第三十二話 自分の保身よりも、自分の意地よりも、はるかに大切だから
近くにある大型スーパーまで、洋平は車を走らせた。
立体駐車場が隣接しているスーパー。中には、食料品売り場だけではなく、ドラッグストアや飲食店、ペットショップも入っているようだ。それを示す看板が立っている。
スーパーの出入り口は、国道に面している。
洋平は国道の路肩に車を停車させ、出入り口から出てくる人を観察した。
狙うべきは、腕力に似合わない量の購入品を持った、小柄な老女。
出入り口には、多くの人が行き交っている。小さな子を連れた母親。普通の親子連れ。老夫婦。若い夫婦。洋平や美咲と同年代と思える少年少女。
そんな人々に混じって、一人、洋平の狙いに合った老女が出てきた。
小柄な老女。身長は一五〇センチもないだろう。年齢は、概ね七〇前後に見える。年の割に背筋はピンとしているが。片手には買い物袋を持っていた。中から、大根の葉が顔を出している。もう片方の手で、個人用の買い物カートを引いている。フタの空いた買い物カートの中から、袋が出ていた。猫の絵柄が描かれた袋。猫用トイレの砂だろうか。熱中症を防ぐためだろう、首から、ストラップに付けた二五〇ミリリットルのペットボトルを掛けていた。中には、水が入っている。
あの老女にしよう。駐車場に向かう様子はないので、徒歩でこのスーパーまで来たのだろう。それなら、家はそう遠くないはずだ。
スーパーから出た老女が歩き出した。国道添いを、重そうに荷物を持ちながら歩いて行く。歩行速度は遅い。
洋平はまだ車を発車させていない。すぐに走り出したら、簡単に老女を追い抜いてしまう。かといって、彼女の歩行速度に合わせて車を走らせるわけにもいかない。ある程度距離ができてから、後をつけよう。幸いなことに、老女の進行方向は、この車線の進行方向と同じだ。
老女は国道添いを歩き、直線上の信号を渡った。
そのタイミングで、洋平は車を発進させた。
「もうすぐゆっくり休めるからな、美咲」
洋平の言葉に、美咲がこちらを見たようだった。運転中だから、彼女の方は見ていないが。衣擦れの音で、こちらを見たのがなんとなく分かる。
老女が国道を左に曲がった。
洋平は車のスピードを上げた。老女が曲がった場所に着くと、彼女と同じように左折した。
細い路地に入った。少し進むと、住宅街。一戸建てやマンションが建ち並んでいる。
ゆっくり、ゆっくりと車を走らせる。老女に、尾行に気付く様子はまったくない。彼女が、ペットボトルの水を飲むために足を止めた。
洋平も、老女に合せて車を停めた。
それでも、彼女は尾行に気付かない。あれだけの荷物を、あんな小柄な体で運んでいるのだ。大変で、後ろに気を遣う余裕などないのだろう。
洋平はシートベルトを外した。あの量の荷物を運んでいることから考えて、老女の家はここからもう遠くない。下車している間に老女に家に入られてしまっては、意味がない。だから、ここからは徒歩で尾行して、彼女が家に入る瞬間を狙う必要がある。
「美咲、ほんの少しだけ、動けるか?」
言いながら、洋平は美咲のシートベルトを外した。
「どうしたの?」
「少しだけ我慢してほしいんだ。すぐに、ゆっくり休ませるから」
美咲は、潤んだ目で洋平を見つめていた。熱でうなされたような顔。ゆっくりと目を閉じ、小さく頷いた。
「無理しないでね、洋平。我慢しなくてもいいから。私なら、大丈夫だから」
美咲は、洋平が何をしようとしているのか、悟ったのだろう。それでも洋平を止めないのは、もうそんな体力がないからだろうか。
エンジンを止めて車から降りる。洋平は助手席側に回り込み、ドアを開けて、美咲を下車させた。大学生の家を出たときのように彼女をおんぶし、老女の後をつける。
荷物を運ぶことに必死な老女は、相変わらず尾行に気付かない。
美咲を背負いながら、洋平は、肩から掛けたウエストポーチに触れた。秀人がくれた銃が入っている。とはいえ、これを使う必要はないだろう。相手は、力の弱い老人だ。
幸いなことに、老女の家はすぐ近くだった。十階建てのマンション。入り口は、ガラス張りの大きなドア。オートロックではないようだ。
美咲に振動を与えないように気を遣いながら、洋平は、素早く老女に接近した。
マンションの入り口付近で、老女の背後につく。おんぶした美咲の足を片方だけ離し、自由になった腕を、老女の首元に回した。羽交い締め。
「ひゃっ」
老女の口から悲鳴に似た声が漏れた。強く締めてはいない。驚いただけだろう。
「騒ぐな。騒がなければ、危害は加えない」
背負った美咲の熱が、背中に伝わってくる。熱い。かなり発熱している。少しでも早く休ませたい。
洋平の心には、明らかな焦りがあった。
「あなた、誰? 強盗?」
