第二十八話 金井秀人は心が歪む



 秋田家の一階に繋がる階段。


 明かりは当然、点けていない。光源は、一階のリビングから漏れる微かな光のみ。ほとんど真っ暗だ。


 そんな階段を、秀人は先頭に立って降りていた。足音を立てず、階段がきしむ音すら立てない。


 後ろから、洋平と美咲がついて来ている。


 洋平には隠密行動の訓練も積ませていた。可能な限り音を立てず、素早く行動できるようにする訓練。その成果だろう、彼の足取りは見事だった。たった三ヶ月での、驚異的な成長。思っていた通り、彼は天才だ。開花する環境に恵まれていなかっただけで。


 洋平の後ろにいる美咲の足取りは、たどたどしい。何の訓練も積んでいないのだから、当然だ。この場においては、はっきり言って足手まといだ。


 それでも美咲は自分も行くと言い、秀人はそれを受け入れた。

 

 美咲は、洋平が心配だったのだろう。彼女は洋平を兄のように慕い、弟のように可愛がり、恩人であるが故に敬愛している。洋平のことをよく見ている。洋平が本来、心優しいことも知っている。だから心配だったのだ。そんな優しい人が、人を殺すなんて、と。


 秀人は、そんな美咲の心情を汲んで連れて来た──というわけでは、もちろんない。


 洋平と美咲に、一緒に人を殺したという連帯感を持たせる。そうすることで、互いに後戻りができないようにする。


 秀人は当初、洋平や美咲を自分の駒としてしか見ていなかった。上手く手懐け、自分の思うようにコントロールし、人を駒として使う実験台にするつもりだった。もちろん、用が済んだら切り捨てるつもりでもあった。


 だが、洋平と過ごすうちに、考えが変わった。


 洋平は優秀だ。手元に置き、自分と同じ価値観を植え付けたい。自分と同じ考えで行動するように教育したい。そうすれば、自分の右腕のように使える。今まで自分ひとりで行っていたことを、彼と二人で行えるようになる。


 ただし、たったひとつだけ、秀人が洋平と共有できないところがあった。洋平は、守る者がいることで自身の力を発揮する。暴力団事務所で美咲を守るために、全力で抵抗したときのように。


 それならば、守られる者の役割は美咲だ。だからこそ、彼等にはより強い連帯感を持ってもらいたかった。互いに同じ罪を背負って。互いを想い合うことで。どんなことがあっても離れられなくさせたかった。


 そんな秀人にとって、美咲の申し出は好都合だった。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 それ以上でもそれ以下でもない──はずだ。


 一階まで降りてきた。


 秋田の家族が玄関に出てくる気配はない。テレビの音が聞こえる。一家団欒の最中なのだろう。


 三橋から渡された資料によると、秋田という刑事一課課長は、警察官の鏡のような男だ。秀人の父に無実の罪を着せたような刑事とは違う。洋平の訴えを無下に振り払った警察官とも違う。


 だが、死んでもらう。秀人自身の復讐のために。破壊のために。


 そのために秀人は、秋田という人間について、事実とは真逆のことを洋平に伝えた。彼の憎悪を、煽りたくて。殺人への躊躇いを、少しでもなくしたくて。


 リビングに通じる磨りガラスのドアから、明かりが漏れている。


 秀人は、超能力のレーダーを展開した。リビングの中の様子が分かる。


 L字型の大きなソファーに、四人。一家揃ってくつろいでいるようだ。


 全員を、これから銃で射殺する。


 銃の出所は、銃弾の線状痕からすぐに判明するはずだ。


 警察が管理している銃で、現職の警察官一家が皆殺しにされる。その事件は、世間に衝撃を与えるだろう。銃の管理に関して、警察は世間に批難されるだろう。冤罪により周囲から攻撃された、秀人の一家のように。


