閑話 そんな姿を目にした子供が、社会正義を信じられるはずがない
昼間の日差しを浴びながら、私は、ソファーでのんびりとしています。
ストーブの前には、二匹の黒猫。うちのユキとコハルです。
十二月。すっかり寒くなってきました。
このマンションは日差しがよくて暖かいんですけど、当然のように外は寒いです。雪も積もってきて、すっかり冬ですね。
洋平君と美咲ちゃんがこの家に住み始めたときは、まだ夏でした。
二人は、今頃どうしているのかしら。そう思うと、自然と溜息が出てきます。
あの子達が出て行ってから、今日で三日。
寂しくて、あれから何もする気になれないんです。
息子が独り立ちして、私とユキとコハルだけの生活になって。そんな暮らしにも、すっかり慣れていたつもりだったんですけど。
でも、やっぱり寂しかったんでしょうね。だから、洋平君や美咲ちゃんがこの家に来てから、とても楽しかったんです。
きっと私は、洋平君に、息子を重ねていたんでしょう。少年の頃の息子を。
美咲ちゃんは、そんな息子が連れて来た彼女。
いいえ、違いますね。
二人の親密さからして、息子が連れて来たお嫁さん、と言った方が正しいかしら。
まあ、あの二人は、出て行く直前になるまで、お互いの気持ちに気付いていなかったみたいですけど。
私には、お見通しでしたよ。伊達に長く生きているわけじゃありません。もう、七十になるんですから。
でも、その二人も、三日前の夜に出て行ってしまった。
心にポッカリと穴が空くって、こんな気持ちなんでしょうね。ユキやコハルにご飯をあげて、トイレのお片付けをして。それ以外、何もする気になれなくて。
お料理だって、美咲ちゃんに教えているときは、あんなに楽しく作れていたのに。
今は、何も作る気になれなくて。
洋平君は、犯罪者だった。美咲ちゃんは、その共犯者。だから、警察に捕まる前に、ここを去った。
私の息子は弁護士です。電話で、洋平君や美咲ちゃんのことを相談しました。どうにかして助けられないか、って。
だって、あの二人が、あまりに不憫だったんですもの。それまでの人生で、愛情をまったく知らずに育ってきて。誰にも守られずに生きてきて。傷だらけになって。
あんなに優しい、とてもいい子達なのに。
私には、最初から分かっていたんですよ。洋平君も美咲ちゃんも、本当は心優しい子なんだ、って。
だって、私を襲ったときの洋平君の腕には、まるで力が入っていなかったんですもの。年寄りの私が怪我をしないように、気を遣ったんでしょうね。
私は、元看護師です。今ではそれほど見かけませんけど、昔──二、三十年くらい前までは、暴走族同士の抗争とかがたくさんあったんです。それで大怪我をした子が、病院に緊急搬送されて来たことも。中には、リンチを受けて何十箇所も骨折した子もいました。
そんな子を入院させている病院に、敵対勢力の暴走族の子が攻め込んで来たこともありました。
本当に悪い子っていうのは、実際にいるんです。そういう子は、決して手加減なんてしません。警察が来るまで、病院内で何人も怪我人が出ました。
洋平君は、そんな子達とは違った。ただ美咲ちゃんを守りたくて、必死で。そんな状況でも、私に怪我をさせないように気遣って。
本当は、出て行く二人を引き止めたかった。泣いて縋ってでも、ここにいて欲しいと思ったんです。
でも、どんなに止めても、洋平君は出て行ったでしょう。仮に、私が息子に頼んで、可能な限り減刑できるようにすると約束しても。
だって、洋平君が望んでいるのは──彼が警察から逃げているのは、罪に問われたくないからじゃない。罰を受けるのが嫌だからじゃない。
警察が、許せないから。自分の弟を見殺しにした警察に、捕まりたくないから。
だから私は、私なりの協力をするしかなかった。それしか、できなかった。
私の相談を聞いて、息子は呆れていました。
『とうとう猫だけじゃなく、人間まで拾ってきたのかよ』
そんなことを言われてしまいました。ユキやコハルを引き取ったときのことを言っているんでしょうね。この子達は、保護された野良猫でしたから。
でも、呆れながらも、息子は色々とアドバイスをくれました。
息子は刑事事件の専門家ではないそうです。知識はあっても、それを専門にしているわけではない、と。でも、可能な限り力を貸すと言ってくれました。
息子は、洋平君にだって負けないくらい優しいんですよ。自慢の息子です。
