた。
一時期──理由は忘れたが、洋平が秀人と喧嘩をして、彼の家を出たとき。
そのときに洋平の面倒を見てくれたのが、婆ちゃんだった。彼女と知り合ったきっかけは……。思い出そうとしたが、思い出せなかった。記憶が、なんだかフワフワしている。
「なんだか、感無量って気持ちね。自分の息子が結婚するなんて」
自分の息子。婆ちゃんの言葉に、またも、洋平の目頭は熱くなった。
「ありがとう、婆ちゃん。俺にとっても、婆ちゃんは俺の母さんだから」
「うん」
婆ちゃんは、ハンカチで目元を拭いていた。
「おめでとう、洋平」
また声を掛けられた。
声の主は、秀人だった。洋平にとっては、父親同然の人。
「ありがとう、秀人」
秀人は、洋平を育ててくれた。色んな事を教えてくれた。強くて、頭が良くて、格好いい。理想の父親だ。
一度、洋平は、秀人と大喧嘩をして家を飛び出したことがあった。喧嘩の理由なんて、覚えていない。
飛び出した先で婆ちゃんの世話になって。でも、秀人とも一緒にいたくて。
「美咲を大事にしてあげなよ。美咲は、結構寂しがりだから──」
無邪気に、秀人が笑った。
「──って、それは、洋平が一番分かってるよね」
どこか幼ささえ見える、絶世の美女のような笑み。まるで、男装の麗人だ。
「なあ、秀人」
「何?」
秀人は、洋平にとって理想の父親だ。たとえ血が繋がっていなくても。慕っているし、信頼しているし、尊敬もしている。だからこそ、たった一回とはいえ、喧嘩をしてしまったことは心に残っていた。
「あのとき、ごめんな。喧嘩して。あんなに俺のこと、大事にしてくれたのに」
謝ることが少し照れ臭くて、洋平は秀人から目を逸らした。別に痒いわけではないが、頭を掻く。また、秀人に視線を戻した。
「秀人、俺、分かってたよ。秀人が、出て行った俺を、凄く気に掛けてくれてたこと」
出て行ったとき、洋平は、素直に自分の気持ちを口にできなかった。本当は、秀人の元に戻りたかったのに。最初は、秀人に拒絶されるのが恐くて。
でも、再び会ったとき、拒絶されているのではないと気付いた。むしろ、秀人は心配してくれているのだと気付いた。気付いたのに、自分の気持ちを言えなかった。
なんだか、婆ちゃんと秀人が、相容れないような気がして。
どうしてそう思ったのかは、洋平自身にも分からない。
ただ、二人とも、大切な人だから。そんな二人が反発し合うところは、見たくなかった。
もっとも、それは杞憂だった。こうして二人とも、洋平を祝いに来てくれている。
「改めて、ありがとう、秀人」
秀人は、どこか照れ臭そうだった。彼もこんな顔をするんだと、なんだか新鮮な気分になった。
「洋平」
今日はよく名前を呼ばれる日だ。洋平はまた、視線を動かした。
声の主を見た瞬間に、思わず、目を見開いてしまった。
美咲がいた。彼女を包んでいるのは、真っ白なウェディングドレスだった。
息が詰まりそうだった。目の前の美咲が、あまりに綺麗で。
純白。まるで汚れのない白。誰も立ち入らない草原に降り積もった、雪のような。足跡ひとつない、光りを浴びてキラキラと光る雪のような。
「美咲」
美咲の姿に心を奪われながらも、ようやく、洋平の口から言葉が出た。彼女の名前。大切な人の名前。
洋平は美咲に近寄った。触れ合えるほど近く。誓いの言葉じゃないけれど、今の自分の気持ちが、自然に口から漏れた。
「ずっと一緒にいような、美咲」
「うん」
美咲は頷いてくれた。
「美咲、左手、出してくれ」
洋平は、タキシードのポケットからケースを取り出した。手の平程度の大きさのケース。空けると、白銀の指輪が入っていた。
「結婚指輪」
「うん」
美咲が、左手を差し出してくれた。触れると、温かかった。しっとりとした手。
薬指に、指輪を通した。
いつの間にか美咲の手にも指輪があって、洋平の左手の薬指に通してくれた。
「これで、俺達、ずっと一緒だな。心臓と心臓で繋がって、互いの中に流れ込んで、絶対に離れない」
「うん」
美咲の目から、涙が零れていた。幸せそうに微笑みながら、泣いていた。
うれし涙を流す美咲に、つい、洋平も、もらい泣きしそうだった。泣いてしまうのがなんだか恥ずかしくて、懸命に堪えた。
「ずっと一緒。離れないから。絶対に、離れないから」
美咲は、今にも抱き付いてきそうだった。それくらい、熱っぽい視線で洋平を見ている。真っ白な美しさの中に、艶やかな色を感じさせる。
それが、もの凄く──
洋平の口から、無意識のうちに本心が漏れた。
「美咲。凄く、綺麗だ……」
もしかして自分は、美咲に見とれて、間抜けな顔になっているのだろうか。美咲が小さく笑った。
「ありがとう、洋平。洋平も、凄く──」
美咲の笑みが、照れ笑いに変わった。
「洋平も、格好いいよ」
つられるように、洋平も照れて笑ってしまった。
指輪を交換した。互いにひとつになって生きると誓った。これから、離れることもなく、ずっと一緒。
そういえば、と思う。そういえば、今まで、美咲に言ったことがなかった。
言わないと。こんなときだから。これから共に生きていくんだから。
「美咲。あの、さ」
「何?」
「今まで照れ臭くて、ずっと言えなかったけど」
言うのは、少し恥ずかしい。照れ臭い。でも、どうしても伝えたい。
深めの呼吸をすると、洋平は、美咲に気持ちを伝えた。
「美咲、愛してる」
美咲の頬を、さらに大粒の涙が伝った。
美咲の泣き顔を、洋平はあまり見たことがない。最後に彼女が泣くところを見たのは、いつだったか。思い出せない。
覚えているのは、それが、今とは違う涙だったこと。
「私も」
今の美咲が流しているのは、うれし涙だ。幸せそうに微笑みながら、流す涙。
「私も大好き。愛してる」
洋平の口が、つい、左右に大きく広がった。嬉しい。幸せ。
「死ぬまで愛してる。死ぬまで離れない」
美咲の言葉が、洋平の幸せを大きくしてゆく。心が、張り裂けるくらいに。両手いっぱいに広げても、抱えきれないくらいに。大きな、大きな幸せ。
今の自分は、絶対に、世界中の誰よりも幸せだ。
洋平は美咲の手を取った。左手で、左手を。
結婚指輪をつけた手が、重なる。
目の前に、扉が現れた。大きな扉。まるで、これからの幸せな人生に続くような。大きな大きな扉。
ここを通って、明るい未来に歩み出すんだ。美咲と一緒に。
「行こうか、美咲」
「うん」
扉を押した。開いた先は、この部屋よりもさらに目映い光に溢れていた。
幸せの結晶のようなその光の中に、洋平は足を踏み出した。
美咲の手の感触を、温かさを、左手に感じながら。
(終)
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