第三十五話 幸せな家庭で、当たり前に生きるために、普通になりたい



 美咲と洋平が老女の家に来てから、一ヶ月ほどが経っていた。


 そんな日の、夜中。

 今は、たぶん午前一時くらいだろうか。


 部屋の明かりはすでに消しており、美咲はベッドの中にいた。老女の息子が使っていたというベッド。


 息子が帰省したときは、今でもこの部屋で過ごすという。だからか、部屋の中は綺麗に片付いていた。


 洋平は、老女が貸してくれた来客用の布団を床に敷いて寝ている。


 最初は、強引に押し入ろうとした家。老女が一人で暮らしていた家。その、一室。六畳ほどの部屋。


 この家に来たとき、家主の老女は、高熱を出していた美咲に優しくしてくれた。元看護師らしく、病院に行くことを拒む美咲を、的確に看病してくれた。


『高熱を出してるときの体はね、激しい運動をしているときと同じような状態なの。汗をたくさんかいて、腸だけじゃなく胃からも水を吸収するようになる。でも、その反面、胃で食べ物を消化できなくなるの。だから、運動した後とか熱が出ているときは、食欲が落ちるでしょ?』


 老女の言う通りだった。あの時の美咲には、食欲などまるでなかった。そして、食べていないから体力を失ってゆく。


『その状態だと、普通のスポーツドリンクでも、体が吸収するには濃すぎるの。スポーツドリンクは、体の浸透圧と同じくらいに作られてる物だから』


 浸透圧という言葉に聞き覚えはあるが、その意味は知らなかった。けれど、普通のスポーツドリンクでも吸収が難しい状態だということは理解できた。


『だからね、スポーツドリンクを薄めたものを、氷にしているの。これなら熱が出てても水と同じように吸収してくれるし、冷たいから、火照った体に気持ちいいでしょ?』


 洋平と老女は、美咲の体調が回復するまで、甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。


 洋平は、ほとんど美咲から離れなかった。

 老女は、美咲の体調に合せて口にできるものを用意してくれた。


 一週間も経つと、美咲の熱は微熱と言える程度まで下がり、食欲も出てきた。


 それから、なし崩しのようにこの家に居座っている。美咲の体調が完全に回復した後も。


 老女は文句ひとつ言わない。美咲や洋平の面倒を見たり、自分の手伝いを頼んできたりしている。どこか楽しそうですらある。それこそ、自分の子供を相手にしているように。


 でも、もしかしたら。


 体調が完全に回復して物事を冷静に考えられるようになると、美咲は危機感を覚えた。


 もしかしたら、老女にも、何かのきっかけで捨てられるかも知れない。秀人のときと同じように。見返りを求めない優しさなんて、都合良く手には入らないのだから。


 かつて、美咲を買った男達がそうだった。体という見返りがあったからこそ、美咲に優しくしてくれた。気持ちいい言葉をくれた。


 秀人だってそうだ。洋平や美咲を都合よく使うために、優しくしてくれたんだ。彼のくれた優しさも、みんな嘘だったんだ。


 そう思うと、気が抜けなかった。二匹の猫──ユキとコハルは可愛い。二匹は元野良猫で、保護された末に老女が引き取ったという。それだけを聞くと、やはり優しい人なのかな、とも思う。


 でも。それでも。


 決別したときの秀人の冷たい目が。体が凍り付くような恐怖が。幸せを一瞬で失った出来事が、美咲の気持ちを尖らせていた。


 まだ微熱があるときに、老女に軽口を叩いてしまった。老女は笑って軽口で返してきたが、そんな出来事さえ心に引っ掛かるほどだった。


 だから、老女の手伝いなどは積極的に行った。ニコニコしながら、無理に気の利くいい子を演じた。こんなのは、自分には似合わない。柄じゃない。そう分かっていても。


 役に立つ、いい子を演じた。

 価値のある子を演じた。

 まるで、体を売っていた頃のように。


 今回、自分は洋平の足手まといになってしまった。自分は弱い、と美咲は痛感していた。何日か家の中で生活できないだけで、簡単に体調を崩した。


 洋平だけは、決して自分を見捨てないだろう。何があっても。どんなことがあっても。そんな彼の足手まといには、なりたくない。


 だから、なし崩しで手に入れたこの生活を、失うわけにはいかない。少しでも家主の老女に気に入られて、見捨てられないようにしないと。


 気を張っている美咲に、ある日、老女が言った。


『美咲ちゃん、夕飯の準備、手伝ってくれない?』


 断る理由はない。美咲は、老女と一緒にキッチンに立った。料理は得意だから、老女の印象がマイナスになることはないはずだ。


 キッチンに立って料理を作り始めると、美咲は驚いた。老女の作る料理が、見たこともないような物だったのだ。


 美咲の料理の先生は、インターネットに出ているレシピだった。まずはそれを書いてある通りに作り、その後、自分好みにアレンジして味付けを変えていった。


 けれど、老女の作る料理は、美咲が初めて見る物だった。砂糖や塩の分量も、一つの工程の後に何をすればいいのかも分からない。言われたままに材料を切るくらいしかできない。