何もやる気になれなくても、息子に教えられたことだけは、しっかりメモに取りました。息子は、いざとなったら無理矢理にでも帰省して力を貸す、とも言ってくれました。どうやら私は、犯人
まあ、もう人生も終盤に入っているんですから、一回くらい刑務所に入ってもいいんですけどね。ちょうどいい冥土の土産です。
あ、でも、そうしたら、息子の仕事に影響が出ちゃうかしら。だとしたら、どうにか避けないといけませんね。
ピンポーン、とインターホンが鳴りました。
ユキは驚いて、ストーブの前で起き上がりました。いつでも逃げられるよう、姿勢を低く構えています。
コハルはまだのんびりとしながら、大きなあくびをしました。
私はソファーから重い腰を上げて、玄関に向かいました。
玄関に出ると、ドアの覗き穴から外を見ます。相手も確かめずにドアを開けるほど、馬鹿じゃありません。老人の一人暮らしなんですから。
玄関の外には、男の人が三人いました。一人は、コートの中にスーツを着ています。他の二人は、警察官にも似た制服。でも、明らかに違う。
私は、警察の内情には詳しくありません。でも、テレビで見たことがあります。警察の機動隊解体後に設立された、超……なんとか隊。二人が着ているのは、その制服でした。
すぐに気付きました。洋平君と美咲ちゃんを追ってきた警察官だ、と。どうして超なんとか隊の人がいるのかは、分かりませんが。
私はチェーンを外して、ドアを開けました。
「何のご用でしょうか?」
白々しいかも知れませんが、一応、聞いてみます。
三人はまず、自分達の警察手帳を見せ、自分達が警察関係者であることを明かしました。
その後、スーツを着た方──刑事さんが、懐の内ポケットから、一枚の書面を取り出しました。折りたたんであるそれを広げます。逮捕令状でした。実物を見たのは初めてです。
「村田洋平と笹森美咲に、逮捕状が出ています。こちらに在宅だと伺っていますので、速やかに同行いただくよう願います」
刑事さんの口調はとても事務的で、冷たいものでした。この人だって、血の通った人間でしょうに。
私は少し、カチンときてしまいました。あんな優しい子達に、こんな冷たい口調で喋るのかと思うと。
「ここにはいませんよ。私ひとりです」
嘘は言っていません。もう、あの子達は出て行ってしまったんですから。ただ少し、冷たい言い方をしただけです。
刑事さんが顔をしかめました。この人、こんな老人の一言に顔色を変えて、大丈夫なのかしら? 私が言うのも変ですけど、もっと冷静になった方がいい気がします。
刑事さんの後ろにいた超なんとか隊の人が、前に出てきました。はっきり言って、嫌な顔をしていました。明らかに、人を見下す目をしています。
「お婆ちゃん、嘘は駄目ですよ? 調べはついてるんですから」
顔によく似合う、傲慢な喋り方でした。たぶん、こんな人なんでしょうね。洋平君が弟を助けて欲しいと訴えたときに、無下な扱いをしたのは。
私はますます、カチンときてしまいました。
「だったら、調べてみます? ウチの子達を怖がらせたりしないなら、いくらでも調べてみてください。あの子達は、もうここにはいませんから」
息子に注意されていたのは、事を荒立てないことと、警察に決して嘘をつかないこと。ちゃんとメモに残しているんですから。まあ、事を荒立てないというのは、ちょっと自信がないですけど。
「もういない、ってことは、やっぱりいたんじゃないですか。嘘は駄目だね、お婆ちゃん」
「あら? 嘘なんて言ってませんよ? 私は、ここにはいない、って言ったんです。そんな子達は知らないとも、最初からいなかったとも言ってませんよ?」
超なんとか隊の人は、明らかに聞こえるように舌打ちをしました。自分から挑発してきたくせに、ずいぶん身勝手なものです。
「だったら、そいつ等がどこに行ったか、白状して下さいよ。下手に庇い立てすると、お婆ちゃんも犯罪者ですよ?」
「あら? それは脅迫ですか? いいのかしら? 警察の方が、そんなことを言って」
「脅迫じゃなく、忠告ですよ。ろくでもないガキを庇って犯罪者になるなんて、嫌でしょう?」
ろくでもないガキ。ろくでもない警察官が、よくそんなことを。
私は、完全に頭にきました。若い子風に言うなら、キレました。
「私は、あの子達がどこに行くのかも聞いていませんし、もちろん、居場所も知りません」
