第二十話 帰りたくなくて、一緒にいたくて、嘘をついて



 自分の目の前で、秀人が手を差し出してきている。


 洋平は、その手をじっと見つめた。


 秀人は言っていた。洋平や美咲に対して、近しい感覚を覚えたと。


 けれど、秀人の人生は、洋平や美咲よりも遙かに凄まじい。


 洋平は、警察に見捨てられただけだ。

 美咲は、愛情を受けることはできなかったが、何も奪われていない。


 秀人は奪われたのだ。殺されたのだ。自分の家族を、警察や裁判所といった国の機関に。


 きっと、秀人の心の中には、憎しみが渦巻いているのだろう。父親に無実の罪を着せ、自殺に追いやった警察や裁判所。母親を自殺に追いやった世間。子供の頃の秀人を虐待した、周囲の大人や子供。ありとあらゆる人に対して、憎しみを抱いているのだ。


 だから秀人は、非情になれる。暴力団事務所で見せたように。相手が自分より力のない人間だろうと、一切関係なく。子供をあやすような口調で話しながら、虫けらのように人を潰せる。


 そんな秀人の思想や行動は、洋平とは異なるものだ。


 洋平は、弱い者を守りたい。弱い者を虐げ悦んでいた、自分の父親のような人間にはなりたくない。


 では、秀人の行動は父親と同じなのか? 弟を殺した、あのクズのような父親と。


 それもまた違う。そう断言できた。秀人の冷たさや非情さには理由がある。理由なく洋平や弟を虐待していた父親とは、まるで違う。


 洋平の前に差し伸べられた、秀人の手。この手を取れば、洋平は彼と同じ道を歩むことになるだろう。復讐への道。それは、国家転覆だの、この国を変えるだのといった、大きな理想があるものではない。言ってしまえば、ただの破壊だ。警察から奪った銃で暴れ、世間を揺るがし、国に対する信用を失墜させる。


 それで世の中の仕組みが変わることはないだろう。この国の治安や情勢に変化はあっても、国のあり方そのものが変わるわけではない。


 何も生み出すことのない行為。意味のない行為。けれど、そんな目的を持たなければ、秀人は生きていられなかったのだ。怒りや憎しみが、強すぎて。


 洋平に差し伸べられた秀人の手は、その顔に似合わず傷だらけだった。


 彼は言っていた。独自に超能力の訓練を十二、三年ほども積んだと。


 秀人の手は、その訓練がいかに苛烈だったかを物語っていた。そんな苛烈な訓練を自分に課せるほど、彼が心に抱えた気持ちは大きい。


 そんな秀人が、自分に手を差し伸べてくれた。それに対してどう応えるべきか。洋平の中では、もう答えは出ていた。自分も、全てを失った人間だから。


 隣にいる美咲を見た。彼女は、どこか不安そうに顔を歪めていた。洋平を見つめている。大きな目を若干細め、悲しんでいるようにも見えた。


 美咲は、もう秀人のことを警戒してはいないはずだ。庇い合うように洋平とくっついていた体は、すでに離れている。それなのに、どうしてこんな顔をしているのか。その理由は、洋平には分からなかった。


 分からないまま美咲から視線を外し、秀人の手を取ろうとした。


「ひとつ、聞いていい?」


 洋平の動きを止めるように、美咲が口を開いた。見ると、彼女はじっと秀人を見ていた。


「秀人……さんのことで、ひとつ気になることがあるんだけど」

「秀人でいいよ。で、何?」


 秀人の声は穏やかだ。今は、その表情も。冷たさや非情さなど、微塵も感じない。


「じゃあ、秀人。あんたは──」


 美咲は、言葉を一度区切った。口にすべき言葉を選んでいる。そんな様子だった。じっと秀人を見ながら、言葉を繋ぐ。


「──その……えっと……さっきの話だと、お父さんが亡くなって施設を出たのが十一歳のときなんだよね?」

「あ、違うんだ。そういえば、時系列をはっきり話してなかったね。俺が十一歳になる前に真犯人が捕まって、それから親父の再審請求が行われたんだ。実際に無実だと判決が下って親父が出所したのは──親父が死んだのは、俺が十二歳になったばかりのときだね」