締めた瞬間の声とは違い、老女は落ち着いているようだった。唐突に襲われたのに、震えてさえいない。今まで襲った大学生は例外なく震え、怯えていたのに。
「金はいらない。ただ、しばらく家に居座らせて貰う。断る選択肢はない。拒否すれば──」
殺す、という言葉を、洋平は口にできなかった。
もちろん、そんなつもりなど最初からない。自分に人殺しはできないことも、もう分かっている。口にしたとしても、ただの脅しだ。
それでも、美咲の耳に、そんな言葉など入れたくなかった。ただの脅しであったとしても。
老女は小さく息をついた。明らかに、襲った洋平よりも落ち着いていた。
「こんなお婆ちゃんに、お金なんてないよ。まあ、それでもいいなら、少しくらいは出すけど」
「だから、金じゃないって言ってるだろ!」
つい、洋平は声を荒くしてしまった。背中がどんどん熱くなる。美咲の熱が伝わってくる。少しでも早く休ませたい。一分でも、一秒でも早く。
焦りが、洋平を苛立たせていた。
「洋平、駄目、だよ」
興奮する子供をあやすように、背中で、美咲が呟いた。
「あんたは、馬鹿なチンピラとは、さ、違うんだから。だから、そんなことしちゃ、駄目だよ」
言葉のひとつひとつが、苦しそうに途切れている。明らかに大丈夫なんかじゃない。それでも美咲は、相変わらずの言葉を洋平の背中で口にした。
「私は、大丈夫だから」
どこが大丈夫なんだよ。全然大丈夫なんかじゃないだろ。美咲への反論が、次々に頭の中に湧き出てきた。口にはできない。苦しくて、胸が詰まって、言葉が出ない。
老女を締める洋平の腕から、力が抜けていた。
スルリと、老女は洋平の腕から抜けた。こちらを向く。洋平の背中にいる、美咲の顔を見た。熱で赤く染まった、美咲の顔。その手を伸ばし、美咲の頬に触れた。
その直後、老女は驚いた顔を見せた。
「ひどい熱」
彼女の声には、洋平に襲われたときよりも明らかな焦りの色があった。強い緊張感が見て取れる。加齢から垂れ下がった目尻。その目は、大きく見開かれている。
「とりあえずウチに上がりなさい。寝かせないと駄目。それから、頭を冷やして──」
老女は買い物カートを引いて、マンション入り口のドアを開けた。
洋平は美咲の容態に焦り、さらに老女の様子が変わったことに驚いていた。
「ほら、早くして。その子を休ませたいんでしょ?」
老女の声で我に返った。洋平は美咲を背負い直し、彼女についてマンションの中に入っていった。
エレベーターが、真ん中と左右に一機ずつ。
老女は左側のエレベーターに足を運んだ。洋平も、美咲を背負いながらついて行く。
エレベーターの上向きの矢印ボタンを押す。扉が開くと、中に入った。四階のボタンを押す。エレベーターが上がり、四階に着いた。「405」の表示があるドアの鍵を開けた。
玄関に入ると、左右にドアがあった。左側のドアはガラス張りになっていて、その向こうにあるリビングが見えた。手前にもドア。トイレだろうか。
老女は、右側のドアを指差した。
「そっちの部屋にベッドがあるから、その子を寝かせて。暑いだろうけど、タオルケットだけは掛けてあげて。私は、色々用意するから」
手早く言うと、老女はリビングに駆け込んでいった。老人とは思えないほど動きが手早い。リビングの奥に、猫が二匹いるのが見えた。黒猫。
老女に言われるまま、洋平は靴を脱いで家に上がった。右側の部屋のドアを開ける。
六畳程度の広さの部屋。ドアの正面奥にある窓。
窓際に、ベッドがあった。
洋平は、美咲をそっとベッドに寝かせた。その両足から靴を脱がせる。ベッドの上にあったタオルケットを、彼女に掛けた。
車の座席ではない、完全に体を休ませることができる場所。ベッドに横になって気が抜けたのか、美咲は一気に脱力した。汗がひどい。前髪が、額に張り付いている。
こんなときに、どうすればいいのか。休ませるだけでいいのか。どう対処すればいいのか。どんなふうに治療すればいいのか。
まったく分からない。そんな知識などない。
洋平は、ずっと強くなりたかった。弱い者を守れる人間になりたかった。秀人のような、圧倒的な力が欲しかった。
でも、今は、そんな力よりも。
他人を叩き潰せる力よりも、大切な人を助けられる力が欲しかった。美咲の苦しみを消せる力がほしかった。
それなのに、自分には何もない。自分には、何もできない。自分の手では、美咲を助けられない。
汗をかいて苦しそうにしている美咲を前に、洋平は泣きそうになった。ここが他人の家だということも忘れて、彼女を抱き締めながら大声で泣きたかった。死なないでくれ、美咲。頼むから、元気になってくれ。そう、喚きながら。