これは本当です。というより、あの子達自身、どこに行くか分からないと言っていたんです。私が知っているわけがありません。
私は、ただ、約束しただけです。あの子達と。
「でも、仮に、私があの子達の居場所を知っていたとしても、あなたには言いたくないですね。あの子達がろくでもないガキなら、あなたは、ゴミのような大人ですか? それとも、クズみたいな警察官? もしくは、その両方かしら?」
私はあっさりと、息子との約束を破ってしまいました。
『事を荒立てるな』
たぶん、後で息子に叱られちゃいますね。
でも、いいんです。自分の子供達を侮辱されて黙っていられる親に、親の資格なんてないですから。
超なんとか隊の人は、明らかに苛立っていました。口の中で「このババァ」と言ったの、はっきり聞こえてますよ。まだ耳は遠くないんですから。
「いい加減にしろ、
もう一人の超なんとか隊の人が、傲慢な超なんとか隊の人──五味さんの肩を掴みました。身長は、五味さんより低いです。洋平君よりちょっと高いくらいかしら。一七〇センチくらい。でも、すごい筋肉質なのが、着ている服の上からでも分かります。
「でも、部隊長」
部隊長。この筋肉質な人は、五味さんの上司みたいです。それがどのくらいの地位なのかは、私には分かりませんが。
部隊長さんは五味さんの肩を引いて後ろに押し退けると、一番前に出てきました。
あらあら。刑事さんが一番後ろに。捜査の仕事って、刑事さんがするものでしょうに。
部隊長さんは一番前に来ると、姿勢を正して、私に頭を下げました。とても綺麗なお辞儀です。
「申し遅れました。
こんなに丁寧に言われると、つい、私の溜飲も下がってしまいます。たとえ部隊長さん──前原さんの本心が、どのようなものであっても。
「とんでもないです。頭を上げてくださいませんか? 私も、大人げがなかったんですから」
これは本心です。つい頭にきて、五味さんに下品な言葉を向けてしまいましたから。まあ、本心ではあるんですけど。
前原さんはゆっくりと頭を上げました。精悍な顔立ちをしています。目は、真っ直ぐ私の目を見ています。
人の性格なんて、見ただけで分かるものじゃありません。でも、前原さんには、誠実そうな印象を受けました。
「大変お恥ずかしい話ですが、私達は、村田洋平君のことも、笹森美咲さんのことも、詳しくは知りません」
前原さんは、丁寧にひとつひとつ、言葉を紡いでいました。「とっとと知っていることを話せ」という雰囲気を出していた五味さんとは、まるで違います。
「なので、ご存じの範囲でいいので、教えていただけませんか? 彼等の居場所をご存じでなくとも、人となりなど、ご認識の範囲で」
前原さんは、私から目を逸らしません。私の目を見ながら、真摯に訴えてきます。
彼が本当に、洋平君達のことを知り、彼等のことを理解しようとしているのか。そんなことは、私には分かりません。どんなに人生経験を得ても、どんなに歳をとっても、人の心なんて読めないんですから。
けれど、前原さんは、本心から洋平君達のことを知ろうとしているようでした。それは、単に逮捕のためだけじゃなくて。彼等と、ひとりの人間として関わろうとしているように見えて。
つい、私は、聞いてしまいました。
「もうすぐ八年になるのかしら。私も洋平君に聞いた話だけど。市内で起こった、四歳の子供が父親に虐待されて殺された事件、ご存じ?」
それは、洋平君の弟が殺された事件。洋平君の訴えを、交番にいた警察官が無視したために起こった事件。
前原さんは、本当に申し訳なさそうな顔をしていました。
「申し訳ありません。存じてないです。お恥ずかしい話ですが」
「いいえ。無理もないですね。そういう事件、多いですから」
最近の若い親は、なんてことを言うつもりはありません。だって、そういう親の世代を育てたのは、私達の世代なんですから。
もちろん、洋平君の弟の事件を知らなかった前原さんを責めるつもりもありません。
「あの子の──洋平君の弟が、父親の虐待で殺された事件です。痛ましい事件。きっと、調べれば、すぐに分かると思いますよ」
私だって馬鹿じゃありません。洋平君に事件のことを聞いた後、私なりに調べたんです。八年前の虐待死事件。間違いなく事実で、洋平君が当時住んでいた場所も、だいたいですけど分かりました。この家から、そう遠く離れていませんでした。
