第二十一話 ここに来て、教わって、初めて知った
洋平が秀人の家に住み着いてから、一ヶ月ほど経った。
六月初旬。すっかり暖かくなり、過ごしやすくなった季節。真夏の猛暑とも真冬の極寒とも違う、心地よい気温。湿気の高さは気になるが、不快というほどではない。北海道には、本州以南のような猛烈な湿気と梅雨に悩まされる季節はない。
時刻は、午後二時。
洋平は、秀人の家の地下室で訓練を積んでいた。彼に与えられた課題をクリアするため、淡々と、熱心に体を動かしている。
あの日──洋平と美咲が初めて秀人の家に来た日。
一通りの話を終えた後、秀人は、洋平の頭に手を置いた。洋平に超能力の資質があるかを調べる、と言って。そうしながら、超能力について簡単に説明してくれた。
「超能力の存在が科学的に証明されたのは、今からだいたい四十年くらい前だね。証明したのは、その筋では世界的に有名な脳科学者なんだ」
人間の脳は右脳と左脳に分かれており、その二つを脳梁という器官が繋いでいる。それが一般的な脳の構造だ。
「超能力の資質を持つ人間の脳には、脳梁の他にもう一つ、右脳と左脳を繋ぐ器官があるんだよ」
超能力の存在を証明した脳科学者は、それをブレーンコネクトと名付けた。概ね、〇・三ミリから一・三ミリ程度の太さの、糸のような器官。
超能力の資質があるかどうか──ブレーンコネクトがあるか否かは、通常、MRIなどで脳の検査をして確認する。しかし秀人は、対象者の頭部に触れることにより、超能力の資質があるかどうかが分かるという。
洋平は、自分が使っているレーダーを超能力だと思っていた。自分の資質に期待していた。超能力が使えたら、守りたいものを守れる。それくらい、強くなれる。
それは、洋平とって、たったひとつの希望だった。弟を守れなかった後悔を抱え続ける、洋平にとって。
だが、秀人の回答は、洋平の期待を裏切るものだった。
「はっきり言うね。お前に、超能力の資質はないよ」
明確に断言された言葉。どうしても欲しかったものに、絶対に手が届かないという告知。
言われた瞬間、洋平の視界は真っ暗になった。まさか、と思った。
一人暮らしをしている大学生の家に強制的に入り浸っていたとき、警察に通報されたことがある。そのときは、この力を使って警察の動きを察知し、逃げ延びた。
美咲を最初に助けたときだって、この力を使った。そのお陰で、彼女を守り切ることができた。
何も持たずに生まれ、何も与えられなかった自分に、唯一与えられた力。
唯一、自分が恵まれたと思える資質。
けれどそれは、自分の期待とは違っていた。望んでいた能力ではなかった。
「たぶん、お前が周囲の動きを察知できたのは、動物的な勘だろうね。月並みな言い方だけど。超能力じゃないよ」
ただの勘なんかで、ここまで明確に周囲の動きを察知できるのだろうか。ここまではっきりと、気配を探ることができるのだろうか。
当たり前の疑問が浮かぶ。けれど、自在に超能力を使う秀人が言うのだから、間違いないのだろう。
洋平は肩を落とし、俯いた。あまりの落胆に、沼の底にでも沈んでゆくような感覚に囚われた。
この世界は、自分に何も与えてくれない。奪ってゆくだけだ。どんなに必死に守ろうとしても、それに必要な力すら与えてくれない。
底なし沼に足から浸かり、どんどん沈んでゆくような感覚。絶望とも言える沼に、深く深く沈んでゆく。
そこから引き上げてくれたのは、秀人だった。
「落ち込まないでよ。大丈夫だから。超能力がなくても、どうにでもなるから。言ったよね? 訓練をしてもらうって」
洋平は、伏せていた顔を上げた。秀人が、力強く笑いかけてくれていた。
「力が欲しいなら、身につく訓練方法を教えるよ。何かを守りたいなら、その方法を教える。超能力だけが力じゃないんだから。そんな絶対的なものじゃない」
本当だろうか。正直なところ、洋平は半信半疑だった。超能力は大きな力だと思う。秀人の圧倒的な強さを見た後だから、余計にそう感じる。
それでも、半信半疑でも、秀人を信じたかった。自分より遙かに過酷な人生を歩んできた彼を。過酷な人生を歩みながら、こうして手を差し伸べてくれている彼を。
