第三十八話 離れたくない気持ちと、理解していることと、譲れないものと



 空から、雪が舞い落ちている。チラチラ、チラチラと。


 雪の白に囲まれた秀人の黒いロングコートは、暗い夜でもよく目立つ。ゆっくりと遠ざかってゆく、彼の背中。自分より小柄なのに、その背中は大きかった。


 洋平は、秀人の背中に理想の父親を見ていた。


 そんな秀人が、わざわざ会いに来てくれた。忠告しに来てくれた。それが嬉しくて、また一緒に行動したくて。美咲も一緒に、また三人で、家族みたいに。いや、今は婆ちゃんもいるから、できれば四人で。


 自分の心に浮かんだ考えがあまりに非現実的で、洋平は、なんだか悲しくなった。婆ちゃんは、普通の人だ。息子は弁護士だという。どう考えても、犯罪を重ねる秀人とは相容れない。


 叶わない夢を見ている暇はない。洋平は自分に言い聞かせ、車に乗り込んだ。エンジンをかける。走り出す。秀人の姿は、もう見えなくなっていた。


 警察が、自分達の居場所を突き止めた──秀人はそう言っていた。だったら、もう、婆ちゃんの家にはいられない。


 おとなしく警察に捕まるという選択肢は、洋平にはなかった。あいつ等が正義を振りかざし、自分を逮捕する。そんな場面を想像するだけで、虫酸が走る。


 弟を見殺しにしたくせに!


 苛立ちで、つい、必要以上にアクセルを深く踏みそうになった。自分を落ち着かせるように、ゆっくり深呼吸をした。運転しながら、これからのことを考えた。


 警察に居場所を知られた。それならば、早ければ明日にでも、警察が婆ちゃんの家に来るだろう。洋平を逮捕するために。のんびりしていられない。すぐにでも婆ちゃんの家を出る必要がある。居心地のいい家を出るのは辛いが、仕方がない。


 車のデジタル表示の時計を見た。時刻は、十時十二分。


 新聞配達で明日も早いから、美咲はもう寝ているだろう。


 美咲。八ヶ月前に出会ってから、ずっと一緒にいた。彼女とのこれまでの出来事が、頭に浮かんだ。


 暴力団員に囲まれていた美咲を助けた。その日のうちに彼女の家に行った。弟を弔うことを教えてくれた。セックスをした。二人して暴力団に拉致された。秀人の家で寝食を共にした。秀人に見限られ、二人して彷徨った。婆ちゃんの家に住み始め、同じアルバイト先で働いた。


 出会った当初、洋平にとって、美咲は弟の代わりだった。弟を守れなかったから、せめて、誰かを守りたい。強い者の理不尽な暴力から、守り抜きたい。


 今にして思えば、それは、自分なりの弟への懺悔だったのかも知れない。弟を守れなかった罪滅ぼしとして、他の誰かを守る。その対象が、たまたま美咲だっただけだ。


 でも、今は違う。


 洋平は、はっきりと自覚していた。自分は、美咲が好きだ。ずっと一緒にいたい。共に生きていきたい。離れたくない。


 ただの守る対象じゃない。弟の代わりじゃない。だから、婆ちゃんの家で一緒の布団に入っても、セックスできなかった。したいけど、したくなかった。自分の中にある、好意以外の感情を自覚できたから。


