第二十九話 絶望の、血の海の中で、あなたを支える



 秀人が去った、秋田家のリビング。


 点けっぱなしのテレビでは、夜のローカルニュースが放送されていた。十五~二十五歳くらいの男が一人暮らしの大学生の家に押し入り、家主を拘束して、家にひと月ほど居座って生活していた。そんなニュース。


 事件はかなり前に発覚したが、未だ犯人の足取りは掴めていないという。


 テレビの中で放送されている、ただ耳を素通りしてゆくニュース。


 そんなニュースなんかよりも遙かに凄惨な光景が、美咲の視界の中で広がっている。


 ほんの一時間前まで平和に生活していた、四人家族。もう二度と動かない人達。


 彼等の死体が血の海に沈む、地獄のような場所。


 死体の前で、洋平は、へたり込んだままだった。そのまま、動けずにいる。


 美咲は、洋平よりも先に落ち着きを取り戻した。


 ──いや、落ち着いてなどいない。落ち着けるはずがない。


 ただ、必死だった。秀人に見捨てられた洋平が、どんな気持ちになっているのか。それが簡単に想像できる。彼の気持ちを考えるだけで、胸が痛む。


 唇を噛んだ。自分が、どうにかしたい。自分が、洋平を……。


 美咲はゆっくりと立ち上がった。おぼつかない足取りで、洋平の側まで歩を進めた。全身が小刻みに震えている。震える手を、洋平の肩に置いた。


「洋平、逃げよう。ここにいたら駄目だよ」


 洋平は、緩慢な動きで美咲に顔を向けた。半開きになった、呆然とした口元。大粒の涙が、虚ろな目から流れていた。自分を支える全てを失ったかのようだった。


 洋平の開かれたままの口が、かすかに動いた。必死に声を出そうとして。でも、出せなくて。なんとか絞り出せたのは、かすれるような涙声だった。


「……ごめん、美咲」


 何故、謝る必要があるのか。一番傷付いているはずの洋平が、どうして「ごめん」なんて。


「俺のせいで……俺が撃てなかったから、秀人に見捨てられた。あんなに優しくしてくれたのに。あんなに、俺達のことを大事にしてくれたのに……」


 洋平の言葉で、美咲の肩がブルッと震えた。呼吸が苦しい。息ができないほど、心臓が痛い。彼は、こんな状況になっても、まだ秀人を信じているんだ。


 洋平の実の父親は、彼の弟を虐待の末に殺したクズだ。だからきっと、洋平は、心のどこかで憧れていたのだろう。優しく強い父親に。自分を育て、自分が守りたいものを一緒に守ってくれる、父親に。


 洋平にとって、秀人はまさにそんな存在だった。色んな事を教えてくれた。鍛えてくれた。暴力団から守り、さらに、洋平自身が求めていた戦える力を与えてくれた。


 美しい母親のような容貌の、強く優しい父親。


 洋平が絶対に手に入れることのできない、理想の親。


 でも、そんな姿は、全て嘘だった。


 美咲はもう気付いていた。先ほどの、秀人の冷たい目を見て。暴力団事務所で組員達に向けていたような、凍るような視線を向けられて。


 秀人は、洋平や美咲を利用しようとしていただけだ。復讐のための道具として。それこそ、暴力団の鉄砲玉のように使うため。だから、使えないと──人を殺せないと知った途端、手の平を返した。


 かすかに、美咲の心に引っ掛かっていることはある。冷たい目を見せる直前の、秀人の表情。言葉にできないような感情を抱えた顔。でも、そんなものも幻のように思えた。


 嘘だったのだ。この三ヶ月間の、幸せを感じた全てが。秀人がくれたもの全てが。


 楽しい食事中の会話。優しい気遣い。美咲の料理を食べたときの「旨い」という言葉。誕生日の、美味しかったケーキさえも。


 みんな、嘘だった。


 みんな、みんな、嘘だった!


 本当は、洋平と一緒に泣きたかった。彼と抱き合って、大声で泣きたかった。裏切られたと、恨み言を言いたかった。


 けれど、そんなことなど言えなかった。洋平は、まだ、秀人を信じているから。憧れた父親の姿を、捨て切れないから。そんな彼に追い打ちをかけるようなことなど、言えない。


「洋平」


 美咲は、洋平の前でしゃがみ込んだ。そっと、彼の背中に手を回した。優しく、包み込むように抱き締めた。


 私は裏切らない。私は見捨てない。私は、何があっても、洋平を──


「一緒に逃げよう、洋平。私が側にいるから。何があっても、どうなっても、ずっと一緒にいるから」


 四人もの殺害に関わった。秀人の家でついた嘘とは違って、今度は本当に、自分の家には帰れなくなった。美咲は、そう悟っていた。このことが明るみに出たら、美咲の父親は、間違いなく美咲や洋平を警察に差し出すだろう。


 秀人にも見捨てられたことで、帰る家はなくなった。


 けれど、そのことを絶望とは思わなかった。


 洋平の側にいられればいい。彼は命がけで美咲を守ってくれた。だから今度は、自分が洋平を守るんだ。支え続けるんだ。


「一緒に逃げよう、洋平」


 どんなに大変でも。どんなに苦しくても。一緒に逃げ続けよう。ずっと一緒にいよう。


 自分の想いは言葉にせずに、美咲は、優しく洋平の頬に触れた。涙で濡れた頬。苦しそうな顔。悲しそうな表情。


 そんな顔しないで。

 泣かないで。

 今は無理でも、いつかきっと、笑えるから。

 今は無理でも、いつかきっと、幸せになれるから。


 死体が血の海に沈む、地獄のような場所で。

 自分達以外の何もかもを失った、現実の中で。


 美咲は、自分の唇で、そっと洋平の唇に触れた。



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