「それから、一人で生きて超能力の訓練を長いこと積んで、ヤクザと関わり始めたんだよね?」

「うん、そう」


 美咲の表情が強張っているように見えた。彼女が秀人に何を確かめようとしているのか、洋平には分からない。ただ、その強張った表情は、これから起こることに対して、どうにか足掻こうとしているように見えた。


「あの……計算すればすぐに分かることなんだけど──」

「何?」

「──正直に答えて」

「分かった。嘘はつかないよ」


 じっと、美咲は秀人を見つめた。彼を、隅から隅まで観察するような目付きだった。


 秀人を見る美咲の、大きな黒目が動く。ややブラウンの黒目。秀人の頭から全身をなぞるように見て、再び彼の顔に視線が戻った。


「あんた──」


 美咲は、小さく息をついた。まるで、時間を稼ぐように。


「──本当は、いくつなの?」

「は?」

 

 間の抜けた声を漏らしたのは、洋平だった。つい、声が出てしまった。


「お前、それ、そんなに重要なことか?」

「だって、どう見ても三十過ぎのオッサンには見えないし!」


 洋平の言葉に、美咲は声を張って言い返してきた。ただ、その表情には、吐き出した言葉に似合わない焦りのようなものが感じられた。


「どう見たって二十代前半にしか見えないんだもん! 何よその顔! シワがほとんどないじゃない! 髭の剃り跡だってないし! 絶対にサバ読んでるでしょ!?」

「歳なんて偽ってどうするのさ? 今三十二で、今年の末に三十三になるんだけど」

「絶対嘘! ありえない! それが本当なら、整形でもしたの!?」

「いや、してないよ」

「じゃあ、ボトックス注射とか?」

「まさか」

「髭はどうしてるの?」

「あまり生えない。もしかしたら、髭が禿げたのかもね」

「髪の毛は? カツラ?」

「地毛だよ」

「髪の毛を後頭部から引っ張って、顔のシワ伸ばし」

「してないし」

「厚化粧」

「スッピンだけど」

「……」


 口にする質問が尽きたのか、美咲は額を押さえて黙り込んだ。そのまま、大きく深く溜息をつく。


 そんなに秀人の年齢が意外だったのだろうか。美咲を見ながら洋平がそんなことを思っていると、彼女は額から手を離した。その目は、意を決したようにも見えた。


 美咲の大きく気の強そうな目は、真っ直ぐに秀人を見つめている。


「じゃあ、真面目に聞くよ、秀人」


 その声色も口調も、先ほどまでとはまるで違う。真剣な中に緊張が混じっている。


「うん。言って」

「秀人が──秀人のお父さんやお母さんが受けた仕打ちは、本当にひどいと思う。私は当事者じゃないけど、さっきの手紙を見ただけで、本当に腹が立った。だから、秀人の気持ちを完全に理解することはできないだろうけど、理屈では、どれだけ憎いかが分かるつもりだよ」

「うん」


 秀人は穏やかな顔をしていた。優しい表情。洋平は、自分の母親に話を聞いてもらったことなどない。ただ、一般的な家庭の母親が娘の話を聞くときは、こんな顔を見せるのかも知れない。


「でも、暴動なんか計画して、実際に実行して、何になるの? 秀人みたいに凄い力があるんなら、もっとできることがあるんじゃないの? 何ができるかなんて、今の私なんかじゃ言えないけど」

