第三十六話 当たり前の日常に、掛け替えのない人がいることが、何より幸せ



 十一月になった。


 秋も深まってきて、気温はすっかり下がっている。少し前までの暑さが嘘のようだ。風は冷たくて、もう少しで冬がやってくることを告げている。


 そんな季節の、早朝。午前五時。


 まだ陽は昇っていない。遠くの空が明るみ始めているものの、周囲はまだ暗い。昼間でも冷たい風は、早朝だともっと冷たい。


 空は薄曇り、といったところか。


 そんな早朝の住宅街を、美咲は走っていた。小脇に、五部の新聞を抱えて。


 気温は低いのに、額には薄らと汗が浮かんでいる。動き出す前は寒くて閉じていた、ウィンドブレーカーのファスナー。今は、胸の辺りまで下ろされている。


 美咲と洋平が一緒に新聞配達のアルバイトを始めてから、一ヶ月ほどが経っていた。


 今はその仕事中。販売店で借りた自転車に一五〇部ほどの新聞を積んで、配達区域まで移動する。区域内で自転車を停めて、足で移動できる範囲の新聞を脇に抱えて走る。配る。また自転車を移動させて、停めて、新聞を脇に抱えて走る。その繰り返し。


 ゆっくり歩いて配る余裕などない。六時前まで配達しなければクレームを出す客もいる。


 午前三時半頃までに販売店に出社し、配達する新聞の準備をし、店を出る。頑張って走って配達して、なんとか時間内に終われる。そんな毎日だった。


 洋平は、美咲の倍以上の部数の新聞を配っていた。それでも彼は、いつも問題なく六時までに配達を終えていた。仕事帰りは彼と待ち合わせるのだが、美咲が洋平より先に仕事を終えたことはない。


 ハァハァと呼吸をしながら走る。吐く息は、少し白い。額から流れてきた汗がたまに目に入って、ちょっと痛い。


 少し前に、初めての給料を貰った。


 毎日眠いのを我慢して、朝から必死に走って、早起きの客に「遅い」と文句を言われることもあって。そんな苦労をして貰った美咲の給料は、六万ちょっとだった。


 体を売れば、すぐに稼げる額だ。たった二回──わずか二人の男と寝れば。そんな金額。


 体を売って手にした紙幣は、風に飛ばされそうなほど軽かった。


 けれど、普通に働いて稼いだ金額を見たとき。お婆ちゃんが作ってくれた通帳に、記帳された数字を見たとき。


 美咲の心の中に、何とも言えない感情が芽生えた。


 頑張って、苦労して手に入れたお金。頑張って、苦労して稼いだと、人に伝えることができるお金。


 美咲はすぐに銀行からお金をおろし、お婆ちゃんに渡した。生活費、と言って。どうやって稼いだの、と聞かれても胸を張って言えるお金。苦労して得たものだからこそ、自分の感謝の気持ちを伝えられるお金。


 お婆ちゃんは受け取ることを遠慮していたが、無理に渡した。受け取って欲しくて頑張ったんだから、と。


 お婆ちゃんは凄く嬉しそうに、昔の話をしてくれた。お婆ちゃんの息子も学生の頃はアルバイトをして、家にお金を入れていたらしい。自分の学費の足しになれば、と。アルバイトをして、勉強もちゃんとして、今では弁護士として働いているという。


 その話を聞いたとき、美咲は、少しだけ嫉妬した。お婆ちゃんの子供に産まれた息子が、羨ましかった。こんな人の子供に産まれたかった。必要以上に裕福じゃなくていい。それどころか、多少貧しくたっていい。どうしようもない事情があるなら、片親だっていい。


 溺れるほどの愛情を注いでくれる親のもとに、産まれたかった。自分は頑張ったんだよ、と伝えたかった。愛情に満ちている親に、努力を褒めてもらいたかった。


 理想の母親と呼べる、お婆ちゃん。


 そんな人に何の後ろめたさもなく渡せるお金は、たとえ少額でも、決して軽くない。


 だから、頑張れる。眠くても、嫌な客に文句を言われても、時間に追われて毎日息切れするほど走ることになっても、頑張れる。


 六時少し前に、新聞を全て配り終えた。


 朝日はすでに登り始めていて、周囲が明るくなってきている。


 この後は、自転車を返すために販売店に戻って、洋平と一緒に家に帰るのだ。


 住宅街の中で自転車に乗り、走り出す。積んでいた新聞がなくなった自転車は、すっかり軽くなっていた。苦労なく、簡単にペダルを漕げる。


 住宅街の中で片道一車線の細い道路を渡ると、コンビニがある。一戸建てやアパートに囲まれたコンビニ。隣の家との幅が狭い。住居件店舗、という外観のコンビニだった。フランチャイズの店舗だろう。


