閑話 ウチの猫が初めて会う人に懐くなんて、珍しい




 私はソファーの上でテレビを見ながら、夕食後のひとときを過ごしております。


 今日は八月八日。もうすっかり夏です。


 北海道の夏は他の地域に比べて涼しい、なんて言いいます。でも、暑いものは暑いんですよ。この老体には、ちょっと厳しいです。


 女手ひとつで育てた息子は何年も前に家を出て行って、今ではひとり暮らし。


 息子はね、弁護士なんですよ。


 ふふ。


 親の贔屓目ひいきめを抜きにしても、こんな私からあんなできた息子が産まれたなんて、今でも信じられません。


 真面目でいい息子です。仕事に没頭しすぎて、三十五になった今でも独身なのは、多少心配ではありますけど。


 息子が立派になってくれたのは、確かに嬉しいです。ただ、自分の手から離れてしまったときは、やはり寂しかったものです。


 もう一回、子供の面倒を見る生活をしたい。

 当時は大変で大変で、早く大人になって、なんて思っていたんですけどね。


 今となっては、昔のように、中高生の頃の息子と一緒に暮らしたいなんて思ってしまうんです。


 あ、でも、家族はいますけどね。


 黒猫が二匹。


 この子達は夏の暑い時期にも関わらず、私にくっついてくるんです。甘えん坊ですね。


 一匹は、ユキといいます。雌で、今年で九歳。猫としては、もう中年でしょうか。私には懐いているんですけど、他の人には一切懐きません。今日、定期的な検診で動物病院に連れて行ったのですが、先生にも噛み付いてしまって。


 本当にもう、私は先生に平謝りでしたよ。


 もしかしたら大丈夫かな、なんて思ったんですけどね。でも、やっぱり、特別な人にしか懐かないみたいです。


 もう一匹はコハルといいます。この子も雌で、今年で六歳になります。この子も、猫としては中年ですね。ユキとは違って人懐っこくて、とにかく甘えるのが好きな子です。


 ああ、こら、コハル、そんなにくっつかないで。暑いんだから。熱中症になっちゃう。


 私はもう、今年で七十になります。おばあちゃんですね。あとどれくらい、この子達と一緒にいられるか。できれば、この子達を見届けてからあの世に行きたいものですけど。


 今でこそ、現役で働いていたときの貯金と年金で生活していますが、昔は、馬車馬のように働いていました。息子を、どんなことがあっても一人前に育てる。それが、息子を産んでからの、私の生きる目的でした。


 昔はね、今みたいに働く人に気を遣ってくれる職場なんて、なかったんです。労働基準法なんて、あってないようなもの。


 私は看護師をしていましたけど、三日連続で夜勤をしたこともありました。それから一日だけ休んで、さらに夜勤を三日連続なんてことも。一回の夜勤の拘束時間が十八時間で、休憩時間が二時間だけでしたから、労働時間は十六時間。それを週六回もしたら、その一週間だけで九十六時間も働くことになるんです。


 こういうの、今ではブラック企業っていうのかしらね?


 それでも私は、息子を育てるのに必死でしたから、働き続けました。


 そんな無理な生き方をしていたから、きっと、私はそんなに長く生きられない。いつお迎えが来てもおかしくない。


 私に何かあっても、ユキとコハルは、息子が責任を持って面倒を見てくれると思いますよ。私の息子だけあって、あの子は猫好きですから。


 でも、心配ですね。特にユキのことが。この子、息子にすら懐かないんです。お盆やお正月に息子が帰って来たときも、シャーシャー鳴いて威嚇するんですよ。


 あ、でも。


 今日の昼間に、びっくりすることがあったんです。ユキを、検診のために病院に連れて行ったときのことです。


 今日は晴天で、外はひどく暑かったんですよ。


 それでも、病院まではほんの十分ほどの道のりですし、私は、歩いて病院に向かったんです。ユキをペット用の小屋に入れて、自分の手で持って。


 でも、すぐに、自分の考えが甘かったことに気付きました。去年の検診のときはこれで行けたんですけど、今年は違いました。たった一年で、こんなにも体力が衰えるものなんですね。運動不足が祟ったのでしょうか。


 私は暑さと重さで汗をいっぱいかいて、喉はカラカラで息も苦しくて。


 途中の道のりで、ユキを入れた小屋を置いて、その場に座り込んでしまったんです。


 その通りは小道で、今からタクシーに乗りたくても、通ることはまずありません。


 ユキを持って、大きな通りに行く体力もありません。


 かといって、ユキをそこに置いて行けるはずもありません。


 どうしたものかと困っていると、声を掛けてくれた人がいたんです。


「どうしたの、おばあちゃん」


 その声を聞いて、私はビックリしました。


 いえいえ、声自体は普通なんですよ。ちょっと低めの、でも耳に心地いい声。明らかに、男の人の声。


 驚いたのは、その人の見た目。どう見ても女の人にしか見えないんですもの。それも、もの凄い美人。私の若い頃よりも美人でした。肩からかけた鞄が、その人が身に付けているだけで、とびっきり可愛く見えたくらいです。


