第三十九話 近付いて、交わって、溶けてしまいたい
今は、午後十時くらいだろうか。
時計がないから、よく分からない。
十畳ほどの和室。ストーブがないから、部屋の中は寒かった。北側に、この部屋の入り口の
東側の窓は、隣の家の窓と向かい合っている。向こうの窓は、カーテンが閉まっていた。
南側の窓からは、舞い落ちてくる雪が見える。
美咲は上半身裸になって、濡れタオルで体を拭いていた。今日は風呂に入っていない。
──美咲と洋平がお婆ちゃんの家から出て、三日目の夜。
二人は、閉店して誰もいなくなったコンビニエンスストアにいた。住居一体型の店舗だった建物。
コンビニの二階が、住居スペースになっていた。リビングダイニングとトイレ、風呂、美咲達が住みついた部屋。水道も電気もガスも止まっているから、本当にただ寝泊まりするだけだ。それでも、車の中よりはずいぶん過ごしやすい。
お婆ちゃんの家を出た後、ここに侵入することを提案したのは美咲だった。美咲が、新聞配達のときに立ち寄っていたコンビニ。閉店してしまったときはガッカリしたが、今思えば好都合だった。
美咲の提案を受け入れた洋平は、外壁から二階に登った。ダイニングの窓から侵入して、一階のコンビニ部分から美咲を招き入れた。秋田家に侵入したときのように。
美咲達の逃亡軍資金は、三十万円ほど。お婆ちゃんの家を出るときに、彼女がくれたものだった。
『あなた達は私の生活費を心配してくれたみたいだけど、そんなに困ってないのよ。蓄えは十分にあるし、息子も仕送りしてくれるし』
ただ、何かあったときのために、常に蓄えられるようにしていたという。だから、食材の買い物なども、スーパーなどでできるだけ安く済ませていた。
『でも、ね。私のことを気遣って洋平君や美咲ちゃんが働いてくれたとき、嬉しかった。息子もね、昔、同じことをしてくれたの。自分の学費くらい自分でどうにかするって言って、学校に行きながらアルバイトもして』
お婆ちゃんは、息子が稼いだ金には手をつけていなかったという。その一部が、洋平や美咲に渡した資金。彼女が、何かあったときにすぐ使えるようにと、手元に置いていたお金。
『あなた達と暮らして、楽しかった。女っ気のなかった息子が、お嫁さんを連れて来たみたいだった。だから、このお金は、あなた達のお兄さんからの贈り物だと思って』
お金を手渡されたとき、感極まって泣きそうだった。思わず美咲は、お婆ちゃんに抱き付いた。お母さん。そんな言葉が口の中で漏れた。
お婆ちゃんは美咲を抱き返しながら、約束して、と言ってきた。
『どんなことがあっても、絶対に死なないで。生きて、幸せになって、ここに帰ってきて。あと、もしここに来たときみたいに体調を崩しちゃったときも、回復するまででいいから帰ってきて』
うん。頷いたときの声は、お婆ちゃんの耳に届いたようだった。
住処となる場所を見つけた後に、洋平が運転する車で、生活に必要な物の買い出しに出掛けた。食べ物、水、布団、タオル、歯ブラシ、懐中電灯等。
加えて、洋平は、なぜかロープを購入していた。
ディスカウントショップで一通り買い込み、ここに運び込んだ。飲料水以外の水は、近所の家の、外接の水道から拝借した。水を入れるペットボトルは、コンビニのゴミ箱から持ち出した。
一通りの買い物を済ませて戻って来ると、洋平は、部屋の窓から屋上に登った。購入したロープを持って。何か作業をしていたようだ。彼が何をしていたのか、美咲には分からなかった。
この家の中には、ストーブなどない。当然のように寒い。といっても、凍死するほどではない。吐く息が白くなるほどではないし、放置した水が凍ることもない。
秀人の家で読んだ本の受け売りだけど──と前置きして、洋平はこんなことを言っていた。
洋平や美咲が生まれる前に、この国には経済の高騰期があったという。その時期に建てられた家やマンションには、断熱材やコンクリートが必要以上に使われていた。そのため、昼間の日差しで暖まると、その熱が逃げにくい。ここは、その時期に建てられた家なのではないか、と。一般的な石膏ボードではなくコンクリートで固められたこの家の壁は、ハンマーで叩いても壊れなさそうだった。
洋平の知識に、美咲はただ驚いていた。
美咲は、洋平が秀人の家で日々努力する姿を、毎日見ていた。彼は一体、秀人の家でどれだけの本を読み、どれだけの量の知識を吸収してきたのか。
真面目で、努力家で、優秀。出会ったときとはまるで違う、洋平に対する印象。でも、その優しさは、出会ったときからまったく変わっていない。むしろ、近付けば近付くほど、強く感じる。
美咲はタオルで体を拭きながら、自分の後ろにいる洋平を見た。
敷いたままの布団の上で、洋平は座り込んでいる。美咲に背を向けて。裸になっている美咲を、見ないように。
美咲の体がブルッと震えた。いくら暖かいと言っても、せいぜい十度前後。寒いものは寒い。
こちらに向けられている洋平の背中に、飛び込んでしまいたい。裸になって、触れ合って、温め合いたい。
体だけではなく、心も、温め合いたい。
洋平と温め合いたい。
洋平と。
洋平だけと。
胸に痛みを感じる。嫌な痛みじゃない。大切にしたい痛み。でも、洋平の気持ちが分からないから、苦しい痛み。切ない痛み。
お婆ちゃんの家で一緒の布団で寝たとき、確かに洋平の心臓は早鐘を打っていた。セックスをしたくない、というわけではないようだ。美咲の体に飽きた、とも思えない。
でも、美咲の家を出て以来、洋平とセックスをしていない。
胸元で、美咲はタオルを握った。濡れたタオルが冷たい。自分の心臓の音が聞こえる。切なくて、不安で、速くなる心臓の鼓動。
洋平は、私を、どう想っているんだろうか。
弟のように、守るべき存在?