「ドアを開けたら、一気に行くよ」


 小声での秀人の指示に、洋平と美咲は頷いた。


「秋田の一家は、全員、リビングにいるはずだから。俺が超能力で全員拘束する。あいつらが動けなくなったら、一気に殺して。いい?」


 殺してという言葉に、洋平の肩が震えた。彼はすでにウエストポーチから銃を出し、その手に握っていた。安全装置は外され、いつでも発砲できる状態になっている。それでも、まだ躊躇ためらいが見える。


 当然だ、と思った。今では道端の石ころを蹴飛ばすくらいの感覚で人を殺せる秀人でさえ、最初の殺人は躊躇った。


 初めての人殺しを躊躇いなくできるのは、痛みを知らない馬鹿くらいだ。どれだけ秀人が親密に接し、自分に対する信頼感を洋平に持たせても、躊躇いや緊張を完全に消せはしない。


 秀人は、洋平の肩に手を置いた。優しく、励ますように。俺は、お前を信頼しているよ。お前は、俺の大事な仲間であり、家族だよ。そう告げるように。そう思わせるだけの行動を、秀人は、洋平や美咲に行ってきた。


「大丈夫だよ。洋平ならできるから。洋平は、自分で思ってるよりも、俺が期待していたよりも、大した奴なんだから」


 この言葉は、秀人の本心だった。洋平は大した奴だ。その才能も、力を得るためにできる努力の量や質も。


 秀人の言葉に、洋平は力強く頷いた。彼の目は、真っ直ぐに秀人を見ている。信頼している者を見つめる目で。


 その後ろでは、美咲が、心配そうに洋平を見ていた。光源は、リビングから漏れる明かりだけ。薄暗い場所。そんな場所でも明確に見える、彼女の感情。


「……」


 秀人は気付いた。美咲の目に宿る意思は、家族に対して抱くものではない。恩人を敬愛するだけのものでもない。


 おそらくは、美咲自身に、まだその自覚はない。


「じゃあ、行くよ」


 秀人の指示に、洋平と美咲が再度頷いた。


 秀人は駆け出し、リビングのドアを開け放った。


 ガチャン、という音を立てて開いたドア。もう、物音を抑える必要はない。


 レーダーで感知した通り、一家四人はソファーでくつろいでいた。テレビが点いている。全員が、突然の物音に驚いた様子で秀人の方を見た。


 四人が四人とも、突然起きた出来事を理解できていない。


 秀人は素早く、超能力を発動させた。左手の人差し指、中指、薬指、小指から、ロープ状の超能力を伸ばす。彼等の体に巻き付ける。触れずに物理作用を起こせる超能力。その用途は広い。警察が訓練するのは攻撃手段と防御手段のみだが、使い方によっては、拘束するのにも利用できる。


 超能力で拘束した四人をソファーから引きずり下ろし、一箇所に集めた。家族四人の体が、集めた際にぶつかった。


 突然の出来事と互いの体がぶつかり合った衝撃で、彼等は口々に「ぎゃっ」という声を上げた。苦悶とも悲鳴とも取れる声。


 秀人に続いて、洋平と美咲がリビングに入ってきた。


 洋平の手には、銃が握られている。


「洋平、やって!」


 秀人の言葉と同時に、洋平は、拘束されている四人に向かって銃を構えた。


 洋平は、射撃に関しても優秀だった。地下室の訓練でも、十メートル以内の距離であればポイントを外すことは皆無だった。そんな彼が、この距離で的を外すことはない。標的達との距離は、せいぜい五メートル程度。

 

 一発、銃声が響いた。硝煙が舞う。訓練をしていた地下室に比べて、耳に届く音が大きい。


 銃声に驚いたのか、それとも、人殺しの場面に直面することになったからか、美咲が肩を震わせた。


 響き、消えた銃声。


 宙を舞い、薄くなってゆく硝煙。


 かすかに漂う焦げ臭さ。


 だが、今の銃弾では、誰も死ななかった。


 銃弾は、秋田の長男の右足脛に当たっていた。ドクドクと大量の血が流れている。彼は、あまりの痛みに声も出ないようだった。体を硬直させ、口をパクパクと動かしている。強すぎる痛みは、声すら奪う。