 男としての、情欲。欲求。

 美咲の体を買った男達と、同じような。


 そんな気持ちを抱えたまま、美咲とセックスをしたくなかった。ただただ美咲を好きな気持ちだけで、セックスしたかった。


 でも、もうそれはできないだろう。


 自分は、婆ちゃんの家を出るから。どうしても受け入れられないことに、抵抗するために。


 美咲を連れて行く気はない。婆ちゃんの家で暮らしている美咲は、疑いようもなく幸せなのだ。


 母親に甘えるように、婆ちゃんに接している。二匹の猫をもの凄く可愛がっている。近頃、ユキが、美咲に甘えてくるようになった。美咲は嬉しそうに、ユキの頭を撫でていた。


 今の幸せを、美咲から奪えない。幸せを奪って、苦労しかない道に進ませる気になどなれない。


 住み慣れたマンションの前に着いた。


 道路脇に車を停めると、エンジンを止めて、洋平は車から降りた。


 マンションに入り、エレベーターで四階まで上がった。婆ちゃんから預かっている鍵で、洋平は家のドアを開けた。


 三ヶ月半ほど住んだ、2LDKのマンション。見慣れた玄関。洋平と美咲が使っている、右側にある部屋。婆ちゃんの息子の部屋。今では、すっかり洋平と美咲の部屋になっている。


 その部屋は、今はドアが閉められている。時刻は、たぶん十時二十分くらい。美咲は、もう寝ているだろう。


 左側にあるリビングの明かりは、まだ点いている。


 洋平は靴を脱ぎ、家に上がった。リビングのドアを開ける。コハルが小走りで寄ってきて、洋平の足にすり寄った。ユキはリビングの奥で、じっとこちらを見ている。逃げられることはなくなったが、寄ってくることもない。


 重苦しい寂しさが、洋平の胸にのし掛かった。


「婆ちゃん、ただいま」

「おかえりなさい、洋平君。明日も早いんでしょう? もう寝たら? 美咲ちゃんも、もう寝てるし」


 婆ちゃんはソファーに座って、本を読んでいた。文庫本。開いたまま、脇に置いた。


 リビングの奥にいたユキがトコトコと歩いていって、婆ちゃんの膝に跳び乗った。ユキがそんなことをするのは、今のところ婆ちゃんにだけだ。美咲には、すり寄るようになったものの、膝の上に乗ったりしない。


 でも、たぶん、近いうちに、美咲の膝の上にも乗るようになるんだろうな。


 寂しさと、美咲の幸せを願う気持ち。洋平の胸の重みが、増してくる。


 できれば、ずっとここに居たい。美咲と一緒に。ユキを膝に乗せて喜ぶ、美咲の顔が見たい。彼女の笑顔を見ていたい。


 それは、決して叶うことのない希望だ。今出て行かなくても、近いうちに警察が来て、洋平は逮捕される。どちらにしても、美咲とは離れ離れになる。


 それならば、せめて美咲だけは。


 美咲だけは、この幸せな生活を続けて欲しい。


 洋平は婆ちゃんに近付くと、ソファーに座っている彼女の前で正座をした。初めてこの家に来たときのように。


「どうしたの? 洋平君」


 婆ちゃんは少し驚いているようだ。無理もない。何の前触れもなく、突然、洋平が目の前で正座をしたのだから。


「婆ちゃん」


 この家を出る。美咲が眠っているうちに。


「俺、この家を出るよ」


 ピクンッ、と婆ちゃんの手が動いた。その動きに驚いたのか、彼女の膝にいるユキが目を見開いた。


「どうしたの? 急に」

「俺達の居場所が、警察に突き止められた。逮捕状も請求してるらしい。だから、近いうちに、この家に警察が来ると思う。先に謝っておくけど……迷惑かけて、ごめん」


 正座の体勢から、洋平は頭を下げた。ただしこれは、詫びの意味ではない。これから口にする頼みのためだ。


「そう……」


 婆ちゃんの声は、寂しそうだった。いや、「寂しそう」ではない。寂しいのだ。彼女は洋平に、家族のように接してくれた。それは、もしかしたら、この家を出て行った息子の代わりに過ぎないのかも知れない。それでも、洋平にとっては嬉しく、ありがたかった。


「美咲ちゃんはどうするの?」


 当然の質問が、婆ちゃんの口から出た。


 回答は、すでに洋平の心の中で決まっている。そのための土下座だ。


「そのことで、婆ちゃんに頼みがあるんだ」


 美咲から、この平穏で幸せな生活を奪うわけにはいかない。奪いたくもない。これからますます寒くなる季節なのに、美咲を連れ回すこともできない。自分の犯罪に巻き込むのも嫌だ。