守れなかった弟の代わり?
自分の推測に、心臓の鼓動がさらに速くなった。
私は、洋平が好き。
洋平は?
洋平の気持ちが、知りたい。
「ねえ、洋平」
洋平は背中を向けている。彼の顔は見えない。
「何だ?」
「どうして、後ろを向いてるの?」
「いや、だって……お前、裸だし」
洋平は少しだけ、言葉を噛んだ。
美咲は少しだけ、笑ってしまった。
「私の裸なんて、何度も見たでしょ? しかも、初対面の日に」
「いや、そうだけど」
冬場にしては暖かい、家の中。でも、寒い。温め合いたいくらいに寒い。けれど、誰でもいいわけじゃない。
「でも、あの時の美咲と今の美咲は、なんか違う気がして」
「そうなの?」
「ああ」
「だから、セックスもしないの? あの時は、毎晩してたのに」
洋平が黙り込んだ。沈黙の意味は、美咲には分からない。想像もできない。私は、洋平みたいに賢くないから。そう自覚している。だから、聞きたい。
「もう、私とセックスしたくない?」
洋平は困ったように頭を押さえた。
「私の体に飽きた?」
「違う!」
意外なほど大きな、反論の声。十畳ほどの部屋に響いて、すぐに消えた声。
洋平は大声を出したことに「ごめん」と言うと、
「俺は、美咲とセックスしたくないわけでも、美咲の体に飽きたわけでもない。ただ、美咲を大事にしたいんだ」
「……」
「
「……」
「それだけで、したいんだ」
「……」
驚いて、美咲は口を小さく開けてしまった。
──洋平は、私のことが好きなんだ。
彼の言葉を聞けば、それは簡単に分かった。
驚いたのは、洋平の気持ちにではない。彼のあまりの純粋さに、だ。
洋平は賢い。秀人の家で毎日訓練と勉強に明け暮れて、色んな知識を身に付けていた。頭の回転が驚くほど速くなっていた。そんなに賢いのに、信じているのだ。ただ相手を想う気持ちだけで、セックスができると。情欲など一切混じらず、ただの愛情だけで。そんなセックスができないから、美咲を抱かなかったのだ。
高い知能と豊富に身に付けた知識。未だに欠けている、社会性や常識。その、アンバランスさ。
そんなところを、可愛いと思った。
そんなところすら、愛しかった。
美咲は静かに立ち上がり、洋平の側に行った。
「ねえ、洋平」
洋平の側で、しゃがみ込む。彼との距離は、ほとんどない。でも、まだ遠い。もっと距離を縮めたい。
「私ね、もう、
洋平の後ろから、そっと抱き付いた。体が触れ合う。洋平が少し震えたのが分かる。密着した体。心臓の鼓動すら伝わりそうだ。
それでも、まだ遠い。
これ以上に、近付きたい。
「でも、洋平ならいいの。無理矢理でも。欲求だけでも。乱暴にされても。洋平なら、いいの」
もっと近付きたい。ひとつになりたい。交わりたい。
コーヒーに入れたミルクが、渦を巻いて溶けていって。色が変わって、ひとつになるように。
相手の中に、溶けていってしまうように。
ひとつになってしまいたい。
「人間なんて、そんなに綺麗なものじゃないよ。好きな人とするときだって、好きだって気持ちだけじゃない。それでも、いいの。好きだから。好きな人とだから」
矛盾を含む言葉。でも、正直な美咲の気持ち。
洋平の体が動いた。抱き締める美咲の方を向いた。
目が合った。視線が絡む。暗くても分かるほど、切なそうな目。泣きそうにさえ見えた。
美咲も、泣きそうだった。洋平の気持ちが知れて、嬉しいのに。彼が自分のことを好きだと知って、笑みがこぼれそうなのに。
それなのに、なぜか、泣きそうだった。
互いの吐息がかかる距離。息遣いを感じる。その距離が、自然に、さらに近付く。
唇が重なった。
洋平の唇は乾いていて、少しカサカサしていた。
「寒いね、洋平」
洋平と触れ合っている部分は、温かい。でも、まだ足りない。
「ね。温めて」
互いの温もりを求めて。
求め合って。
洋平が座り込んでいた布団の上に、二人の体は倒れた。
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