第二十五話 偽りの家族でも、大切にしてくれたら、泣くほど嬉しい



 八月八日。午後十時半。


 美咲は、夕食の後片付けをしていた。


 油を引いたフライパンは少し洗剤を付けて水に浸し、先に皿などを洗う。手には、薄手のゴム手袋。秀人が買ってきてくれたのだ。素手で洗い物をしたら手が荒れるからね、と言って。


 その秀人は、今夜は出掛けている。人と会う約束があり、夕食も外で食べてくると言っていた。


 秀人の家のリビング。その、独立したダイニングキッチン。


 美咲がいるダイニングキッチンからは、リビングの食卓テーブルが見える。そこで洋平が、算数の問題集を解いていた。タイマーを付けて、問題を解くスピードを測っている。百問ほどの問題。彼はそれを、驚くほどのスピードで解けるようになっていた。


 何日か前に、美咲も洋平と同じことをやってみた。美咲は数学が得意だったし、成績も優秀だった。通っていた高校は、市内でも有数の進学校だ。


 それでも、洋平の計算速度には及ばなかった。彼は、秀人の家に来てからほんの三ヶ月で、驚くほど頭の回転が良くなっていた。秀人の教え方が上手いのか、それとも、洋平はもともと頭が良かったのか。たぶん、その両方だろう。


 皿を洗い流す水音。水道を止めると、洋平がペンを紙に走らせる音。静かで、穏やかな時間。


 心が満たされる。そんな毎日だった。


 洋平とは、暴力団に拉致される前日以降、セックスをしていない。それでも彼は、変わらぬ態度で美咲に接してくれる。


 同世代の恋人同士で、セックスをさせなかったら彼氏が冷たくなった、という話を聞いたことがある。

 

 そんな男と洋平は、明らかに違っていた。彼は、たとえセックスをしなくても、美咲を大切にしてくれる。守ってくれる。


 洋平の優しさが、美咲の心を満たす要因のひとつ。


 変わらぬ毎日の、一秒一秒の時間。その全てが、幸せだった。今の全ての時間を、宝物と言えた。


 洋平がペンを置き、タイマーを止めた。その時間を見て、彼は「よしっ」と小さく呟いた。きっと、今までよりも早く問題集が解けたのだろう。活き活きとしている彼を、美咲は、可愛いと思ってしまった。


「ただいまー」


 玄関先から声が聞こえた。秀人の声だ。


 それはまるで、一家の主の帰宅のようだった。


 ううん、まるで、じゃない。実際に、そうなんだ。


 美咲は、今の家庭のそれぞれの役割を思い浮かべた。秀人が父親。洋平は、お兄ちゃん。私は、秀人の娘で洋平の妹。


 偽りの家族。


 でも、家に複数の女を連れ込み、美咲を構いもしなかった父親なんかよりも、秀人ははるかに父親の役割をしてくれる。母親はいないけど、そんなものは、もとの家にもいなかった。いたのは、美咲が幼い頃に男と出て行った、顔も覚えていない女。


