第二十七話 今が幸せだから、今のまま生きたいから、やると決めて
美咲の誕生日から三日が経った。
八月十一日。午後十時。
驚くほど月がはっきりと見える夜。
車の後部座席から、洋平は、刑事一課課長の家を見ていた。
閑静な住宅街にある一戸建て。庭が道路に面している。庭の奥に、家の正面。洋平達から見て建物の左側にドア。中央あたりに、リビングと思われる部屋の窓が見える。締めたカーテンから、明かりが透けていた。
家のすぐ前の道路を挟んで、公園がある。住宅街の公園なのでそれほど広くなく、遊具も少ない。ほぼ正方形の敷地。その中に、動物を象った乗り物と滑り台、ベンチだけがあった。
ここまで車を運転してきたのは、秀人だった。彼は、公園を挟んで秋田の家が見える位置に車を停めていた。リビングのカーテンに、人が動く影が見える。
秋田の家の周囲に、塀はない。家の正面全体が見渡せる。リビングの真上にある二階の部屋には、明かりが点いていなかった。カーテンも閉まっていない。
ここに来るまで秀人から聞いた情報を、洋平は頭の中で整理した。
刑事部刑事一課課長の、秋田慎之介。家族は、本人含めて四人。秋田、妻、息子と娘。年齢は、順に四十一、三十九、十五、十三。順調に出世している父親と専業主婦の妻、中学生の息子と娘。それは、絵に描いたような一般的で幸せな家庭だ。
今日、その家庭は終わりを告げる。
秀人は、今日の計画を端的にこう言っていた。
『全員、殺すよ』
殺す役目は、洋平だった。これまでの訓練の成果を試す場。同時に、警察が管理しているはずの銃で現職の警察官が殺されるという、ショッキングな事件を起こす場。秀人の計画の一端。
洋平は、肩に掛けたウエストポーチに触れた。中には、銃と銃弾が入っている。警察が使うものだから、それほど口径は大きくない銃。けれど、殺傷能力は十分にある。人を殺せる武器。
これから、人を殺す武器。
緊張で、洋平の体はかすかに震えていた。人を殺すのは初めてだ。今まで、たとえどんな状況であっても、人殺しだけはしなかった。やり過ぎそうになると、心の中で歯止めがかかるのだ。弟が殺されたときの光景が、頭の中に浮かんできて。少しずつ冷たくなってゆく弟の感触が、手に蘇ってきて。
心を縛る、弟の記憶。洋平が殺人に手を染めないよう、留めていた記憶。
けれど、今日は止まらない。一線を越える。あの家にいる家族を、皆殺しにする。
今日の計画を話していたとき、秀人が教えてくれた。
『秋田という刑事一課課長は、お前や俺が嫌う警察官の典型なんだ』
自分が手柄を得るために、平気で冤罪を生み出す。そのくせ、手間がかかる事件には着手せず、助けられる者を助けない。秀人が語る秋田の人物像は、憎むべき警察官の姿そのものだった。秀人や洋平から家族を奪った、警察官。
『殺しても気に病む必要なんてない奴なんだよ』
さらに秀人の話によると、秋田の家族も、秋田と同じ考え方をしているという。無実の罪を着せられた者や助けを乞う者、本気で人を助けようとする警察官を、嘲笑っている。
あの一家は、弟を見殺しにした奴と同じだ。正義の名を語っている。理不尽に人を傷付ける奴等を、見て見ぬ振りをする。そんな奴のせいで、弟は死んだんだ。
銃に触れながら、洋平は自分に言い聞かせた。これから行う殺人が正当であると、主張するように。まるで、殺人を正当化する言い訳のように。
それでも、震えは止まってくれない。
「大丈夫? 洋平」
隣に座っている美咲が、洋平の肩に触れてきた。その目は細められ、洋平を心配そうに見つめている。
美咲は、自ら志願してここに来た。人を殺すのに、彼女が役に立つとは思えない。それでも彼女は、一緒に来ることを望んだ。今日の計画を話した席で、彼女が秀人に言ったのだ。
