第三十七話 金井秀人は忘れたようで覚えている



 十二月になった。


 雪がチラチラと降っている。

 暗い空から舞い落ちる、白い雪。


 雪の白さが、夜の暗さを照らす。そんな印象を受けるほど、雪の白さを明るく感じる。


 時刻は、午後十時五分前。


 住宅密集地からやや離れた場所にある、広い公園。水抜きされた池や、アスレチック風の遊具がある。周囲には、車がなんとかすれ違える程度の小道が通っていた。


 小道の脇に一台、車が路上駐車している。その姿が、街灯に照らされている。天井や窓に、薄く積もった雪。


 その車の近くで、秀人はひとり、たたずんでいた。


 雪が、秀人の黒いロングコートについている。妖艶な美女を思わせる風貌。その周囲に舞う雪。それはまるで、物語のワンシーンを切り取ったかのようだった。


 けれど、その頭で考えているのは、物語のように美しいことではない。少年と少女の人生を、これから大きく動かす目論み。


 洋平と美咲を、追い詰めてゆく目論み。


 洋平と美咲が老女の家に住み始めてから、三ヶ月半ほど経っていた。彼等は、今ではアルバイトも始め、普通の若者のように過ごしている。


 どこにでもいる、普通の、幸せな若者。


 三ヶ月半もそんな生活ができたのだから、もう十分だろう。


 幸せな時間は終わりだ。これからは、追い詰められながら暴れてもらう。


 洋平や美咲を追い込む準備を、秀人は、この三ヶ月半の間に着々と進めてきた。


 三橋に、秋田家一家殺害の全容を話した。洋平と美咲の写真を三橋に渡し、警察にリークさせた。大学生宅不法侵入事件と秋田家一家殺害事件の犯人に関連性があることを、警察内部に広めさせた。洋平が超能力者だという話を、秋田家一家殺害事件の捜査本部に通達させた。


 この後は、三橋を使って、洋平達の居場所を警察に伝えさせる。


 ただしそれは、洋平達が老女の家から出て行くよう、仕向けてから。


 今の洋平達は、危機感が欠如している。三ヶ月半もの「休暇」で、気が緩んでいる。そんな状態で警察に追い詰められたら、大して抵抗もできずに逮捕されることになる。


 だからまずは、気を引き締めてもらう。自分達が警察に追われているということを、思い出してもらう。警察に居場所を突き止められていると、洋平に伝える。

 

 自分達の居場所が警察に割れていると聞いたら、洋平は、老女の家を出るはずだ。洋平は決して、弟を見殺しにした警察に降伏などしない。


 老女の家を出る洋平に、美咲は、どんなことがあっても着いていくだろう。秀人の家に来たときと同じように。秀人に見捨てられたときと、同じように。


 洋平は、そんな美咲の意思を拒めない。


 結果として、洋平は、足手まといを抱えながら逃走することになる。


 警察は、洋平を超能力者だと推定して捜査し、追っている。超隊の隊員も捜査に加わっている。


 たとえ洋平が一人だとしても、逃げ切るのは容易ではない。自分ひとりでも困難なのに、美咲という足枷まである状況。


 洋平は、全力で抵抗することを強いられるだろう。銃を使いながら、超隊の手から逃れようとするだろう。


 洋平を超能力者だと判断している警察は、全力を尽くして確保しようとする。


 その結果、どうなるか。


 うまくいけば、死人を出せる。それが、警察側の人間になるのか、洋平や美咲になるのか。それは分からない。


 ただ一つ言えるのは、その事件が大きな反響を呼ぶことになる、ということだ。警察が管理する銃を使う犯人──しかも、未成年の犯人。それを追う警察。そんな泥沼の事件でさらに死人が出たとなれば、警察は、大いに世間に叩かれるだろう。

 

 近い将来、秀人が起こそうとしている暴動。そのプロトタイプ。実験としては、十分な成果を出せるはずだ。


 秀人はポケットからスマートフォンを取り出した。ディスプレイに雪が落ちてきて、溶けた。


 時刻は、午後十時三分になっていた。


 そろそろだな。小さく呟いた。


 洋平の動向を、秀人は正確に把握していた。


 すぐ近くにある、路上駐車された車。これは、秀人が洋平に譲ったものだ。発信器付きの車。


 発信器はドライブレコーダーと同じ要領で車のバッテリーを使用しているため、電池切れなど起こさない。もっとも、バッテリーが上がったら話は別だが。そんなことは起こらなかった。


 発信器から、洋平が決まった周期で車の駐車場所を移動させていることも分かっている。三日置きに、午後十時過ぎに車を移動していた。


 スマートフォンのデジタルの表示が動いた。十時三分から、十時四分になった。


 街灯に照らされる、公園通り。こちらに歩いてくる人影が見えた。一人だ。


 それが誰なのか、考えるまでもなかった。


 こちらに向かってくる人影。彼は目がいい。早々に、秀人の存在に気付いたようだ。駆け出しはしない。けれど、足を進める速度は、明らかに上がっている。


 秀人の近くまで来て、洋平の足取りは、ゆっくりになった。驚いた顔をしている。髪の毛が少し伸びていた。まだ短髪だが、出会った頃のような無造作な坊主頭ではない。


 秀人は、ヒラヒラと洋平に手を振った。


「久し振りだね」


 洋平は、ゆっくり、ゆっくり、秀人に近付いてくる。目は、驚きで大きく開かれていた。その表情から、自分を見捨てた秀人に対する恨みなど、微塵も感じられなかった。


「秀人」


 どこか悲しげな、でも少しだけ嬉しそうな声だった。たとえ見捨てられても、秀人に対する信頼や親愛は消えていない。そんな洋平の気持ちが、見て取れた。秀人に見捨てられたのは、自分が、期待に応えられなかったからだ──そんな自責の念を感じているに違いない。