私はゆっくりと、洋平君の弟が殺されたときのことを話しました。あの子が、弟を、父親から必死に守っていたこと。でも、まだ九歳の子供にできることなんて、たかが知れていたこと。自分ひとりの力ではどうにもならなかったこと。
助けを求めるために訪れた交番で、洋平君が、警察官に無下に扱われたこと。
前原さんは、沈痛な面持ちで聞いてくれました。
まあ、その後ろにいる五味さんや刑事さんは、面白くなさそうな顔をしていましたけど。
「洋平君は、毎日、暇を見つけては体を鍛えていたんです。連れの女の子を──美咲ちゃんを守るために。今度こそは守るんだ、って。汗まみれになって上半身裸になると、傷だらけでした。どんな凄惨なリンチをされたらこんな体になるんだ、っていうくらい」
「それが、虐待された
私は頷きました。
「私は、元看護師なんです。だから、ひどい怪我をした人を何人も見てきました。でも、洋平君の体は、そんな人達よりもひどかった。煙草の火を押し付けられた痕なんて数え切れないくらいあって、それが何層にもなって、皮膚がボコボコになってて。ひどい骨折をした右足の脛は、変形していて」
前原さんは無言でした。返す言葉がない。そんな顔。
後ろの二人は、もう私の話なんて聞いてもいませんでした。犯人を捕まえる。それが彼等の仕事。弱い人を守るのが仕事じゃない。そんな社会正義。
「前原さんの後ろにいる二人を見て、今になってようやく、洋平君の気持ちが分かりました」
私の言葉を聞いて、前原さんは後ろを振り向きました。
二人は、私の言葉が耳に入って、前原さんに見られて、「まずい」とでも言いたそうな顔になりました。
「洋平君は言ってました。弟を見殺しにした警察になんか、捕まりたくない、って。あなた方を見て、よく分かりました。誰にも守ってもらえなくて、必死に戦って、でも、どうしようもなくて。あんな生き方しかできなかった洋平君を、平気で『ろくでもないガキ』呼ばわりする人が、正義を振りかざしてる」
五味さんは、さも面白くなさそうな顔になっていました。反省の色なんて微塵も見えません。この人にとって、見ず知らずの子供の痛みなんて、所詮他人事なんでしょうね。
私は、洋平君達が出て行くとき、あの子達に約束してもらいました。
ひとつは、美咲ちゃんのこと。もし、この家に来たときにみたいに体調を崩してしまったら、ほんの少しの間だけでもいいから戻ってきて、と。体が回復するまででいいから。
もう一つは、絶対に死なないこと。どんなに絶望しても、悲しくても、苦しくても、死なないこと。私が生きているうちに、幸せになって、会いに来ること。
そんなことは、もしかしたら不可能なのかも知れない。あの子達の笑った顔なんて、もう見られないのかも知れない。でも、私は、願わずにはいられないんです。
「あの子達には、幸せになってもらいたいんです」
洋平君達に関する情報ではなく、あの子達に対する気持ち。それを、つい、口にしてしまいました。こんな話は、警察の人にとっては聞く価値などない。そう分かっていても。
それでも前原さんだけは、ちゃんと聞いてくれました。後ろの二人は、バツが悪そうな顔をしているだけでしたが。
「できれば、私が生きているうちに、あの子達に会いたい。幸せになったあの子達を見たい。だって、あんまりじゃないですか。誰にも守ってもらえなくて、さっきみたいに蔑まれて」
五味さんが、小さく舌打ちしました。
「あんなに優しい子達なのに」
舌打ちが聞こえたのでしょう、前原さんは、五味さんを一睨みしました。
相変わらず、五味さんは面白くなさそうな顔です。
刑事さんは、面倒臭いという様子を隠そうともしません。
前原さんだけが、真剣に言ってくれました。
「約束します。村田洋平君も笹森美咲さんも、決して不幸になんてしません。必ずまっとうに生きられる道をつくって、ここに戻って来るようにします」
前原さんの口調や表情には、嘘や誤魔化しなど全く感じられません。でも、後ろの二人のせいか、それとも、私がひねくれているだけなのか、どうしても期待できませんでした。
「あまり期待しないで待ってます。私も、老い先短い──」
「期待してください」
それまでの前原さんらしくなく、私の言葉に無理矢理かぶせてきました。
「絶対に、二人を不幸にしません。だからどうか、彼等に会うまで、お元気でいてください」
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