『私も一緒に行く』
美咲の言葉に、洋平は目を見開いて驚いた。どうして、と思った。人殺しに手を染める場に、どうして自ら志願して、同行しようとするのか。
秀人に告げたとき、美咲の肩はかすかに震えていた。震えながら、チラリと、洋平を見た。細められた、痛々しそうな視線。どこか悲しそうな目。
瞬時に、洋平は気付いた。俺のことを心配してくれているんだ、と。だから、自分には何もできないと知りながら、美咲は同行を望んだのだ。
「大丈夫だよ」
美咲の言葉に、洋平は強がりを返した。心配させたくない。
洋平の手の平は、汗でビッショリだった。それは決して、暑さのせいではない。明らかに緊張している。それを自覚できる。人を殺すことに、不安と恐怖を感じている。
けれど、後には引けない。引きたくもない。
今の生活を続けたい。これからも秀人に色々教わって、褒められたい。頭を撫でる彼の手の温もりを、これからも感じ続けたい。
愛される家庭で幸せそうな顔をする美咲を、見守っていたい。彼女の無邪気な笑顔を、ずっと見つめていたい。
そのためには、やらなければいけない。
「洋平。どこから侵入すればいいかは分かる?」
運転席にいる秀人に声を掛けられて、洋平はハッと我に返った。秋田の家を見る。明かりが点いたリビング。一階部分は、家の側面からも明かりが漏れている。それに対して、二階部分は、正面からも側面からも明かりが漏れていない。つまり、今、あの家の二階には誰もいない。
「二階から侵入するのが正解だと思う。誰もいないみたいだし。二階から侵入して、家の奴等に気付かれないように一階に降りて、奇襲を掛ける。人間は突然予想外のことが起こるとパニックになるから、それに乗じて全員殺す。もしくは、一気に全員拘束する」
「うん、正解」
秀人は満足気に頷いた。
「道具がなくても、二階には登れるよね?」
「大丈夫。地下室の柱にだって、ロープもなしによじ登れるようになった。問題はない」
「窓を無音で叩き割るのは?」
「できるけど──」
秀人と会話をしながら、洋平は秋田の家を指差した。
「──あの二階の窓、鍵がかかってない」
だから、窓を割る必要はない。開けて入ればいいだけだ。そう言葉を続けようとした洋平を、秀人と美咲は驚いた顔で見ていた。
「見えるのか?」
秀人の問いに、洋平は無言で頷いた。窓の鍵が開いているのが、はっきりと見える。
「あんた、どんな視力してるの?」
心配そうな顔を一変させて、美咲は、呆れたような声を漏らした。
秀人は満足気な様子で、運転席から手を伸ばし、洋平の頭の上に置いた。
「大した奴だね。凄いよ、洋平は」
ブルッ、と洋平の体が大きく震えた。それは、先ほどまでの震えとは、全く違うもの。歓喜の震え。訓練のときもそうだった。秀人に褒められて頭を撫でてもらえると、凄く嬉しい。
自然と笑みがこぼれ、恐怖が薄れた。
「じゃあ、行こうか。洋平は、二階に登って先に家に入って。洋平が家に入ったら、俺と美咲は玄関前まで行く。美咲は、俺が超能力で二階まで持ち上げる。美咲が家に侵入できたら、俺もすぐに二階に登って家に入るから」
無言で、洋平は頷いた。
「車を出るときは、変にコソコソしなくていいから。当たり前に車から出て、当たり前に家に近付いて。その方が怪しくないからね」
「わかった」
秀人の指示通りに、洋平は車から出た。普段通りに音を立てて、ドアを閉める。バタンッという音が、やけに大きく聞こえた。秀人に褒められてから震えは止まったが、緊張はしている。
公園を横切り、秋田の家に近付く。玄関のドアまで足を進めた。ここまで来れば、隣の家からはほとんど死角となる。