意識するより前に、洋平は頭を下げていた。希望を失って、それでも期待に縋るように。
「お願いします」
教えを請う声は、涙声だったかも知れない。
そして今。
洋平は、秀人に課された訓練に明け暮れている。理論的に組み立てられ、目的を明確にした、計算され尽くした訓練。
洋平に対して秀人が最初に行った訓練は、体を動かすことではなく、どんな目的で何の訓練をするかの講義だった。
守りたいものを守れる力が欲しい。秀人が「そのために必要」と言ったのは、運転技術、運動技術、銃撃技術、一般教養の四つだった。戦闘技術は、運動技術に含まれるらしい。
「戦闘において、超能力は確かに利用価値が高いよ。だけど、超能力が全てじゃないんだ」
秀人の講義は、こんな前置きから始まった。
「超能力と言っても、所詮は生身の人間が生み出す力だからね。人間の限界を超える力を引き出すことはできないんだ。その上限は、せいぜい人を殺せる程度のもので、人を殺せる力から自分を守れる程度のものだよ。漫画みたいにビルを破壊したり、規模の大きな爆発を起こすことなんて不可能なんだ」
研究機関が発表した超能力の限界値は、現時点で判明している限り、このようなものだという。
超能力による射撃の最大飛距離は二六五五センチメートル。一立方センチメートルあたりの最大重量は一二二二キログラム。瞬間最大速度は秒速三三四メートル。
「まあ、一般的な銃弾程度だね。警察が使う口径が小さい銃よりは、多少強いかな。もちろん、生身で使える力だから、銃や防弾チョッキで武装するよりも遙かに汎用性は高いけど」
だが、言ってしまえばその程度だという。
「つまり、訓練と装備次第では、超能力が使えなくても超能力者を相手に戦えるんだ。警官や自衛隊員の超能力は、射撃と防御という長距離戦闘に特化されたものだから『生身のままで銃撃戦ができる』程度に過ぎないんだよ。お前がそれを翻弄できるくらいの訓練を積んでいれば、状況によっては容易に退けることが可能なはずだよ」
加えて、超能力は脳が発動元になっているため、意識が届きにくいところの防御はどうしても甘くなる傾向があるという。足下などは、その典型らしい。
秀人は、近接戦闘における超能力の欠点も教えてくれた。
「超能力は打撃から身を守ることはできても、関節技から身を守ることはできないんだ。全身を超能力の防御膜──プロテクトで覆っていても、体を動かせる以上、関節は可動しているわけだからね」
つまり、関節を逆方向に曲げる力には対抗できないということだ。
さらに、超能力を使うには大量のエネルギーが必要となる。だから超能力者は、例外なく力士並の大食漢だという。そのため、銃で攻撃し、銃撃を防がせて超能力者のエネルギーを枯渇させれば、単純な生身の戦闘に持ち込むことも可能だ。
「って言っても、戦うだけが全てじゃないよ」
運転技術を身に付けておけば、たとえ戦闘で不利に立たされても逃走することができる。守ることイコール戦いに勝つことではない。美咲と初めて出会ったとき、彼女を連れて逃げ切ったように。
「だけど、超能力が有用な力であることも事実だからね。手が届かない距離で攻撃できること。防弾チョッキよりも高い防御力があること。生身で戦えば、間違いなく不利を強いられるよ。それは否定できないよね」
秀人の講義は実に理論的で分かり易く、しかも、気休めは言わない。だからこそ信頼できた。
「不利な状況で戦ったり逃げたりするには、運動能力や射撃能力、逃走のための運転技術だけじゃ足りない。咄嗟の判断能力や発想力が必要になると思う。だから、一般教養を勉強してもらうんだ」
洋平は勉強が嫌いで、かつ、苦手だった。つい、不安そうな顔を見せてしまった。
そんな洋平を見て、秀人は笑っていた。
「別に、政治経済を学べとか、難しい数式を覚えろなんて言わないから。とにかく、普段から頭を使って。状況によってはハッタリで活路を開けることもあるから、頭の回転力は重要なんだ。そのための一般教養だよ」
