第三十三話 金井秀人はそれでも突き進める



 季節は、もう秋と呼べるようになっている。


 日中は残暑を感じる気温だが、夜になると、風はやや冷たい。


 九月。


 秋田家一家殺害から、約一ヶ月が過ぎていた。


 時刻は、午後十時。


 空には雲がほとんどなく、月が明るい。


 住宅街と言っていい、一戸建てやマンションが密集している場所。


 秀人は、目の前のマンションを見上げていた。十階建て。片道一車線の細い道路に面している。


 半月ほど前から、洋平と美咲が住み始めたマンションだ。


 彼等の動向を、秀人は完璧に把握していた。


 大学生宅を出てからほんの数日で、美咲が体調を崩した。彼女を心配した洋平は、再び誰かの家に不法侵入することを決めた。


 洋平が狙ったのは、小柄な老女だった。


 洋平に狙われた老女は、元看護師だという。その職業柄か、もしくは元々の人柄なのか。彼女は、体調を崩した美咲の面倒をよく見ていたようだ。


 美咲の容態が、どの程度回復したのか。それは秀人には分からない。ただ、深刻な状態は脱したのだろう。その証拠に、洋平が一人で頻繁に外出していた。彼が、深刻な容態の美咲を置いて外出するなど、考えられない。


 洋平が外出する目的は、買い物だった。生活には当たり前に必要な、食材や生活用品の買い出し。変装用だろう、マスクを着けていた。


 買い物をして、洋平は当たり前のように、マンションに帰る。その姿から、彼等が現在どんな生活をしているのか、容易に想像できた。


 家主の老女は、美咲の体調が回復した後も、彼等を自宅に住まわせている。ずいぶんと面倒見のいい女性のようだ。


 まぁ、野良猫を拾うのと似たような感覚で、洋平達の面倒を見ているんだろうね。ポツリと、胸中で呟いた。


 秀人は、老女の職業や、猫を飼っていることも知っている。もっとも、それを知ったのは単なる偶然なのだが。


 洋平は、車を路上駐車する場所を何日かに一回は変えていた。近所の公園近くであったり、空き地の近くであったり。警察に通報され、レッカー車で移動されるのを防ぐためだろう。よく考えるようになった。これも、教育の成果だろうか。


 しばらくの間は、あいつ等を休ませるか。半月ほど前に立てた計画のタイムテーブルを、秀人は変更することにした。今は、身も心も休ませよう。休ませて、回復させて、頃合いを見て動かす。


 秀人の目論みは、当たり前のようにまだ継続していた。自身の目的の検証材料として、洋平と美咲を利用する。警察に彼等をぶつけさせる。


 その手始めとして、秀人は、三日前に、秋田家一家殺害の全容を三橋に伝えた。あの日、洋平や美咲と秋田家に侵入したこと。洋平が、銃の引き金を引けなかったこと。だから秀人が、秋田家一家全員を殺したこと。


 秋田家一家殺害事件は、もうとっくに明るみに出ていた。銃弾の線状痕から、殺害に使用された銃が、警察の管理下にあった物だということも判明している。捜査本部が設置され、刑事が百人以上も動員されていた。


 ただし、殺害の道具や状況などは、まだ世間には公表されていない。犯人に情報を与えないよう、報道規制が敷かれているのだ。


 犯人が銃を所持していることから、秋田家一家殺害事件の捜査には、超隊も出向していた。


 現職の刑事一課課長が、家族も含めて惨殺された事件。面子を保つため、警察は犯人逮捕に全力を注いでいる。


 三橋は、そんな警察内部の情報を惜しむことなく秀人に提供してくれた。


 三橋が秀人を裏切ることは、絶対にない。怠惰たいだで小心者の彼は、今の自分の状況で得られる物に満足している。出世の望めない警察官である自分では、到底期待できないような報酬。暴力団経由で好きに遊べる風俗店。欲望を満たす、金と色欲。


 同時に、満足いく報酬を得るリスクも理解している。裏切ったときに自分に降りかかるであろう、報復を。


 だからこそ秀人は、三橋をいいように利用していた。もともとは岡田の傘下だった三橋を、まるで自分の手下のように使っていた。そのことに岡田が意見してくることは、もちろんない。