「いや。言いたいことは分かるよ。お前が俺に何を伝えたいのかもね」


 秀人は、美咲の前でしゃがみ込んだ。優しい目。優しい笑み。今の彼は、本当に美咲の母親のようだった。娘の言葉を受け止め、受け入れる。


「ただ、俺は、別に警察機関の歪みを改善したいわけじゃないんだ。この国のあり方を変えたいわけでもないし。そんなことをしても、それこそ、俺にとっては何にもならないしね。子供の頃に時間を戻せるわけじゃないから」


 秀人が失ったものは、決して戻らない。両親も、失った時間も。


「普通に考えれば、俺は、高尚な考えを持って自分の力を生かして、世の中をいい方向に変えるべく尽力すべきなんだろうね。確かに俺にはそれなりの力があるし、今はそれなりの財力もあるからね」


 それなり、なんて程度じゃない。秀人の持っている力は、洋平が欲し、願い、求めているものだ。彼くらいの力があれば、守りたいもの全てを容易に守れたはずだ。自分の力だけで、弟も、美咲も。


「でも、そんなことをしても俺自身の心は救われないんだ。俺達を批難し、攻撃の的にした世間が幸せになっても、何の満足感も達成感も得られないから」


 秀人はどこか寂しそうな目をしていた。憂いの混じった、綺麗な顔。その目を洋平に向けて「ね?」と同意を求めてきた。


 洋平は頷く他なかった。自分も、秀人と同じ気持ちだから。世間の人間は誰も自分達を助けてくれず、自分は何よりも大切な弟を失った。そんな世間のために生きる気になど、なれなかった。


 反論の余地がなかったのか、美咲は黙り込んだ。彼女も、秀人の気持ちは理解しているのだろう。


 秀人はしゃがみ込んだまま、再び洋平に手を差し伸べてきた。


「どう? お前は、俺と共に来てくれる? もちろんこれは、強制じゃないよ。もしお前がこの手振り払っても、俺はお前達に危害を加えるつもりはないし、あいつ等にも手出しはさせないよ」


 洋平に迷いはなかった。秀人の手を取る。それは破滅へ向かう道なのかも知れない。だが、これまでだって幸せだったわけじゃない。少なくとも、美咲と一緒に暮らし始める二週前までは。


 秀人の手を握ったまま、洋平は美咲を見た。たった二週間だが、平穏な生活と温かい食事、弟への優しさを与えてくれた彼女。安らぎを与えてくれた彼女。


 美咲も、じっと洋平を見ていた。どこか悲しそうな目で。失いたくないものを見るような目で。


 洋平は美咲を見たまま、少しだけ微笑んだ。たった二週間だけとはいえ、安らぎと幸せを与えてくれたことに対する、感謝の笑み。


「ありがとうな、美咲。俺は、お前の飯くらい旨い物を食ったことはなかった。あんなに安心して眠れたのも初めてだった。本当にありがとう」

「洋平」


 美咲の目に宿る悲しみが、強くなった。


 洋平は秀人に視線を戻した。


「これから、よろしく頼む」

「うん」


 握った秀人の手は、思った通り、その顔立ちに似合わずゴツゴツとしていた。固く骨張った手。それは、彼がどれほど苦労して自分を磨き上げてきたのかを物語っている。


 秀人の手の感触から、彼の苦労を想像した。彼の、血の滲むような努力。


 そんな想像をしている洋平の横で、唐突に、美咲が立ち上がった。


 つい、洋平は美咲に視線を戻した。


「私も一緒にいる」


 深く静かな、でも強い口調の美咲の声。


 洋平は目を丸くした。


「どうせもう、家には帰れないかも知れないしね」

「は? どういうことだよ?」


 意外な美咲の発言に、洋平は単純に驚いた。目を丸くしながら、眉を動かしてしまう。


「なんで家に帰れないんだよ?」

「あんた、気付いてなかった? うちには、監視カメラがたくさん付いてるの」

「それは気付いてた」

「うちの父親は、家の周囲を監視してるの。たぶん、私がヤクザに拉致されたことにも気付いていると思う」

 