 秀人がリビングに入ってきた。父親と言うには綺麗過ぎる容貌。


「おかえり」


 洗剤につけていたフライパンを洗いながら、美咲は秀人に声をかけた。ちらりと見ると、彼は、取っ手のついた箱を持っていた。可愛い花柄の模様がついた箱。


 洋平が秀人に近付いて、問題集をさらに早く解けるようになったと伝えていた。誇らしげに。


 秀人は優しい笑顔を見せて、自分より背の高い洋平の頭を撫でた。そっか。お前、どんどん賢くなるね。そう言って。


「美咲、洗い物の途中で悪いけど、ちょっと来てくれる?」

「何ー?」


 言われて美咲は、油汚れを落としたフライパンを軽く水で流し、手を拭いて彼等のもとに行った。


 秀人は、持っていた花柄の箱をテーブルの上に置いていた。


 箱は、その横に開け口が付いていた。秀人が開けて、中身を取り出す。


 出てきたのは、ケーキだった。大きな、真っ白な生クリームとたくさんの苺が乗ったホールケーキ。


 出てきたケーキを見て、洋平は目を丸くしていた。


「これ、ケーキ?」

「そうだよ」

「初めて実物見た」


 そうか。美咲は、洋平の家庭環境を思い浮かべた。彼は、親にケーキを買って貰ったことなどないのだ。子供の命を奪うような親が、ケーキを買ってくれるはずがない。


 洋平とは環境が違うが、美咲も、親にケーキを買ってもらったことなどなかった。美咲に一切興味を持たなかった父親は、金をくれても、何かを買ってくれたことはない。


 もっとも、美咲は、金を稼ぐようになってからは、自分で買えた。だからもちろん、ケーキを見たのは初めてではない。ホールのケーキを目の前で見たのは、初めてだったが。


「どうしたの? 突然ケーキなんか買ってきて。甘い物でも食べたかったの?」


 美咲が聞くと、今度は秀人が目を丸くした。


「あれ? 今日、美咲の誕生日じゃなかったっけ? もしかして、俺の記憶違いだった?」


 反対に聞かれて、最後に美咲が目を丸くしてしまった。そうだ、とようやく思い出した。今日は私の誕生日だ。十六歳になったんだ。


 一般的な家庭にある、当たり前の風習。家族の誕生日にはみんなでケーキを囲んで、祝う。そんなことは無縁だったから、考えもしなかった。自分の誕生日を祝ってくれる人がいるなんて。


 美咲の胸の奥から、温かい感情が湧き上がってきた。ジワリと体が熱くなる。嘘みたいだ。信じられない。だから、考えるより先に聞いてしまった。


「今日は私の誕生日で……だから買ってきてくれたの?」

「まあ、盗んだわけじゃないよ。そんなに貧乏じゃないし」


 秀人の表情が優しい。美しい母親のような父親。


 目尻が重い。気の強そうな目の上で、眉がハの字になっているのが分かる。涙が出そうだ。


 嬉し泣きをしてしまうのが恥ずかしくて、美咲は目を閉じながら笑った。涙が出ないように。


「こんなに大きいの、食べられないよ。六号でしょ、これ。大き過ぎ」

「大丈夫だよ。俺も洋平も食べるからね。間違いなく、美咲よりたくさん」

「秀人、外でご飯食べてきたんでしょ? 食べれるの?」

「甘いものは別腹」

「どこの女子?」


 まあ、顔はその辺の女の子より美人だけど。そんなことを思いながら、美咲はまた笑った。ようやく、涙が引っ込んでくれた。


 少しだけ水気を含んだ目で、美咲は洋平を見てみた。


 洋平は、なんだか複雑そうな顔をしていた。どこか切なそうな、少し困っている子供のような顔で、美咲を見ていた。


「どうしたの? 洋平」

「あ、いや」


 やはり困ったように頭を掻いて、洋平は美咲から目を逸らした。明後日の方向を見て少し考え込むと、また美咲に視線を戻してきた。


「あの、ごめんな。俺は、誕生日に何をするのか、よく分からなくて。ただ、めでたいんだよな?」

「うん、実は私も、誕生日に何をするのか、よく分からない。今までお祝いしてもらったこともないし」


 俺も、と口の中で呟いた後、洋平は、拙く言葉を繋げた。


「えっと……おめでとう。あと、ごめんな。来年は、俺も何かするから」


 困っているような、戸惑っているような。そんな顔をする洋平を、やっぱり可愛い、と思ってしまう。頭の回転が速くなっても、どんなに賢くなっても、洋平は洋平だ。無学で、無教養で、常識知らずで、だからこそ純粋で。