 秀人は、洋平と美咲の写真を三橋に渡した。入り浸っていた大学生宅から出てきたときの写真。正義まさよし達が追っている大学生宅不法侵入事件の犯人の写真だ、と伝えて。


 そのうえで、命令した。この二人が秋田家一家殺害に関与していることを、うまく刑事達に感付かせろ、と。


 頭の悪い三橋は、そんな方法など思い浮かばない、などと泣き言を吐いていた。秋田家に残された指紋と大学生宅に残された指紋を照合させれば、すぐに関連付けられるのに。


 やや冷たい秋風に乗せて、秀人は小さく溜息をついた。


 三橋は、利用価値はある。だが、救いようのない馬鹿だ。胸中で悪態を突きながら、秀人は、つい、目の前のマンションに住んでいる少年を引き合いに出してしまった。


 洋平。秀人と似た境遇にあり、秀人以上の才能がありながら、人を殺せない少年。だから、いいように利用してやろうと決め、切り捨てた少年。

 

 洋平のことを思い浮かべると、秀人は、胸が突かれるような感覚を覚える。秋田家で彼等を見捨てた、あの日から。


 この感覚には、確かに覚えがある。幼い頃に、確かに経験していた記憶。それなのに、思い出せない。記憶力には自信があるのに。幼い頃に、父や母と一緒にいた頃の記憶。父や母が、自分を慰める場面が思い出せる。


 父は、秀人の頭を撫でてくれた。

 母は、優しく秀人を抱き締めてくれた。


 それが、どんな場面での記憶だったのか。

 思い出そうとしても、どうしても思い出せない。


 まあ、俺が思い出せないくらいだから、大したことじゃないんだろうな。


 自分の心に残る記憶を、秀人は簡単に切り捨てた。代わりに、頭の中に、これからのタイムテーブルを浮かび上がらせる。


 目処としては、三ヶ月。三ヶ月だけ、洋平と美咲を平穏に生活させる。それだけ時間があれば、洋平も美咲も、心身ともに休息を取れるだろう。


 頃合いを見て、警察に、洋平と美咲の居場所をリークする。三橋を通じて。合せて、洋平が超能力者だという印象を警察内で濃くするよう誘導させる。


 洋平が、秋田一家殺害に関与している。さらに、超能力者でもある。その情報を得た警察は、さらに超隊を動員して彼を確保しようとするだろう。


 同時期に、洋平に接触しよう。最後の情けだとでも言って、伝えよう。警察がお前達の居場所を掴んだ、と。逃げ切れるといいね、なんて吐き捨てよう。


 警察に居場所が割れたと知ったら、洋平は、この家から出て行くだろう。逃亡するために。警察に捕まることを、洋平は拒むはずだ。警察は、彼の弟を見殺しにしたのだから。


 警察が正義を振りかざすことを、洋平は受け入れない。


 美咲は、間違いなく洋平についていく。どんなことがあっても。秋田家で見た彼女の様子から、秀人はそう確信していた。あの日の、洋平を見つめる美咲の表情から。


 結果として洋平は、美咲と行動を共にしながら、警察と対峙することになる。


 洋平は必死に抵抗するだろう。人を殺せなくとも、銃を使って抵抗する必要が出てくるはずだ。


 逃亡の足枷があるから。

 美咲という、足手まといがいるから。

 たとえ足手まといでも、守るべき存在だから。


「まあ、それまでは、せいぜいのんびり暮らしなよ」


 ポツリと呟いて、秀人は、洋平達がいるマンションを後にした。


 しばらくの間洋平達に何もしないのは、彼等を休ませるため。休息を取らせ、回復させ、来たるべきときに大いに暴れさせるため。同時に、秀人自身が準備を進めるため。それだけだ。


 ──ただ、それだけだよ。


 ゆっくりと、自宅へ向かう。

 誰もが振り返るような、端正な顔立ち。美しい姿。


 その華やかな姿に似合わない陰りが、秀人の心の片隅にあった。どこか重い気持ち。胸を締め付ける記憶。先ほど切り捨てたはずの、幼い頃の記憶。思い出せない記憶。


 最近の自分は、どこかおかしい。秀人は、自分に違和感を覚えていた。家にいるときもそうだ。


 家が、やたらと広く、暗く感じていた。


 地下室で訓練を終えた後。スポーツドリンクで喉を潤していると、部屋の奥までの距離がずいぶん遠く感じる。小中学校の体育館程度の広さの、地下室。それなのに、まるで大規模な武道館にでもいるようだった。一人で使うには、あまりに広すぎる。


 違和感は、地下室の広さだけじゃなかった。


 リビングの明かりが、暗く感じた。蛍光灯が劣化したのかと思い、買い換えてみた。それでもやはり、どこか暗かった。


 目が悪くなったのかな。俺も、もうそんな歳なのかな。だから、暗く、遠く感じるのかな。


 自分の心が何を訴えているのか分からないまま、秀人は帰路を進んだ。


 心の奥深くにある殻は、固く分厚くて、破れそうにない。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る