 走って、汗をかいて、喉が渇いた。気温は低いが、まだ体は火照っている。


 少し贅沢しようかな。そんな考えが頭に浮かんだ。美咲は自転車を走らせ、コンビニの駐車場前で停めた。降りて、鍵をかける。店舗に入る。


 ピンポーン、という店舗に入るときに流れる音。レジには、やや歳のいった男の店員。この店のオーナーだろうか。


 飲み物のコーナーに足を運んだ。ペットボトルの飲み物が並んでいる。商品数は多くなかった。品切れの商品もある。


 五〇〇ミリリットルのスポーツドリンクを一本取り出して、レジに行き、会計をした。外に出てキャップを開けて、飲んだ。


 乾いた喉を、冷たい飲み物が通る感触。火照った体が冷やされて、心地よかった。どこにでもあるスポーツドリンクなのに、驚くほど美味しかった。たった一五〇円ほどの飲み物が、凄く贅沢に感じた。


 ちょっとぬるくなるかも知れないけど、半分は洋平にあげよう。中身が残ったペットボトルを自転車のカゴに入れて、美咲は販売店に戻った。


 販売店の外では、すでに洋平が待っていた。やっぱり早い。美咲の倍くらいの新聞を配っているのに。


「ごめんね、待った?」

「いや。そうでもない。俺も、今終わったばかりだし」


 洋平の返答は、いつも変わらない。そんなに待ってない。今戻ったばかりだ。


 でも、洋平の額には、汗が一滴もついていない。汗が乾いてしまうほど長く、彼は美咲を待っていたのだ。


 販売店の自転車置き場に自転車を置き、美咲は洋平に駆け寄った。右手に、ちょっとした贅沢のスポーツドリンク。


「洋平、喉、乾いてない?」

「少し乾いてる」

「飲む?」


 美咲は、洋平にスポーツドリンクを差し出した。


「どうしたんだ? これ」

「ちょっと贅沢してみたの。たまにはいいかな、って」

「助かる」


 美咲からペットボトルを受け取った洋平は、スポーツドリンクを喉に流し込んだ。口を離し、ふう、と息をついた。


「凄い旨いな。なんか、染みる、って感じだ」


 洋平が見せる、無邪気な笑顔。口の端を大きく横に広げて、少しだけ歯を見せて笑った。年相応──ううん、もしかしたら、実際の年齢より幼く見えるかも知れない。そんな、可愛いとも思える笑顔。


 愛しい、と思える笑顔。


 もう、美咲は気付いていた。自分の気持ちに。はっきりと。


 洋平は、見返りを求めることなく自分を見てくれる。自分を守ってくれる。自分を大切にしてくれる。だから離れたくない。ずっと一緒にいたい。どんなに大変でも、どれだけ体調を崩しても、彼と一緒にいられるなら我慢できる。


 その気持ちに、嘘偽りなどない。もし洋平を失ったら、自分は生きていけないんじゃないか。そう思うほどだ。


 それを美咲は、洋平への依存心のように思っていた。見返りなく自分を大切にしてくれるのは、洋平だけだから。だから、離れられない。洋平が必要だから、縋っている。


 そんなふうに思っていた。勘違いしていた。


 けれど、違う。見返りのない優しさをくれるのは、今はもう、洋平だけじゃない。


 それでも、洋平への気持ちは、他の人に対するものとは明らかに違う。


 二人で並んで、家までの道を歩く。洋平の右手には、美咲があげたスポーツドリンク。左手は、空いている。


 美咲は、洋平の左側に回り込んだ。彼の左手を握る。そっと、手を繋ぐ。


 洋平は少し驚いた顔で美咲を見た後、照れ臭そうな表情になった。でも、手は離さない。指を絡めるように、握ってくれた。


 もう長いことしていないけれど──洋平とは、出会ったその日にセックスをした。裸になって、全身を重ねた。


 それなのに。

 だからこそ。


 繋いだ手の感触が、なんだか、こそばゆかった。


 手の平から、洋平の温かさが伝わってくる。気持ちが温かくなる感触。くすぐったくなる感触。同時に、切なくなる感触。


 確かに感じる心地よさ。手しか触れていない、どこか洋平を遠くに感じる息苦しさ。正反対の感情に、胸が締め付けられた。


 家に着いて手が離れると、どうしようもなく寂しくなった。


 一滴の涙が水面に落ちたように、心が波打った。


 少しでも洋平に触れていたくて、美咲は、それから毎日、帰り道は彼と手を繋いだ。


   ◇


 11月末日に、美咲の配達区域にあるコンビニが閉店した。


 たまにそのコンビニでスポーツドリンクを買うようになっていたから、少しガッカリした。


 品数が少なかったのは閉店間近だったからだ、ということに気付いた。


 店舗兼住居だったそのコンビニは、無人になった。


 帰り道で、美咲は肩を落としながら、そのことを洋平に話した。


 もちろん、彼と手を繋ぎながら。




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