洋平を我に返したのは、早足で部屋に駆け込んできた老女だった。右手にトレイを持っている。トレイの上には、氷が入ったボウルと、体温計。左手には、氷枕。
「ちょっとごめんね」
老女は、洋平と美咲の間に割り込んできた。手慣れた様子で、美咲の頭の下に氷枕を滑り込ませる。トレイを床に置いて、その上にあった体温計を手にした。スイッチを押すと、デジタルの体温計がピッと鳴った。
「はい、熱計ろうね」
老女は美咲の服の中に手を入れ、体温計を脇に挟んだ。ほんの十数秒ほどで、脇に入れた体温計がピピッと鳴った。
やはり慣れた手つきで、老女は、美咲の脇から体温計を取り出した。表示された体温は、三十八度八分。
洋平は、体温など計ったことがない。多少熱っぽくても、具合が悪くても、ほとんど気にしたことがない。気にする余裕などなかった、という方が正しいか。
しかし、明らかに高熱と分かるその数字を見た瞬間、血の気が引く思いがした。
自分なら耐えられる。自分なら、その辺に
でも、美咲は……。
洋平の気持ちに同調するように、老女も、深刻そうな顔を見せた。
「すぐに救急車を呼ぶから。ここじゃ、ちゃんとした治療なんてできないし」
最善の判断だ。迷いなく、洋平はそう思えた。
美咲が病院に運ばれたら、彼女の身元が分かるだろう。同時に、共に行動していた洋平の身元も。
それはつまり、洋平自身の犯罪が明るみに出る可能性がある、ということを意味する。美咲が危惧していたように。
洋平は警察が嫌いだ。秀人の父親に無実の罪を着せ、殺した警察。自分の弟を見殺しにした警察。そんな警察に正義を振りかざされて逮捕されるなんて、屈辱以外の何物でもない。そんな選択をするくらいなら、いっそ死んだ方がましだ。
自分一人の身なら、そう思っていた。
でも、今は、一人じゃない。
自分の意地や保身なんて下らなく思えるほど、美咲が大切だ。
だから──
「救急車を呼んでくれ。美咲を助けてくれ。頼むから」
涙声が出た。
「頼むから、美咲を助けて」
唇を震わせながら、洋平は、ほんの十数分前に脅した老女に頭を下げた。
美咲を助けられるのなら、何でもできた。何でもしたかった。
頷き、老女はポケットからスマートフォンを取り出した。発信画面を表示させる。
「駄……目……」
消え入りそうな声が、老女の動きを止めた。かすれた、息も絶え絶えの声。苦しそうな、美咲の声。
美咲はタオルケットから腕を出し、老女の服を掴んでいた。その手は力などほとんど入らないのか、震えている。
「お願……い……病院……やめ……」
弟と美咲は違う。それなのに洋平は、弟を失ったときのことを思い出した。苦しそうな声。消えそうな命。フラッシュバックする、大切な人を失う記憶。
体が震えた。いいから救急車を呼んでくれ。そう、老女に言いたかった。でも、声など出せなかった。今喋ろうとしたら、嗚咽しか出ない。言葉なんて出せない。
「洋平……捕まっちゃ……やだ……やだ……」
苦しいはずなのに、美咲は、自分の意思を口にすることをやめなかった。
「一緒……に……側に……いて……」
美咲は泣いていた。暴力団の事務所に拉致されたときも、秋田の家で死体に囲まれていたときも、秀人に捨てられたときも泣かなかった、彼女が。
ひと筋の涙を、両目から流していた。
「だい、じょぶ……だから……。だから……」
老女はベッドの近くでしゃがみ込むと、美咲の額に手を当てた。もう片方の手で、ボウルの中に入った氷を、ひとつ摘まんだ。
「これね、スポーツドリンクを薄めて凍らせたものなの。風邪を引いたときのために、作ったやつ。これなら、今の──えっと、美咲ちゃん?──の状態でも、栄養が取れると思うから。だから、口に入れて」
美咲は素直に口を開けた。氷を口に含む。熱くなった口内が冷えたからだろうか、少しだけ、美咲が心地よさそうに見えた。
「病院が嫌なら、ちゃんと栄養取って、休んで、治さないとね。わかった?」
氷で頬を膨らませたまま、美咲は、熱で赤くなった顔をコクンと動かした。泣いたせいだろう、少しだけ鼻をすすっている。
「いい子ね。じゃあ、少しずつ氷舐めて、落ち着いたら、眠りなさい」
諭すように、美咲の額を撫でながら。
子供をあやすような老女の姿は、洋平が見たこともない、優しい母親のようだった。
見たこともない、気持ちを共有できるはずもない、優しい母親。
「えっと──洋平君、でいいのよね?」
「え? あ、ああ」
洋平は頷いた。
老女の声は小さい。美咲に気を遣っているのだろう。だが、強い声でもあった。
優しくても、ときに厳しい母親の声。
美咲を助けようとしてくれる、母親の声。
「後で、事情、聞かせてちょうだいね」
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