 洋平は思い切り、フロアカーペットに頭を押し付けた。どうしても聞き入れて欲しい頼み。聞き入れてもらうためなら、何だってするつもりだ。


「美咲を、このままこの家に住まわせてほしい。面倒を見て欲しい。そして、警察が来たら、証言してほしい。美咲は、俺に連れ回されていた被害者だ、って。そうしたら、美咲が罪に問われることもないから」

「それが、洋平君が考えてる最善の選択なの?」

「……」


 最善とは言えない。


 洋平は頭を上げなかった。誠意を見せるために、この体勢のまま正直な気持ちを伝える。


「俺はこのまま、これから逃亡する。けど、分かってはいるんだ。俺だけ捕まって、大人しく罰を受けるのが、一番の解決方法なんだ、って」

 

 洋平が犯した罪は、複数の大学生に対する傷害、住居不法侵入、および秋田家への住居不法侵入、秋田家長男に対する傷害、もしくは殺人未遂。


 洋平自身の年齢と犯した罪の内容から、死刑になる可能性はゼロだ。秀人の家で読んだ本から、洋平は自分の罪を概ね理解していた。


 刑を確定する際に情状酌量の余地が認められ、さらに、秋田家長男に対する罪が殺人未遂ではなく傷害で済めば、それほど大きな罰は受けないだろう。幸運に恵まれれば、保護観察処分で済むかも知れない。


 反対に、どんなに最悪のパターンで物事が進んだとしても、死ぬことはない。数年もすれば当たり前に娑婆しゃばに出てきて、当たり前に美咲に会うこともできる。


 もし、将来予測される幸福度を数値化できるなら。


 おとなしく警察に捕まるという選択が、一番高い数値を出せるのだろう。少なくとも、洋平自身にとっては。


「嫌なんだ」


 我が儘だと分かっていても、洋平は、どうしても譲れなかった。


「俺は、警察には捕まりたくない。俺の弟を平気で見殺しにした奴等に、正義を振りかざされたくない」


 何があっても守るべきは、美咲の幸せ。その次が、自分の譲れない気持ち。


 その両方を守るためには、美咲への想いを断ち切るしかない。婆ちゃんに、美咲のことを頼むしかない。


 婆ちゃんがこんなことを言うはずがないが──もし、洋平の願いを聞き入れる代わりにこの場で死ねと言われたら、喜んで受け入れる。自分の命と引き替えに美咲が幸せになるなら、命など惜しくない。警察に捕まるくらいなら、笑って死を選んでやる。


 カチャリ。リビングの入り口から、音が聞こえた。ドアが開く音。


 洋平は頭を上げて、リビングの入り口を見た。


 美咲が、立っていた。


 聞かれたのか? つい、目を大きく見開いてしまう。洋平の口から漏れたのは、なんとも間抜けな言葉だった。


「起きてたのか?」


 ゆっくりと、美咲が近付いてきた。泣きそうな、怒っているような、複雑な表情。気の強そうな目は、洋平を睨んでいた。


「洋平が、なかなか帰って来なかったから。だから、待ってた」

「そうか」


 美咲がすぐ近くまで来た。


「出て行くの?」

「ああ。ここにいたら、警察に捕まるからな」


 洋平は正直に答えた。


「私をおいて?」

「ああ。お前は、ここにいた方がいい」

「そう」


 美咲が目を伏せた。大きく息を吐いた。溜息のようだった。


 しばしの沈黙。ほんの一、二秒か。

 その直後、美咲は大きく右手を振りかぶった。


 洋平の目には、美咲の動きがはっきりと見えた。スポーツ選手が稀に経験するというゾーンのように。彼女の動きが、スローモーションに見える。自分に向かって振り下ろされる、美咲の右手。