 洋平がこの距離で的を外すなど、予想外だった。それほどまでに緊張しているのだろうか。


 秀人は優しく、落ち着いた声で洋平に言った。


「落ち着いて、洋平。ゆっくりでいいから。しっかり狙って撃ってみなよ」


 洋平は、弱気な顔をしていた。眉がハの字になっている。体がかすかに震えていた。それでも秀人の期待に応えたいのだろう、緩慢な動きで首を縦に振り、もう一度銃を構えた。


 銃口の先には、ターゲットの四人。


「やめろ! 待て! 待ってくれ!」

「お願い! 助けて!」


 秋田や、妻や娘が口々に声を上げていた。長男は相変わらず苦悶している。


 洋平は呼吸を荒くしながら、彼等に銃口を向けていた。しかし、その目は、銃口とは違う場所を見ている。


「?」


 秀人は目を見開いた。


 視界の中で、洋平の様子が変わってゆく。震えが大きくなった。銃が、ガチャガチャと震えに合せて金属音を立てている。目を異常なほど見開き、歯をカチカチと鳴らしていた。呼吸は、ますます荒くなってゆく。


 それは明らかに、緊張している様子ではなかった。とはいえ、人を殺す罪悪感とも思えない。


 洋平の視線が捕えているのは、出血している長男の足だった。


「どうしたの? 洋平」

「──」


 洋平の口から出たのは、秀人の質問に対する回答ではなかった。人の名前。秀人も聞いたことがない名前。もちろん、秋田一家の誰の名前とも一致しない。


「誰のこと?」


 洋平の呼吸が、さらに荒くなった。先ほど小声で呟いた名前を、何度も口にした。視線の位置は変わらない。出血する長男の足。


 洋平の口から、うわごとのように言葉が漏れた。


「……駄目だ……死ぬ……誰か助けて……お願いだから……死んだら、もう……」


 ポタリ。小さな小さな水音。涙が、床に落ちた音。


 洋平は泣いていた。暴力団に拉致されたときは、簡単に生き残ることを諦めた洋平が。美咲も拉致されたことを知ると、果敢に彼女を助けようとした洋平が。


 そんな洋平が、自分が奪おうとしている命を前に、涙を流していた。


 大粒の涙が、ボロボロとこぼれている。


 洋平の様子を見て、秀人は、彼が以前話していたことを思い出した。彼の弟のこと。命を掛けて守ろうとした弟。弟を守るために、小さな体を張った。小さな体を、弟を守る盾にした。それでも、守れなかった。洋平の腕の中で、弟は、ゆっくりと命を失っていった。今の秋田の長男のように、出血しながら。


「あ……」


 つい、声が漏れた。秀人は、自分の致命的なミスに気付いた。


 気付いた直後、自分の失態に舌打ちしたい気分になった。


 ──どうして俺は気付かなかった? どうして、こんな単純なことに。


 洋平にとって、弟の死は、大きな心の傷なのだ。彼自身の生き方や人格を決めてしまうほどに。弟を守れなかったから、洋平は弱い者を守ろうとする。弟を助けられなかったから、弱い者を助けるために、自分の命を顧みない。