『そっか。こんなお婆ちゃんの料理は、若い子は知らないものね』


 昔ながらの家庭料理。各家庭の中だけで伝えられるような。


『よかったら、覚えてくれる?』


 老女は、優しく微笑んでいた。


 お母さん。老女の言葉を耳にした瞬間、そんな単語が美咲の頭に浮かんだ。


 美咲の実母は、美咲が六歳のときに家を出て行った。父とは違う男と一緒に。


 実母に関心を持たれたことも、愛情を受けた覚えもない。話したことすら、ほとんど記憶にない。


 母親というものがどういうものなのか、美咲にはまったく想像がつかない。


 それなのに、思い浮かんだ。お母さん。年齢から考えると、お婆ちゃん、の方が近い。


 それでも、お母さん。


 老女に料理を教わりながら、美咲の心は、棘を失っていった。優しく丁寧に教えてくれる老女に、温かさを感じた。


 教わった料理を洋平に食べさせて、彼が「旨い」と言うと、老女は一緒に喜んでくれた。


 心に刺さる物がなくなると、今の生活が一気に楽しくなった。もともと可愛いと思っていた二匹の猫を、ますます可愛いと思うようになった。


 コハルは人懐っこい。立っていても座っていても、いつでもすり寄ってくる。頭や体を擦りつけ、隙があれば膝の上に乗ってくる。


 ユキは、人に懐かない猫だった。最初は近付くことすらできなかったし、無理に接近すると「シャー!」と威嚇された。日が経つごとに威嚇はされなくなったが、コハルのようにすり寄って来るようになるのは、まだまだ先だろう。


 洋平も、コハルに甘えられたときは嬉しそうで。ユキに威嚇されて、少し寂しそうで。


 そんな洋平を、可愛い、なんて思ってしまって。


 老女は──お婆ちゃんは、そんなユキに苦笑して。


 お婆ちゃんが見守る中で、猫じゃらしでコハルと遊んで。隅っこで見ているユキに「おいで」と言って。でも、まだ来てくれなくて。


 たった一ヶ月の間で、すっかりこの家に溶け込んでいった。


 だからこそ、この家に来た当初とは別の心配が、美咲の胸の中に生まれてきていた。現実的な問題を感じて。


 お婆ちゃんに聞いたが、このマンションは分譲で、持ち家だという。ローンも払い終わっている。だから、家賃の心配はない。


 それでも、お婆ちゃんの懐事情は決して明るくないはずだ。現在は稼ぎがなく、昔の貯金と年金で暮らしているはずだから。


 お婆ちゃんは小食だ。だから、美咲と洋平がこの家に住むことになってから、食費は間違いなく三倍以上になっているだろう。水道光熱費だって、お婆ちゃん一人のときよりも遙かに高くなっているはずだ。


 美咲は今、幸せだ。洋平だって、きっと幸せだろう。


 でも、こんなふうに甘えてばかりで、お婆ちゃんに苦労をさせているのではないだろうか。


 そんな心配が頭を過ぎって、美咲は眠れなかった。


 ベッドの上で体を起こした。窓際のベッド。締めたカーテンに指を掛けて、少しだけ動かした。


 外は、真夜中にしては明るかった。月が出ている。久し振りの晴天だ。空には、雲がほとんど見えない。


「どうした? 美咲」


 声を掛けられて、少し驚いた。


 洋平が、床に敷いた布団の中で、体をこちらに向けていた。


「ごめん、起こしちゃった?」

「いや、多分、眠りが浅かった。頭は割とはっきりしてる」


 美咲は顔を伏せた。今の幸せな生活に水を差すようなことを、言ってもいいのだろうか。むしろ、何も言わずに、自分一人でどうにかした方がいいんじゃないか。週に一回くらい、適当な理由をつけて家を抜け出せば、金を稼ぐことは可能なのだ。ほんの数時間で、数万の金を手に入れることができる。


 体を、売れば。

 再び、見ず知らずの男を自分の上に乗せれば。


 それは、以前は当たり前のようにしていたこと。むしろ、しないと不安だったこと。


 それなのに、嫌な感覚が生まれた。美咲のことを褒め称えながら、美咲の上に乗る男達。「可愛いよ」と言いながら、腰を振る男達。彼等に対して思うことは、以前とまったく違っていた。


 ──気持ち悪い。


 つい、美咲は、口元を押さえてしまった。


 洋平は、この家に来たときに、お婆ちゃんに自分達のことを話したらしい。ここに来るまでの経緯。これまでの人生。


 けれど、美咲が体を売っていたことは話さなかった。ただ、両親に愛されなかった娘、とだけ。


 お婆ちゃんに自分の過去が知られていないことに、美咲は胸を撫で下ろした。知られたくなかった。あんなことをしていたと知られたら、もしかしたら──。そんな気持ちが胸に渦巻く。不安が突き抜ける。


