第四十六話 ずっと、幸せなあなたの中に、住んでいたい



「俺を信じろ」


 懐中電灯の淡い光しかない、暗い部屋。


 その部屋の中で美咲に向けられた、洋平の言葉。洋平の視線。洋平の気持ち。


 美咲は目を見開いた。はっきりと気付いた。洋平の想いの強さに。彼の言葉に、嘘などないことに。まるで、彼の心と自分の心が一つになったようだった。


 洋平は、何があっても美咲と一緒にいる。そう、決意している。そのために、戦っている。


 そんな洋平の意思に応えるために、自分はどうすべきか。自分に、何ができるか。答えはひとつだ。

 

 洋平はすぐに、部隊長に視線を戻した。

 

 美咲は小さく頷いた。


「分かった。信じる」


「ああ。俺達の職場で待っててくれ。俺もすぐに行く」


 俺達の職場。その言葉で連想される場所は、ひとつだけだった。一緒に働いていた、新聞販売店。温かい家庭で暮らし、幸せな時間の中で働いていた場所。


 そこで待っていれば、洋平は必ず来てくれる。一緒に幸せになるために。


 強く握った、洋平のダウンジャケットの袖。美咲は、自分の手から力を抜いていった。袖から、指を解いてゆく。彼を掴んでいることに名残惜しさを残しつつ、手を離す。


 洋平のダウンジャケットから手を離すと、美咲は一歩二歩、後退した。この部屋の南側の窓まで、ほんの数歩。一気に駆け抜けて、窓を開けて逃げる。


 美咲は走り出した。


「待て!」


 部隊長の声が耳に届いた。でも、振り返らない。止まらない。洋平が、必ず迎えに来てくれるから。


 後ろで、立て続けに銃声が響いた。でも、振り返らない。止まらない。洋平が、必ず迎えに来てくれるから。


 なぜか、時間がゆっくり流れているように感じた。窓が遠い。


 あと三歩。あと二歩。あと一歩。


 窓に手が届きそうだ。手を伸ばした。


 その瞬間、後ろから強風に煽られた。ゴオッ、という音が聞こえてきそうなほどの突風。


 美咲は体勢を崩した。強風に押されて倒れた。窓に届きかけていた手は、転倒したことで床に付いた。


 ここは室内だ。強風なんて吹くはずがない。驚きと困惑で、美咲は、つい、後ろを振り向いた。


 強風は、洋平を中心に吹き荒れていた。まるで、彼の体から風が出ているようだった。


 美咲の頭の中に、秀人の言葉が思い浮かんだ。彼が、超能力に目覚めた瞬間を語った言葉。


『津波みたいな感情が頭の中で溢れて、そのときに、頭の中に電気が走ったような衝撃を感じたんだ』

『暴走した超能力は、全身の力を全て使い切るレベルで放出されたんだ』

『独自に超能力の訓練を十二、三年くらい積んで、今くらいのレベルで使えるようになってから──』


 強風は、洋平から生み出されているようだ。明かに、通常の現象ではない。それこそ、超能力のような。


 でも──


『はっきり言うね。お前に、超能力の資質はないよ』


 洋平に超能力の素質はない。秀人が、そう言っていた。


 強風はまない。洋平の体から吹き出している。


 洋平が捨てた懐中電灯。風で、コロコロと転がっている。移動する懐中電灯が、膝をついている超隊員の顔を照らした。確か、五味といったか。傲慢そうな、嫌な顔だと思った。彼の顔が、一瞬にして、怒りの感情に染まった。


「このガキ!」


 五味が、膝をつきながら自分の手を洋平に向けた。


 強風。まるで台風のような。室内に吹き荒れる、強い風。まるで現実感のない光景。


 その光景の中で。美咲の視界の中で。


 洋平の体が、ぶれたように見えた。何か、強い衝撃を受けたように。ブルンッと痙攣したような。


 その直後、ピタリと風が止まった。


 懐中電灯はコロコロと転がって、壁に辿り着いて、その動きを止めた。


 風で煽られた布団は、グチャグチャになっていた。


 洋平の体は、ユラユラと揺れている。銃を持っている手はダランと下がっていた。気のせいだろうか、洋平の胸のあたりから、何か出ているように見えた。黒っぽい、液体状のもの。


 すぐに洋平の体は、支えを失ったかのようにその場に倒れた。パタリと、仰向けに。


 しばらく、美咲は状況が理解できなかった。何があったのか。何が起こったのか。洋平はどうなったのか。


 理解できない。理解したくない。現実だと思いたくない。嘘だと思いたい。


 けれど、薄暗い部屋で起こった出来事は、確かな現実として美咲の目に映っていた。


 洋平が、倒れた。力を失ったかのように。


 洋平が、五味の超能力で撃たれた!