行うことの目的が明らかにされた後に、すぐに訓練は開始された。
運動技術の訓練は、基本的な筋力トレーニングと、様々な道具を使って行う運動で構成されていた。
筋力トレーニングに、重量物は使わない。
「生身の体で、超能力以上の破壊力やスピードを出すのはまず無理だ。だから、パワーやスピードを強化するために、必要以上に筋肉を付ける必要はないよ。自分の体を自在に動かせるだけの筋力があればいいから」
筋力強化のために行うのは、腕立て伏せ、腹筋、スクワット。洋平ですら知っている簡単な筋力トレーニングだった。
強化した筋肉の応用力を磨くため、連続での垂直跳び、反復横跳び、綱上りなどを行う。
「運動技術の訓練は、その名の通り、運動をするための技術を磨くためにしてもらう。もっと具体的に言うと、平面運動を自在にできるようにする訓練とか、障害物を活かした立体運動を行う訓練をやってもらうよ」
縄梯子のようなものを使って行うラダートレーニング。台を連続で飛び越えるハードル競技のようなトレーニング。地下室の柱を道具を使わずに昇ったり、三角跳びを行うトレーニング。
それらを行う目的は、地面の上で自在に動けるようにするためや、障害物を使って自在に高所に登り、または高所から降りるためだという。
もちろん、格闘訓練もあった。殴る蹴るはもちろん、可能な限り筋力を使わずに相手の関節を極める訓練、相手の動きに対して素早く反応する訓練も行った。
秀人は超能力だけではなく、運動能力も格闘能力も高かった。小柄だから、腕力や生身での打撃力は低い。しかし、少ない力を活かすための技術は素晴らしかった。
洋平は秀人よりも大柄だが、それでも、彼にはまるで歯が立たなかった。
一般教養では、小学校の算数や国語の問題集を可能な限り短時間で解くように指示された。頭の回転力を上げるためだという。小説やエッセイを読み、その概要を端的にまとめるという訓練もあった。とっさに言葉を思い浮かべ、素早く発想が出るようにし、ハッタリすら言えるようにするためだそうだ。
洋平は当初、一般教養が一番苦手で嫌いだった。今までの人生で、勉強らしい勉強などしたことがなかった。
訓練を開始してから一週間後くらいだろうか。自分でも驚くほどの早さで算数の問題集を解くことができた。
そのときに、秀人は手放しで褒めてくれた。普通の家庭で、テストで良い点を取った子供を褒める、親のように。彼にしては珍しく口を横に広げて笑い、頭を撫でてくれた。凄いな、頑張ったね、と。
もし、生まれ育ったのが普通の家庭だったなら。
もし、父親も母親もまともな人間だったなら。
こんなふうに褒めて、頭を撫でてくれたのかも知れない。
自分でも単純だと思うが、それ以来、洋平は勉強が好きになった。秀人の家にある本を読み漁るようになった。難しい内容の本さえも。
銃撃訓練や車の運転は、最初から楽しかった。銃弾が狙ったところに当たると無条件で嬉しかった。車で、自分の足では考えられないような速度で移動できるのは快感だった。
問題なく公道で運転できるように、秀人は、洋平や美咲に偽造した運転免許証をくれた。美咲に運転の仕方を教える予定はないが、ついでに彼女の分も造ったらしい。免許証に記載された二人の年齢は、十九歳と十八歳だった。
洋平は、毎日、熱心過ぎるほどに訓練に打ち込んだ。辛いと思ったのは、最初の頃の一般教養くらいだった。楽しくて、充実していた。
人生において、自分の能力が上がっていくという実感を得たことがなかった。今まで、ただ生きてきただけだった。
そんな洋平だから、今は毎日が楽しかった。
できなかったことができるようになった時の、充実感。達成感。
褒められたときの喜び。自分の頭を撫でる、秀人の温かい手。
もっと頑張りたい。
明日には、今日より優れた自分になれる。
優れた自分になれば、もっと褒めてもらえる。
自分が、毎日成長しているのが分かる。
洋平は生まれて初めて、生きることが楽しいと思っていた。
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