 だから、やるなら、絶対に隠し通さないと。知られないようにしないと。


 口元を押さえながら、美咲は、自分の体が少し汗ばんでいることに気付いた。これは、暑さのせいで出た汗じゃない。もう、気温はそれほど高くない。


 体も、心も、嫌がっている。もう、あんなことはしたくない。そう訴えている。

 

「美咲。もしかして、具合、悪いのか?」


 心配そうに、洋平が聞いてきた。窓から入る月明かりで、彼の顔が見える。目を細めている。彼は、車上生活で美咲が体調を崩してから、やたらと心配性になっていた。


 美咲は口元から手を離して、ちょっとだけ苦笑した。


「ううん、大丈夫」


 体調が悪いわけではない。体の調子はすこぶるいい。ただ、心配で。でも、もう嫌で。


「ねえ、洋平」

「何だ?」

「そっち、行ってもいい?」


 少しだけ、返答に間が空いた。ほんの一秒程度。


 洋平は自分の掛け布団を広げて、美咲を招いた。


「ほら」


 ベッドから降りて、美咲は、洋平の布団の中に入った。温かかった。彼に体を寄せ、その胸に頬を当てて、抱き付いた。


 洋平の心臓の音が聞こえた。ドクン、ドクン。ちょっとだけ鼓動が速い。美咲を抱き締めてくる腕の力が、少し強い。


 ああ。そっか。だから、さっき、返答に間があったんだ。洋平の行動の理由を、美咲は理解した。


 美咲と洋平は、もうずっとセックスをしていない。けれど、彼は、したくないわけじゃないんだ。むしろ、したいんだ。我慢してるんだ。


 きっと、お婆ちゃんがいるから。遠慮してるんだ。


 洋平の心情を想像しながら、美咲は、自分の気持が先ほどとまるで違うことに気付いた。


 洋平となら、いい。


 たとえ洋平自身が、情欲だけで自分を抱いたとしても。それでも、洋平が相手なら。


 洋平が相手なら、むしろ──


 自分の気持ちに気付いた。そうするとなおさら、もう体を売るなんて嫌だった。それでも、現実問題としてお金は必要だ。


「ねえ、洋平」

「どうした?」


 美咲は、正直に、自分が抱いている心配を洋平に話した。この幸せに水を差す話かも知れない。でも、もう体は売れない。洋平に抱きついて、彼以外の男に触れられたくないと、強く思ってしまったから。


 洋平は、美咲の心配に同意していた。


「働くべきだよな、俺達。美咲の言う通り、婆ちゃんの生活だってあるんだし」


 美咲を胸に抱きながら、洋平は少し黙り込んだ。自分達がどういった人間かを考えているのだろう。まだ十八歳にもなっていなくて、殺人に関わった身で、さらに、洋平自身も犯罪を犯している。警察に追われる身となっている。まともに身分を証明することはできない。そんな人間が、まっとうな働き口を探せるか。


「バイト程度なら、緩い身分証明でも採用される職種がいつくかあるはずだ」

「そうなの?」


 美咲は、アルバイトも含めてまともな仕事をしたことがない。


「まず、歳の問題だけど。これは、簡単にクリアできる」

「どうして?」

「秀人に貰った偽造免許証、まだあるだろ? あれだと、俺も美咲も十九歳だ」

「あ」


 運転をしない美咲は、そんな物の存在などすっかり忘れていた。


「それに、法令がどうであれ、採用に緩い職種はいくつかある。その中で人目につかないやつを選べばいい」

「例えば、どんなの?」

「新聞配達。人目に付かないようにするなら、朝刊配達だな」


 これは、秀人の家で見た経済学の本の受け売りだけど──そう前置きして、洋平は続けた。


 インターネットが発達して、新聞の売れ行きは格段に落ちた。それでも、新聞販売店の従業員というのは、人手不足が目立つ仕事らしい。給料が安く、しかも、土日祝日の区別なく仕事があり、朝は暗いうちから動き出す必要があるから。


 そのため、身分証明と簡単な面接だけで採用してくれる販売店もそれなりにあるという。もちろん、そうではない販売店もあるが。


「何店舗か回ってみたり電話してみたりして、採用に必要な物とかを聞き出せば、割と簡単に働ける場所を見つけられると思う」


 美咲は驚いた。洋平の胸に抱き付きながら、つい、彼の顔を見上げてしまった。


 洋平は秀人の家で、体を動かす訓練だけではなく、勉強もしていた。彼の頭の回転が速いことも知っている。それでも、美咲の疑問に対してこんなに簡単に回答を出すとは、思ってもみなかった。


 洋平は、凄いんだ。


 美咲は、洋平を抱き締める腕に力を込めた。


「じゃあ、探してみよう。働けるといいね」

「ああ、そうだな」


 言葉を交わしながら、抱き締め合う。洋平の心臓の音が聞こえる。


 この生活を失いたくない。洋平を失いたくない。洋平の足手まといになりたくない。洋平の側にいて、洋平に触れて、洋平だけに触れられて。


 美咲は、もう、自分の気持ちに気付いていた。


 ──翌日。近所の新聞販売店で、あっさりと採用が決まった。




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