第三十四話 きっと、今度こそ、失うことのない幸せ



 九月も下旬に入った。


 昼間でも残暑は感じなくなり、涼しくなる季節。緩やかに吹いている風は、少しひんやりしている。


 午後三時。

 やや曇り空だが、雨が降るほどではない。


 近所にある大型スーパーから出た洋平は、帰路についていた。口にはマスク。両手には、商品をいっぱいに詰め込んだエコバック。老女や美咲に頼まれたお使いの、帰り道。


 なし崩しのように始まった、平穏な毎日。不満などまったくない日々を過ごしている。

 

 洋平と美咲が老女の家に来てから、一ヶ月ほどが経っていた。


 あの日──老女の家に初めて来た日。


 美咲の口に氷を含ませ、看病していた老女。彼女は、洋平に言った。


「後で、事情、聞かせてちょうだいね」


 老女は、どう見てもごく普通の人だった。ただの、一人暮らしの老人。だからこそ洋平は、素直に従うことを躊躇った。


 秀人のように、憎しみや恨みを共有できない。痛みを共にできない。


 そんな老女に、自分達の境遇を素直に話していいのか。


 迷いはあった。だが、洋平は話そうと決めた。老女は美咲の体調を気遣い、すぐに治療を試みてくれた。美咲を助けようとしてくれた。たとえ老女に通報されて逮捕されたとしても、恨むことはない。


 薄めたスポーツドリンクで作った氷をいくつか舐めた後、美咲は深い眠りについた。それまでの疲れが出たのだろう。


 美咲が眠ったのを見計らうと、老女は洋平をリビングに連れて行った。食卓テーブルの椅子に座らせ、お茶を出してくれた。初めて口にする緑茶は、苦かった。


 洋平は、まず自分の境遇から話し始めた。虐待、弟の死。児童養護施設で育ち、その後の浮浪者生活。暴力団に襲われていた美咲を助け、秀人と知り合い、決別した。行き場を失い、美咲が体調を崩し、彼女を休ませたくて老女を狙った。

 

 ただ、美咲が売春をしていたことは、話さなかった。話せなかった。美咲が傷付くような気がして。


 初対面のときから、洋平の目の前で平気で全裸になった美咲。その日のうちに、セックスまでした美咲。でも、あの時の美咲と今の美咲は、明らかに違う。


 一通り話し、出された緑茶を飲み干すと、洋平は椅子から立ち上がった。老女の前で膝をつき、土下座をした。襲ったことに対する詫びではない。どうしても守りたいもののために、頭を下げた。


「襲っておいてこんなこと言える立場じゃないけど、頼む。美咲を病院に連れて行ってくれ。あいつを元気にしてくれ。俺は捕まってもいい。どうなってもいい」


 フロアカーペットに、全力で頭を押し付けた。必要なら、額から出血するほど擦りつけただろう。


「ただ、警察には、美咲は俺に連れ回されていただけだって言ってくれ。あいつは被害者だ、って」


 美咲を守りたかった。自宅に招いてくれた美咲を。温かい食事を出してくれた美咲を。弟を弔ってくれた美咲を。暴力団事務所に拉致されたとき、必死に名前を呼んでくれた美咲を。


 秀人に捨てられて絶望していた自分を、救い出してくれた美咲を。


 それは、体調だけの話ではない。美咲には、犯罪者になんてなってほしくない。全ての不幸から、彼女を守りたい。


 土下座して必死に訴える洋平の前で、老女は正座した。


「洋平君。まずは頭を上げて。そのままじゃ、私も話しにくいし」


 言われて、洋平は頭を上げた。

 

 正座した老女の膝の上に、黒猫が一匹、乗っかってきた。細身で、体と尻尾が長い猫。リビングの隅を見ると、もう一匹黒猫がいた。向こうの黒猫は丸形体型で、カギ尻尾。洋平を警戒しているようだった。


「もう、コハル。今から私は、洋平君と真面目な話をするんだよ」


 老女に乗ってきた黒猫は、コハルというらしい。


 コハルは老女の言葉などお構いなしに、彼女の膝の上で体を丸めた。


 仕方ないわね、という様子で老女は苦笑した。コハルをそのままに、話し始める。


「病は気から、って言葉は知っているわよね?」

「ああ、知ってる」


 秀人の家で勉強した。


「私はね、元看護師なの。だから分かる。この言葉は、決して嘘なんかじゃない。体が弱っている人が気持ちまで弱ったら、ますます悪化するの」


 元看護師なのか。どうりで。美咲の看病をした、老女の手際の良さ。その理由を、洋平は理解した。


 老女の手は、膝の上のコハルを撫でていた。


「あの子──美咲ちゃんは、洋平君の側にいたいって言ってた。あんな体になるまで頑張れる子が、あなたがいなくなるかも知れないと思った途端に、泣いちゃうくらいに。あなたはね、きっと、美咲ちゃんの心の支えなの」