「──洋平!!」


 立ち上がり、美咲は洋平に駆け寄った。逃げるとか、逮捕されるとか、そんなことなど考えられなかった。洋平が撃たれた。倒れた。


 不安と恐怖だけが、美咲を支配していた。


「洋平! 洋平!」


 洋平の側に駆け寄って、右手で、倒れた彼の頭を抱きかかえた。彼の右胸の辺りから、黒っぽい液体状のものが流れていた。その口から、ヒューヒューと高い音の呼気が漏れている。


 暗がりでも分かるほど、洋平の目は虚ろだった。


 流れ出る大量の血。黒っぽく見えるのは、暗いせいだろう。赤黒い血。それが、止めどなく溢れてくる。


 どうしていいか分からなくて、美咲は、自分の左手で洋平の胸を押さえた。血を止めたくて。洋平の命を繋ぎ止めたくて。強く、強く押した。でも、血は、まったく止まってくれない。


「洋平! 返事して! ねぇ! 洋平!」


 美咲の声に反応するように、洋平の口がかすかに動いた。言葉が漏れている。出てくる声は、消えてしまいそうなほど小さい。


 その口は、笑っていた。


「……秀……と……たよ……」


 洋平は、幸せそうだった。幸せそうに、笑っていた。口だけじゃなく、虚ろな目も、その表情も。


 顔いっぱいに、幸せを見せていた。


 明かに、意識が混濁している。今の洋平の状態を、美咲はすぐに理解してしまった。理解したくないのに。信じたくないのに。


 まるで命そのもののように流れ出る、洋平の血。大量の血。それが、洋平がもう助からないであろう事を物語っていた。


 失いかけている命。

 消えてしまいそうな、命。


 それなのに、洋平は幸せそうだ。満ち足りているようだ。


 混濁する意識の中で、幸せな夢を見ている。幸せに包まれている。望むもの全てに囲まれている。


「……美……さ……き……」


 名前を呼ばれた。美咲の声が詰まった。肩が震えた。涙が、大量に溢れてきた。


「……ず……い…………き……」


 洋平の言葉が、はっきりと聞こえる。どんなに小さい声でも。どんなに途切れ途切れでも。けれど、その声は、霞のように消えてしまいそうで。


「どうして撃った!?」


 近くで、部隊長が怒鳴っていた。うるさい。洋平の声が聞き取りにくい。


「あいつが仕掛けてきたからですよ!」


 五味が反論している。うるさい。洋平の声が聞き取りにくい。


「……手…………て…………」


 洋平が、言葉を紡いでゆく。幸せな夢の中で、温かな言葉を紡いでゆく。それは、本当であれば、嬉しいはずの言葉。でも、今は、ただ悲しい言葉。


 泣きながら叫びたかった。帰ってきて、と。行かないで、と。そんなところに私はいない。私はここにいる。だから、私のところに帰ってきて。一緒にいて。側にいて。離れないで。


 ──死なないで!!


 幸せな夢の中から洋平を引き戻して、命ある限り見つめ合っていたい。ここではない、遠いところへ行こうとしている洋平を、引き止めたい。


 でも、言えなかった。引き戻せなかった。


 だって、洋平が、あまりに幸せそうだから。満ち足りた顔をしていたから。こんな顔をした彼を、見たことがなかったから。


『俺を信じろ』


 ほんの少し前の、洋平の言葉。

 洋平の中で守られた、その約束。

 美咲とずっと一緒にいるという約束。

 洋平が手に入れた、美咲と共に生きる幸せ。

 

 それを、壊したくない。


 だから、洋平の幸せな言葉を、一字一句聞き逃したくない。だから、洋平が幸せになれる言葉を伝えたい。


「救急車だ! 絶対に死なせるな!!」

「うるさい! 黙れ!」


 喚き散らす部隊長に、美咲は怒鳴った。


 邪魔しないで。洋平の言葉が聞き取れない。

 私の声が、洋平に届かなくなる。


 洋平は、震えながら手を動かした。そっと、何かを両手で包み込むように。


「……け…………わ……………………」

「……うん」


 美咲は、洋平の右胸から左手を離した。震える手。その手を、洋平に握らせた。洋平の血に染まった、自分の左手を。


 洋平の右手が、何かを持っている。そこに何もなくても、洋平の意識の中には、確かにある。


 洋平はそれを、美咲の左手の薬指に通した。


「お……………………だ…………しん……………………て…………」

「うん。ずっと一緒。離れないから。絶対に、離れないから」


 美咲の目から流れ出る涙は、止まる気配すらない。止められない。それでも笑った。笑った声で、洋平に伝えたくて。幸せそうな声で、応えたくて。


「…………咲……………………だ…………」

「ありがとう、洋平。洋平も、凄く──」


 言葉が詰まった。息が苦しい。窒息しそうだ。それでも、洋平の幸せを壊したくない。だから、無理矢理絞り出した。


「洋平も、格好いいよ」


 洋平の表情が、少しだけ動いた。なんだか、照れ臭そうだ。


「美……………………て、…………ど…………」


 躊躇うように、途切れる洋平の言葉。

 最後の力を振り絞るように、それなのに幸せそうに続けられる、言葉。


「……愛して…………る……………………」


 もっと、その言葉を聞いていたい。聞かせてほしい。これから何度でも、数え切れないくらいに言い続けてほしい。


「私も」


 それでも、美咲は笑って応えた。


「私も大好き。愛してる」


 洋平が、笑っている。残酷で、凄惨で、無慈悲で、悲しい人生を歩んできた洋平が。


 この世の誰よりも幸せそうに、笑っている。


 だから、洋平がもっと幸せになれる言葉を。


「死ぬまで愛してる。死ぬまで離れない」


 光に満ち溢れるような幸せを、洋平に……。


 ──しばらくして、救急車のサイレンが聞こえてきた。


 命が消えるその瞬間まで、洋平の表情は、幸せに満ちていた。

 



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