「どうしてここに?」


 洋平が、秀人のすぐ近くまで来た。一歩踏み出して手を伸ばせば、届く距離。手を伸ばして、縋れる距離。


「お前達の居場所を掴むことくらい、俺なら簡単だよ。分かるよね?」


 洋平は頷くと、目を細めた。少しだけ泣きそうな顔。もう一度、秀人と共に生きたい。そんな気持ちを表すように、こちらに手を伸ばそうとしている。


 自分に甘えようとする、洋平の手。


 ほんの数瞬──一秒にも満たない短い時間だけ、秀人はその手に見とれた。すぐに我に返った。洋平の手が自分に届く前に、口を開いた。


「手短に言うよ」


 秀人に向かって伸ばした洋平の手が、止まった。秀人の言葉に反応して、ピクンッと震えて。


「俺は、ここに忠告に来たんだ」

「忠告?」


 洋平が、伸ばしかけた手を引っ込めた。ハの字眉の表情で、秀人を見ている。二人の距離は、約一メートル半。それ以上、近付いてこない。


 きっと、洋平は怖いのだ。秀人に拒絶されることが。秋田家で見捨てられた絶望が、心に残っているのだろう。だから、秀人に対して手を伸ばし切れなかった。


 洋平の心情が、手に取るように分かる。彼は、秀人の言葉に何一つ疑いを持たない。それほどまでに、秀人を信頼している。


「警察が、お前達の居場所を突き止めたみたいだよ」


 洋平と視線を合わせてからその言葉が出るまで、少しだけ間が空いた。言うべき嘘は決めていたのに。なぜか一瞬だけ、秀人の言葉が詰まった。


「もう逮捕状も請求してるみたいだね。だから、逮捕状が出次第、お前達のところに行くはずだよ」

「!?」


 ビクンッ、と大きく洋平の肩が動いた。


 嘘である。警察はまだ、洋平達の逮捕状を請求していない。二人の住所──居所が分かっていないから。


 洋平は肩を震わせながら、目を見開いていた。先ほどまでの秀人に縋る様子が、急速に消えてゆく。苛立ちと怒りが、露わになってゆく。


「あいつが殺されたときは、何もしてくれなかったのに……!」


 洋平が助けを求めたとき、警察は何もしなかった。彼の弟は、無残な状況でわずか四年の生涯を終えた。


 洋平の拳が握られている。肩と同じように震えている。言葉にしなくても、その心情を言い表すように。


 弟を助けなかったくせに。それなのに、こんなときだけ警察は動くのか。今、幸せなのに。弟を助けなかった警察に、幸せを奪われるのか。


 秀人には、洋平の心の声がはっきりと聞こえていた。予想通りの反応だった。彼は、おとなしく逮捕される道など、選ばない。絶対に。


「さらに警察は、お前を超能力者と断定して捜査してるみたいだね。だから、捜査には超隊も加わってるみたいだよ」


 洋平は目を見開いた。


「どうして?」

「さあ?」


 秀人は肩をすくめて見せた。


「おおかた、お前の気配を読む力を超能力と勘違いしたんじゃない?」


 自分を信頼している洋平に対して、何食わぬ顔で嘘をついた。いや。半分は嘘ではない。洋平には超能力の資質がある。それも、おそらくは秀人以上の。


「まあ、逃げ切れることを祈っておくよ」


 白い息と共に、秀人は洋平に告げた。やるべきことは、この忠告だけ。嘘の忠告だけ。それ以上の馴れ合いをするつもりはない。


「これは、俺のお前達に対する、最後の情だよ。短い間とはいえ一緒に暮らした仲間としての、ね。これからは、自分達でどうにかして。俺はもう、何もしない。たとえ、お前が──」


 言いかけた言葉を、秀人は中断させた。不要な言葉だ。こんなことを言っても、意味がない。こんなことを言ったら、まるで、俺が……。


 秀人は苦笑した。最近の自分は、どこかおかしい。奇妙なほど、昔のような気持ちになる。父親がいて、母親がいて、温かい家庭で過ごしていた頃のような。今の自分には、そんな気持ちなど必要ないのに。


 秀人は洋平に背を向けた。用は済んだ。あとは、洋平達が老女の家を出た後に、警察に情報を流すだけだ。洋平達が老女の家に住んでいたという情報を。


 歩き始める。薄く積もった雪に、秀人の足跡がついてゆく。


「秀人!」


 数メートル離れたところで、洋平に、大声で名前を呼ばれた。


 自然と、秀人の足が止まった。少しだけ振り向く。


「ありがとう、秀人。本当に、ありがとう……」


 洋平の、悲しそうな笑顔が見えた。忠告してくれて嬉しい。心配してくれて嬉しい。でも、また離れ離れになるのは悲しい。洋平の表情は、全力で、彼の気持ちを語っていた。


 何も言わず、秀人はまた歩き始めた。自分の足の進みが不自然なほどゆっくりなことに気付いて、意図的に歩行速度を上げた。


 自分の心にまとわりつく、妙な感情。今の自分には不要な感情。


 こんな気持ちになるのは、きっと、疲れているからだ。俺も、もうそんなに若くないしな。


 胸中で呟いて、秀人は苦笑したつもりだった。口の端を上げたつもりだった。


 けれど、秀人の顔に浮かんでいたのは、笑みではなかった。



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