壁にあるわずかな凹凸に手を掛けて、洋平は、音もなく二階によじ登った。ほとんど凹凸のない地下室の柱を登るより、はるかに簡単だ。
壁を伝って、明かりが点いていない二階の窓に近付く。部屋の中に人の気配がないことを確認してから、音を立てないように窓を開け、侵入した。
暗い部屋。ベッドと勉強机がある。秋田の息子か娘の部屋なのだろう。本棚には、漫画や小説、参考書が並んでいた。
部屋に入って、洋平はさらに集中力を高めた。秀人に違うと言われるまで、超能力だと思っていた力。自分の感覚が、周囲十五メートルほどにまで広がる。この家の中に、自分以外の人間が四人いる。秋田と、その家族だろう。全員、一階のリビングにいる。
洋平は窓から顔を出して、秀人と美咲を手招きした。
秀人と美咲が車から出てきた。
秀人は、洋平と同じく、何食わぬ顔でこの家に近付いてくる。まるで、自分の家に帰宅するように。
美咲の顔には、明らかな緊張が見て取れた。
秀人は、美咲がついて来ることに反対しなかった。
『洋平はもうしっかり動けるはずだから。俺は美咲のフォローに専念するよ』
そう言っていた。
玄関前まで来ると、秀人は、美咲を浮き上がらせた。超能力で持ち上げているのだ。宙に浮いた美咲は、ゆっくりと、開いた窓から部屋の中に入れられた。見えない手で運ばれたようだった。
「なんか、超能力で持ち上げられるのって、変な感じ」
部屋に入った美咲は、小声で呟いた。音を立てないように、フーッと大きく息をついていた。
美咲を二階に持ち上げた後、秀人は、洋平と同じように壁をよじ登ってきた。超能力を使わず、さらに無音で。その手際は、洋平よりも遙かによかった。彼の凄さは、超能力だけではない。自らの復讐のために、何年もかけて自らを磨き上げてきたのだ。
洋平が開けた窓から、秀人も部屋の中に侵入した。
「どうして超能力で登ってこなかったの? 自分を持ち上げることはできないの?」
素朴な疑問を口にした美咲に、秀人は簡潔に答えた。
「超能力はエネルギーの消費が激しいからね。必要ないところでは、使うべきじゃないんだ」
秀人はブロックタイプの栄養補助食品をポケットから取り出し、口にした。今の超能力で消費したエネルギーを、補給しているのだろう。
「本番はこれからだからね。力の無駄遣いは避けないと」
秀人は冷静で、計算高い。美咲を連れて来ることで自分の仕事が難しくなることも、分かっていたはずだ。それでも彼は、美咲の要望に応えた。
きっと、美咲を家族同然に思っているからだ──そう、洋平は思っていた。自分と美咲は、もう、秀人の家族なんだ。
俺達は家族。家族で、これから戦っていくんだ。今日の仕事は、その第一歩。深く静かに呼吸をし、洋平は気を引き締めた。
明かりが点いていない部屋。街灯の光と月明かりだけが差し込む、暗い部屋。
秋田の子供がこの部屋に戻ることは、二度とない。
洋平の心臓が、強く脈打った。
部屋の奥に、ドアを見つけた。洋平はそっと、そのドアを開けた。すぐ目の前に、階段があった。
階段を降りてすぐのところにある玄関には、明かりが点いていない。一階の部屋から漏れ出ている光が、かすかに玄関を照らしている。
「足音が立たないように、靴を脱いで。それと、靴下を履いてると床がフローリングだった場合に滑るから、靴下も」
秀人の指示に従って、洋平と美咲は靴と靴下を脱いだ。
「じゃあ、行くよ」
秀人の言葉に、洋平と美咲は頷いた。
三人は、洋平が開けたドアを通り、この部屋から出た。
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