 自分達が暴力団に拉致された場所は、そんなに美咲の家から近かっただろうか。洋平は記憶を呼び起こそうとした。だが、駄目だった。あのときは必死で、周囲を確認する余裕などなかった。さらに、頭を殴られて失神させられたせいか、記憶が若干曖昧だった。


「ヤクザと揉めて拉致されるような私を、家に入れてくれるとは思えないし」

「あ」


 美咲の父親は、彼女にまるで関心がない。面倒事を避けるためだけに家に住まわせ、金を渡している。そんな父親だから、美咲が暴力団と揉めていると知れば、彼女を追い出しても不思議ではない。


「結局ね、私にも、もう行き場がないの。だから、私も一緒にいる。洋平について行く。あんたが秀人と行動するって言うなら、私も一緒に行動する。まあ、ただの女子高生にできることなんて、そんなにないだろうけど」

「いや、歓迎するよ」


 秀人は、あっさりと美咲の発言を受け入れた。それこそ、優しい母親のように。


「じゃあ、これから二人とも、ここに住んだらいいよ。この家の窓は全て防弾ガラスだし、壁も頑丈に作ってあるから。もし──まずないだろうけど──組の奴等に狙われたとしても、この家の中にいれば問題はないからね」

「どこの要塞なの、この家」


 美咲は若干、呆れているようだった。この地下室に加えて、圧倒的に頑丈な造り。もう呆れるしかないのだろう。


 秀人は楽しそうに笑っていた。


「それで、と。美咲。お前には、この家の家事を頼んでもいいかな? 今まで俺一人だったから、つい手抜きになってたからね」

「うん、任せて」

「で、洋平。お前には、これから訓練を積んでもらいたいんだ。俺が守ってやるとは言ったけど、それでも、ある程度の暴力沙汰には対応できるようにしてほしいからね」


 秀人の要望は当然と言えた。彼と共に行動するということは、彼が関係している暴力団とも関わり合うということなのだから。


 訓練。秀人の言葉を頭の中で復唱すると、洋平は、ずっと願っていたことを口にした。ずっと欲しかった力。


「秀人。俺、超能力を使えるようになりたい」


 自分には、超能力の素質があると思っている。自分の周囲の動きを察知できるレーダーは、超能力なのだと。だが、その応用方法が分からない。洋平は、レーダー以外の方法で、超能力を使えない。


 目の前には、超能力を使いこなせる男。秀人に教われば、自分も超能力を自在に使えるようになれる。洋平の胸中には、そんな希望が生まれていた。


 自分の父親のような男からも、自分達を拉致した暴力団のような男達からも、大切なものを守れるようになりたい。


「俺、上手く言えないけど、集中すると周囲の気配とか動きとかが、はっきり分かるんだ。これって、超能力だよな?」

「……」


 秀人は、黙って洋平を見た。じっと、観察するように。何かを考えているようだ。真剣そのものの顔。


「周囲の気配が分かるって、それ、どれくらいの範囲なの? 五メートルとか、十メートルとか。目安でいいから教えて」

「たぶん──」


 洋平は、昔、学校で視力検査をしたときのことを思い出していた。最後に計ったときの視力は、二・〇だった。その目で認識している、レーダーの概ねの範囲。


「──十五メートルくらいだと思う」


 洋平の回答を聞いた直後、秀人は目を見開いた。驚いた顔。


 秀人の冷たい表情は、暴力団の事務所で見た。寒気を覚えるような冷笑も。そうかと思えば、洋平達と接するときは優しく微笑んでくれた。美咲と話しているときは、穏やかな母親のような顔だった。


 出会ってまだ数時間程度だが、洋平は、初めて秀人のこんな顔を見た。彼がこんな顔を見せたことが、意外だった。


 やがて秀人は、洋平の方に手を伸ばしてきた。


「洋平、動かないでね。少し調べるから」

「調べる?」

「うん」


 ゆっくりと伸ばしてきた手を、秀人は、洋平の頭の上に置いた。




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