 老女の言葉を、洋平は実感できなかった。


 支えられているのは、自分の方だ。支えられて、与えられて、助けられて。


 だから、自分が美咲にできることは何でもしたい。どんなことがあっても守りたい。


「だから、今、あなたが捕まって美咲ちゃんの前から消えるのは、美咲ちゃんのためにもよくない。できるだけ、美咲ちゃんの側にいてあげて」


 元看護師というくらいだから、老女は、そんな事例をいくつも見てきたのだろう。そう考えると、洋平は反論できなかった。


「でも、あれだけの高熱が出てるから、インフルエンザの可能性もある。もしそうだったら、気持ちだけじゃどうにもならないから、そのときは病院に連れて行くわね。目安としては、体温が三十九度以上になった場合。そのときは、あなたの言葉に甘えさせて貰うから」


 異論はない。洋平は頷いた。


 警察に捕まるのは屈辱だし、受け入れられない。正義を振りかざすなら、どうしてあのとき弟を助けなかった!?──そう問い質してやりたい。抵抗してやりたい。


 でも、そんな自分の意地よりも、美咲の命の方が、比べようもないくらい大切だ。


「じゃあ、早速美咲ちゃんの近くに行ってあげて。布団を貸してあげるから、夜寝るときは、美咲ちゃんと同じ部屋で寝てあげて。目が覚めて洋平君がいなかったら、不安になるだろうから」


 言われるがままに、洋平は美咲の側に居続けた。トイレや風呂に入る時以外は、片時も離れなかった。


 美咲の熱が下がってきたときは、全身から力が抜けるほど安心した。涙が出そうだった。


 まだ微熱があるとはいえ体調が回復してきた美咲は、助けてくれた老女に、素直に礼を言った。だが、そのすぐ後に、美咲らしい言葉で老女に聞いていた。


「お婆ちゃん、頭大丈夫? 私達、お婆ちゃんを襲ったんだよ? 強盗ではないにしても、襲ってきた奴を、住まわせて、看病までして」


 老女は微笑んでいた。お転婆な少女を見守る保護者。そんな言葉が、驚くほど当てはまっていた。


「今の若い子には分からないかも知れないけど、昔は、労働基準法なんてあってないようなものでね。私は、現役のときは、それこそ寝る間も惜しんで働いてたの。激務に激務を重ねるような毎日を過ごしていたら、こんな歳になっちゃって」

「?」

「そんなふうに生きてきたし、さらにこんな歳なんだから、頭なんて多少おかしくなってて当たり前じゃない。むしろ、正常だったら驚きね」


 クスクスと、どこか楽しそうに老女は笑っていた。


「まあ、こんな頭のおかしいお婆ちゃんの家だから、いくらでも入り浸ってて大丈夫。警察に通報する頭もないし。ただ、ね。ウチの猫達には、優しくして。それだけは約束して」


 まだ微熱があるのに、美咲はベッドの上で体を起こした。


「お婆ちゃん、猫飼ってるの?」


 美咲は、ここに来てからずっとこの部屋で寝ていた。ドアを締めていたから、この家の二匹の黒猫を見たことがなかった。


「ええ。黒猫の女の子が二匹。猫、好き?」

「うん。見たい」

「そう。一匹は懐かない子だけど、一匹は人懐っこいから。ドアを開けたら、多分、すぐに来るわね」


 老女は部屋のドアを開け、さらに、リビングのドアも開けた。リビングと玄関、この部屋が、完全に解放された状態。


 コハルが、軽い足取りで部屋に入ってきた。甘えるような声で鳴き、老女にすり寄った。


「ほら、コハル。美咲ちゃんだよ。挨拶して」


 老女はコハルを抱き上げ、ベッドの上に乗せた。

 

 コハルは美咲に鼻を近付け、においを嗅いだ。最初は手。体のにおいを嗅ぎ、美咲の鼻に自分の鼻を近付けた。そのまま、美咲の頬に自分の頭を擦り寄せた。


 まだ微熱があり、調子が完全ではないはずの美咲。その気の強そうな目が、垂れ下がった。口元は、だらしなく緩んでいた。


「可愛い!」


 美咲はコハルを抱っこし、頬を擦り寄せた。


 それ以来美咲は、コハルを溺愛している。なかなか懐かないもう一匹の黒猫──ユキも、どうにかして懐かせようと腐心している。


 洋平は、自分が猫好きなのか分からなかった。嫌いではない。甘えてくるコハルに優しくしたいと思う。ユキがまったく懐いてくれず威嚇されたときは、少しだけ寂しいと思った。