 私はつい、その人をじっと見てしまいました。夏ですから、薄着です。体つきは、どう見ても男の人でした。おっぱいもなかったんですもの。それに、半袖から出た腕は、細いながらもしっかりと筋肉がついていたんです。


 つまり、びっくりするほどの美男子だったんですよ。


 あ、今風に言えば、イケメンって言うのかしらね。


 私は面食いですけど、息子を妊娠中に亡くなってしまった旦那よりもイケメンでした。


 髪の毛は男の人にしては長くて、編み込んでいました。これも、今風の流行なんでしょうか。こんなお婆ちゃんには分かりませんけど。


 私は、その綺麗な男の人に事情を話しました。できれば、タクシーを呼んでもらいたくて。


「元看護師なのに自分の管理もできないなんて、恥ずかしいわね」なんてボヤきながら。


 するとその綺麗な人は、自分の鞄からペットボトルのお水を出して、私にくれたんです。


「もうぬるいかも知れないけど、飲んで。熱中症になるかも知れないから」


 私がお礼を言いながらお水を受け取ると、彼は、ユキの入っている小屋を持ちました。


「確か、動物病院って、ここから近いよね? 俺がこの子を持つから、一緒に行こう。歩ける?」


 私の目には、優しく笑う彼が、童話に出てくる主人公のように見えました。こんなにも綺麗で、優しい。きっと、童話のように、お姫様みたいな女の人が似合うんだろうな。そんなことさえ考えてしまったくらいです。


 遠慮する余裕もなかった私は、彼の好意に素直に甘えました。


 綺麗な──どう見ても美女にしか見えない男の人と、動物病院に向かいました。


 歩きながらユキの小屋を持つ彼の手を見ると、傷だらけでした。


 私は元看護師ですから、その傷が、負った直後はどれくらい深手だったのかも概ね分かります。きっと、何針か縫う怪我だったはずです。そんな傷が、たくさん。


 そんな、顔からは想像もつかない手を見て、つい下世話なことを考えてしまいました。この美男はどんな生き方をしているのだろう、と。親切にしてくれる人に対して、本当に失礼ですよね。


 考えながら歩いていると、すぐに病院に着いてしまいました。


 私は頭を下げ、ユキを受け取り、何かお礼をしたいと言いました。


 でも彼は「ただ歩いて来ただけだから」と言い、丁寧に、優しく断りました。


 すると小屋の中のユキが、鳴いたんです。その綺麗な男の人に向かって、甘えるように。


 私は驚きました。だって、ユキが初対面の人にこんな声で鳴くなんて、今までなかったんですもの。ウチの息子でさえ、威嚇されるのに。


 彼は何か思い立ったように「そうだ」と言いました。


「じゃあ、その子、撫でさせてくれない? 俺、猫好きなんだ」


 私は少し躊躇いました。だって、ユキは、とにかく人に懐かない子なんですもの。今まで人に噛み付いたことも、数え切れないほど。


 ウチの息子だって、何回か噛み付かれて、ユキに触るのを諦めたくらいなんですから。


 そのことを私は伝えましたが、彼は平然と言いました。


「大丈夫。俺の手、傷だらけだから。今さら怪我が一つ二つ増えても、全然問題ないよ」


 こう言われては無下に断れません。私はユキの小屋の入り口を少しだけ開け、彼の方に差し出しました。

 

 彼がユキに向かって手を伸ばします。


 すると、驚くことが起こりました。


 ユキが。あのユキが。彼の手に頬を擦り寄せて甘えたんです。彼がユキの頭を撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らしたんです。


 ──今日の昼間の出来事は、ここ数年で一番私を驚かせました。


 本当に、あの綺麗な男の人はどんな人なんでしょうね。


 昼間の出来事を頭に浮かべながら、私は、床で寝っ転がっているユキに声を掛けました。


「あんた、どうしてあの人にはあんなに懐いてたの?」


 ユキは面倒そうに私の方を見ると、大きなあくびをしました。


「あんたも女の子だから、やっぱり、イケメンには弱いの?」


 まあ、あれくらいいい男になら、私だって優しくするわよ──そんなことでも言うかのように、ユキはニャーと鳴きました。



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