 どこまでも無垢な気持ちで、美咲を見てくれる。守ってくれる。大切にしてくれる。


「ありがとう。期待してる」

「ああ。頑張る」

「うん。じゃあ、私も、洋平の誕生日にはお祝いするね」


 ようやく、洋平は笑顔を見せた。


「ああ。俺も期待してる」

「うん。期待してて」


 笑い合う美咲達の横で、秀人が皿とナイフを持ってきた。


「じゃあ、食べようか。今日は美咲が主役だから、給仕は俺がするよ」


 秀人が、ケーキの箱に入っていたロウソクを立てた。火を付ける。


 秀人に促されて、美咲はロウソクの火を吹き消した。


「おめでとう」

「えっと、おめでとう」

「ありがとう」


 顔がほころぶ。どうしても、口角が上がってしまうのを堪え切れない。


 嬉しい。どうしようもないくらい、嬉しい。


 秀人がケーキを切り分けてくれた。まるで機械で切ったように見事な切り口だった。


 三人だけど、皿は四つ。秀人と、美咲と、洋平と、洋平の弟の分。


 洋平は、初めて見るケーキを前にしても、弟に手を合わせるのは欠かさなかった。


 美咲は、切り分けられたケーキをフォークで取って、口に運んだ。


 フワフワのスポンジが口の中で溶けて、生クリームの味と交わる。苺の果汁と酸味が、甘みにアクセントを加える。甘さと酸味が口の中いっぱいに広がって、目尻が緩んでしまう。美味しい。

 

 こんなにケーキが美味しいと思ったのは、生まれて初めてだった。今までは、ただなんとなく甘い物が食べたくて、買っていた。金には困っていなかった。家に持ち帰って食べたケーキは、油と砂糖の甘み、苺の酸味。そんな味の固まりに過ぎなかった。


 でも、このケーキは違う。自分の誕生日を祝ってくれる人がいて、みんなで食べる。おめでとう。ありがとう。そう伝え合った口で食べる。きっと、味を感じるのは、舌だけじゃない。心も味を感じるんだ。


 少しずつケーキを口にしながら、美咲は洋平を見た。


 彼は、初めて食べるケーキの味に驚いているようだった。目を大きく開けて、口いっぱいにケーキを頬張りながら固まっている。咀嚼して飲み込むと、同意を求めるように美咲と秀人を交互に見た。


「何これ。凄え旨い」

「うん。美味しいよね」


 笑顔が消えない。楽しい。嬉しい。幸せ。ただ温かいだけの感情が、とどまることなく美咲の心で溢れていた。


 ケーキは、あっという間になくなった。秀人は、その体格からは考えられないほど大食漢だ。洋平も、訓練で体ができあがってきて、ますます食欲が増している。


 美咲は、最初に皿に乗せられたケーキで満腹になってしまった。


 秀人が、食後の紅茶を入れてくれた。ケーキの甘さで満ちた口の中が、渋みのある紅茶の味で流されてゆく。ケーキの味に名残惜しさを残しつつも、それを流す紅茶の味も、心地よかった。


 当たり前の、どこにでもある幸せな家庭のような光景。温かい家族のような雰囲気。


 けれど、ここにいる三人は、普通の家族ではない。


 そんな事実を突きつけるように、秀人が話し始めた。


「さて、と」


 秀人は、紅茶が入っていたティーカップをテーブルに置いた。洋平と美咲を交互に見る。


「せっかくの美咲の誕生日なのに悪いけど、ここからは、ちょっと真剣な話をするね」


 綺麗な、秀人の目元。綺麗だけど、鋭い。洋平と美咲を捕える、彼の視線。


 一瞬で、雰囲気が変わった。遊園地から戦場に瞬間移動したかのように。それくらいの影響力が、秀人の視線にはあった。


 漂う緊張感は、まるで針のようだった。全身をチクチクと刺している。


「洋平。お前の、初めての実戦の話だよ」


 ゴクリ、と音を立てて洋平は紅茶を飲み込んだ。

 

 初めての実戦。つまり、洋平のこれまでの訓練を活かす場に出るのだ。




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