 思い切り、頭を叩かれた。洋平は避けなかった。殴られても罵られてもいい。いっそ、嫌われてもいい。美咲が不幸になるより、ずっとマシだ。


 そんな洋平の考えは、美咲の変化で一瞬にして消え去った。


 美咲は、泣いていた。口をキュッと閉じて、肩を震わせて、泣いていた。


 閉じた美咲の口が、開かれた。出てきたのは、涙声だった。


「嘘つき」


 この家に来るまで、洋平は、美咲の泣き顔を見たことがなかった。暴力団に絡まれたときも、拉致されたときも泣かなかった。秀人に見捨てられたときも泣いていなかった。気丈に洋平を支えてくれた。滅多に泣かない女だと思っていた。


 最初に美咲の泣き顔を見たのは、この家に初めて来たときだ。


 ああ。こいつも案外、泣くんだな。場違いかも知れないと思いつつも、そんなことを考えた。


「私を守るって、約束したよね? 側にいなくて、どうやって守ってくれるの?」


 ふいに洋平は、美咲と出会って間もない頃を思い出した。美咲が売春をしていた頃。帰りのタクシーの中で、疲れ切った洋平に美咲が言ったのだ。


『ごめんね。大変だよね。来週は、家で待ってる?』


 洋平はこう答えた。


『ボディーガードが家にいたままで、どうやって守るんだよ?』


 言葉を返せなかった。洋平は俯いて、黙り込んだ。結局のところ、自分ひとりで美咲を守れていない。誰かに頼って、誰かに任せて。暴力団事務所でも、秋田家でも、美咲が体調を崩したときも。そして、今も。美咲を守りたかったのに、守れていない。


「側にいて、守ってよ」


 俯いた洋平の視界に、美咲の膝が映った。洋平の前で、両膝をついて座り込んでいた。その直後に、柔らかい感触。抱き締められた。いい匂いがした。


「いなくなったら、嫌だよ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ」


 まるで幼い子供のように、美咲は嫌だと繰り返した。泣きながら。嗚咽混じりに。


 ああ、そうか。


 今になって、洋平はようやく気付いた。むしろ、どうして今まで気付かなかったのか、不思議なくらいだった。自分では、ずいぶん賢くなったつもりだったのに。


 美咲も、俺を──


 嬉しかった。好きな人に好かれるということが、こんなに幸せなことだなんて。今まで、知りもしなかった。考えもしなかった。


 嬉しい。だからこそ、悲しい。


 洋平は、自分に抱き付く美咲を離そうとした。彼女の気持ちを拒絶するように。自分の気持ちに蓋をするように。そっと、彼女の肩に触れた。


「連れて行ってあげたら?」


 婆ちゃんの言葉で、洋平は手を止めた。

 洋平は彼女を見た。


 婆ちゃんの表情は、優しい。いつも通りに。でも、その目は厳しかった。


「約束したんでしょう? だったら、守らないと」

「でも……」

「今度こそは、守ってあげたら?」


 今度こそは。婆ちゃんの言葉に、洋平の体がかすかに震えた。


 洋平は、この家に来たときに、自分の身の上を全て彼女に話している。ここに来るまでの経緯も。美咲が売春をしていたこと以外は、全て。


 弟を守れなかったことも。


 婆ちゃんの言葉が、胸に痛かった。


 洋平は、美咲の肩から手を離した。少しだけ躊躇うように、手を泳がせた。決意を表すように、彼女をそっと抱き締た。頭を撫でた。


「俺について来ると、大変な思いをするぞ?」

「分かってるよ、そんなこと」


 美咲は、まだ泣いていた。


「苦労するぞ?」

「言ってること、同じだって」

 

 洋平を抱き締める、美咲の腕。その腕に、力が込められた。


「駄目だって言っても、嫌だって言っても、絶対について行くから。しがみ付いてでも一緒に行くから」

「ああ」


 約束は守ろう。今度こそ。どんなことがあっても。たとえ状況が、どれほど絶望的であっても。実現することが、非現実的でさえあっても。


「一緒に逃げよう。逃げ切ろう」


 洋平の腕の中で、美咲が小さく頷いた。




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