 美咲の体調が完全に回復してから、洋平は、老女の代わりに買い出しに出掛けるようになった。警察に追われる身だからと、彼女は、変装用のマスクをくれた。ガーゼとゴムで自作した、洗えば何度も使えるマスク。感染症に対する効果は薄いらしいが、変装が目的なので問題はない。


 老女は、自身の言葉通り、洋平達を追い出すつもりなどまったくないらしい。警察に通報する気配も皆無だった。まるで、自分の息子や娘のように、洋平と美咲に接してくれた。どこか活き活きとしているようにさえ見えた。


 体調が完全に回復した後の美咲は、少し緊張しているように見えた。どこか、気を張っているような。


 美咲の様子が一変したのは、老女に料理を習い始めた頃からか。


 洋平はインターネットを利用したことなどないが──検索すれば、料理のレシピなどいくらでも出てくるらしい。しかし、家庭ごとに伝わっている独特の料理は、インターネットの情報には出てこない。


 老女に教わりながら、美咲は初めての料理に挑戦していた。


 教え、教わる二人は、本当の家族のようだった。


 美咲は老女に教わった料理を自作し、夕食の食卓に出してきた。


 旨かった。感想を正直に言うと、美咲は無邪気に喜んだ。


「お婆ちゃん、やった!」


 そう言って、顔いっぱいの笑みを浮かべていた。


 老女は、穏やかに、優しげに微笑んでいた。


 ──そんな温かい毎日を、洋平は過ごしている。


 なし崩しのように始まった、平穏な毎日。不満などまったくない日々。


 老女に頼まれた買い物の、帰り道。涼しい秋の風。


 洋平はマスク越しに、大きく息を吸い込んだ。幸せな時を過ごしている。そんな実感に包まれる。


 こんな幸せを実感するのは、初めてではない。一ヶ月ほど前まで、同じような幸せに包まれていた。


 秀人の家での生活。


 洋平にとって、秀人は父親だった。強くて、美しくて、優しくて、どこか幼さも残る父親。


 秀人の期待に応えられず見捨てられてしまったことは、未だに悲しい。けれど、彼を嫌いになることも、恨むこともなかった。


 秀人は、洋平に色んなものを与えてくれた。温かい家庭で生活する幸せ。今までまるで疎かった常識。学習し、頭を使うことの大切さ。戦うための力。


 こうして買い物帰りの道を歩いていると、どうしても、あの幸せだった三ヶ月を思い出す。


 美咲と歩いた、買い出しの帰り道。みんなで囲む食卓。何かひとつ達成したときの、秀人の褒め言葉。優しく自分の頭を撫でる、温かい手。


 失った幸せに、寂しさを感じる。悲しさを覚える。


 でも、今も幸せなのだ。


 洋平にとって、老女は母親のようだった。


 自分の実母は、自分や弟に無関心だった。クズのような父親に入れ込み、風俗で体を売り、自分が産んだ子供にはまるで興味を示さなかった。


 今なら分かる。実母は、クズのような父親に依存していたのだ。クズを支えることに喜びを感じていたのだ。それを共依存と呼ぶことを、秀人の家で読んだ本で知った。


 そんな実母とはまるで違う、老女。彼女はすでに息子を育て、独り立ちさせたらしい。そんな彼女の年齢から考えると、洋平や美咲にとっては、祖母という方が近いかも知れない。


 けれど、母親のようだと思えた。一緒に暮らして、美咲を助けてくれて、彼女に料理を教えて、洋平に買い物を頼んできて。


 秀人を──父親を失った悲しみは、未だに消えない。


 代わりに、母親と暮らす幸せを手に入れた。


 この生活は、人を殺せなくても失うことはない。老女はただ、平穏に生きているだけなのだから。


 洋平の心の中にある恨みや憎しみが、なくなったわけではない。弟を見捨てた警察。秀人の父を殺した警察。黒く重い感情は確かに心の中に残っていて、ずっと燻り続けている。決して消えることのない炎のように。


 だが、洋平は知った。恨みながら、怒りを原動力として生きることの辛さを。燃え盛るような憎しみを糧に生きていると、いつか殺人という終着点に辿り着く。


 それならば、もう、いい。たとえ心の中で燻り続けていても、その炎を手にするのは、もうやめよう。


 今はただ、守れればいい。美咲を守りながら、悲しみも憎しみも寂しさも心の奥にしまって、平穏に暮らせればいい。


 今の幸せが守れればいい。


 そうすれば、きっと。

 きっと、この幸せは、失わずに済む。


 美咲の悲しそうな姿も、苦しそうな姿も、目の当たりにせずに済む。


 心地よい秋風を感じながら。

 洋平はマスクの中で、穏やかに口の端を上げた。




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