 そして、命が失われてゆく感触を知っているから、自分以外の人の死に過剰に反応する。


 つまり、洋平は、決定的に人殺しに向いていない。仮に超能力を身に付けたとしても、それを攻撃手段としては使えないほどに。他人に殺意を抱けないのだ。


 だから洋平は、射撃という超能力の基本さえ使えないのに、レーダーのような高等技術を使えた。戦って守るのではなく、逃げて守り抜くために。


 秀人と洋平の境遇は似ている。誰にも守ってもらえなかった。虐げられた。


 同じような傷を抱えているから、洋平とは、生き方も気持ちも共有できると思った。彼の優れた才能が、秀人の気持ちを後押ししていた。


 でも、それは間違いだった。


 秀人の胸が──心が、重く鈍い感覚に包まれた。その感覚の正体が何なのか、秀人自身にも分からなかった。


 洋平に人は殺せない。もう駄目だ。無駄だ。それは分かっている。それでも秀人は、再度、洋平に言った。


「やって、洋平」


 洋平は激しい拒絶を示すように、大きく首を横に振った。大粒の涙が、周囲に散った。


「できない……だって、殺したら……死んだら、もう戻らない……」


 予想通りの回答だった。


 秀人の心の重みが増した。この重みの正体は、何なのか。それすら考えられない。


 自分は今、どんな顔をしているのか。どんな表情をしているのか。今まで抱えたことのない種類の感情に、秀人は戸惑った。


 そのせいで、美咲がすぐ近くまで来ていることにも気付かなかった。


「ねえ、秀人」


 美咲は、秀人の服の袖を掴んでいた。縋るように見つめていた。


「お願い、やめさせて。洋平には無理だよ。どうにかして、この人達を殺さないで済ませて」


 美咲の声に反応して、秀人の心にある感情が変化してゆく。


 いや、変化ではない。元に戻ってゆく。重く鈍い感情が薄れてゆく。スーッと冷めてゆく。冷たく、凍るように。


 秀人はゆっくりと眼球を動かし、側に来た美咲を見た。


 美咲と、視線が合った。

 

 その直後、美咲は秀人の袖から手を離し、ビクッと体を震わせた。目を見開いている。気の強そうな顔立ちに表れているのは、明らかな恐怖だった。


 きっと、自分は、恐ろしいほど冷たい目で美咲を見たのだろう。暴力団員達に向けるような視線を、彼女に向けたのだろう。秀人はそれを自覚していた。


 先ほどまで心の中にあった、自分でも正体の分からない感情。それを、まるでゴミのように捨て去った。あとには、いつものような、計算高い冷たい感情だけが残っていた。


 秀人は、洋平の手から銃を奪った。左手から出した超能力で、秋田一家を拘束したまま。右手の銃を、彼等に向けた。


 銃声が四発、響いた。


 躊躇いなどない。人の命は軽い。それを物語るように、秀人は簡単に引き金を引いた。銃弾はいとも簡単に、秋田達四人の命を奪った。


 秀人にとって、人の命は軽い。春になると宙を舞う、綿毛よりも。


 けれど、洋平にとっては──


 リビングは血の海と化した。


 四人の死体は、真っ赤な血の中に沈んでいた。


 洋平は、目を見開きながらその場にへたり込んだ。ドサッと、尻餅をつく音がした。


 美咲も、いつの間にかその場に膝をついていた。


 秀人は、手にした銃を洋平の前に放り投げた。さらに、乗ってきた車の鍵も、彼の前に放った。


「ガッカリしたよ、洋平。もう、家には戻って来なくていいから」


 冷たく言い放つ、決別の言葉。洋平の肩がビクッと震えた。


「でも、まあ、しばらくは一緒に暮らした仲だからね。その銃と、ウエストポーチに入っている銃弾、外の車は、餞別代わりにあげる。あとは好きにしたらいいよ」


 もちろんこの言葉は、嘘である。一瞬で思考を巡らせてついた、嘘。


 へたり込んだ洋平は、縋るような目で秀人を見つめていた。まるで、親を求める子供の目。


 置いて行かないで、お父さん。待ってよ、お父さん。お父さん。お父さん。そんな声が聞こえてきそうだった。

 

 美咲も、秀人を見つめていた。けれど、その目は、洋平とはまるで違う。恐怖で目が離せない。そんな様子だった。


 秀人はリビングから出た。自分を見つめる洋平の顔が、なぜか脳裏に焼き付いていた。


 二階に上がり、自分の靴下と靴を履いた。そのまま、窓から家を出た。


 闇と言うには明るすぎる夜。

 月が綺麗な夜だ。


 銃弾を五発も撃ったが、周囲の住人が騒いでいる様子はなかった。誰も、先ほどの音が銃声だなんて思っていないのだろう。


 月明かりの中、秀人は、公園の向こうに停めた車を見た。洋平に運転の仕方を教えた車だった。


 あの車の中には、発信器がつけられている。




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