第十九話 共感して、心が動いて、誘われて



 秀人の父親の手紙を読み終えた洋平は、手を震わせた。


 手書きの手紙。普通のサインペンで書かれた文字。決して短くない、綴られた文章。


 洋平は、自分が学のない人間だと自覚している。最終学歴は中卒で、通っていた中学校でも成績は下から数えた方が早かった。国語なんて楽しいと思ったことはないし、教科書はほとんど開いたことがない。


 文章の読解力など皆無。作者の気持ちなど考えたこともない。


 それでも分かる。秀人の父親が、どんな気持ちでこの手紙を書いたのか。どれほど悲しく、どれほど辛く、どれほど苦しく、どれほど悔しかったか。


 ただのサインペンで書いたであろう手紙の文字が、洋平には、血文字のようにすら見えた。自分の力のなさに憤り、血を流しながら書き綴った手紙。


 弟を守り切れなかったとき、洋平も同じ気持ちだった。悲しさ、辛さ、苦しさ、悔しさ。自分の胸をナイフで滅多刺しにするような気持ちが、止めどなく溢れるのだ。


 血まみれになりながら、何も信用できず、誰にも頼れず、苦しみながら彷徨さまよう。


 きっと、秀人の父親は、自分の死という選択に最後の望みを託したのだろう。犯罪者という烙印を押されてしまった自分が何をしても無駄だと知っていた。それでもどうにかして、世間の記憶と印象を変えたかった。だから、こんな手段を選んだ。自分の死によって世間の認識を変え、人々の心を動かし、秀人だけでも守りたかったのだろう。助けたかったのだろう。


 自分の最愛の妻を守れなかったのなら、せめて、息子だけでも。たとえ、自分の命を賭してでも。


 胸が、握り潰されるようだった。洋平はつい、右手で自分の心臓に触れた。今の自分の気持ちを物語るように、心拍数が多くなっていた。


 父親の死を知ったとき、その理由を知ったとき、秀人はどんな気持ちになったのだろうか。どれほど打ちのめされたのだろうか。


 その答えを求めて、洋平は秀人を見た。


 秀人は相変わらず、優しげな笑みをこちらに向けていた。その顔には、子供の頃に経験した痛みや苦しみの気配など、微塵もない。


 圧倒的な力を持ち、暴力団すら手込めにし、自由に生きている。それが、この手紙を読む前に洋平が抱いていた、秀人への印象だ。


 けれど、それは間違いだった。


 暴力団の事務所を出たときに、秀人が言った言葉。


『俺は警察が嫌いなんだ』


 当然だ。秀人の両親の死因は自殺。自殺だけど、自殺じゃない。彼等は殺されたのだ。警察という国家機関に。司法はそんな警察に無罪判決を下した、共犯者だ。


 自分の境遇も相まって、洋平は激しい怒りを覚えた。警察という行政機関に。この国のあり方に。自分達を傷付けながら当たり前のように動いている、世の中に。


 洋平の目線に応えるように、秀人は話し始めた。


「親父の死を知ったとき、さすがに絶望したよ。児童養護施設で連続殺人犯の息子として冷たい扱いを受けて、感情なんて失いかけていたのに」


 洋平は、児童養護施設で秀人がどんな扱いを受けていたのか、聞いてみた。


 児童養護施設での秀人の生活は、地獄だったそうだ。凶悪な犯罪者の息子だから、どんな扱いをしても許される。そんな独善にまみれた職員達に虐待され、施設内の子供達には凄絶ないじめを受けていた。いつの頃からか、辛いとも苦しいとも痛いとも思わなくなった。


「生きるための本能だろうね。自分に与えられる苦痛を、脳が受け取らなくなったんじゃないかな」


 秀人の表情が変わってゆく。その笑みから、優しさが消えてゆく。


「父親の冤罪が発覚した後も、扱いは変わらなかったのか?」

「そうだね」


 即答だった。


 世間の目は、真犯人に向けられた。凶悪な犯罪者に対する私刑的な思想で、ニュースや新聞は盛り上がっていた。


 真犯人の逮捕で、父親の冤罪が明らかになった。だが、父親の冤罪という事実が注目されることはなかった。


 きっと、世間は、このような凶悪犯罪が二件発生したと認識していたのだろう。秀人の父親が起こした事件と、真犯人が起こした事件。


 だから、父親の無実が発覚した後も、秀人は虐待され続けた。


「俺自身も、親父が無罪になったことを知らなかったんだ。まだ十一歳の子供だったからね。ニュースや新聞以外に情報を得る方法がなかったしね」


 秀人の顔から、優しさが消えた。


 部屋は暖房が効いて暖かくなってきているのに、洋平は寒気を感じた。秀人の、美しく冷たい表情を見て。


「親父の死を知ったとき、言いようのない激情を覚えたんだ。怒りとか、悲しみとか、そんな言葉で表せるようなものじゃなかった。自分の抱えている気持ちが何なのかも分からないような、そんな感じだったんだ」


 秀人は人差し指を側頭部に当てた。


「津波みたいな感情が頭の中で溢れて、そのときに、頭の中に電気が走ったような衝撃を感じたんだ」

「電気?」


 聞いたのは、いつの間にか秀人を見ていた美咲だ。彼女も、彼の父親の手紙を見て憤りを感じているのだろう。気の強そうな目に攻撃的な光を宿していた。


「うん。たぶんそれが、警察や自衛隊で行う超能力の施術の役割をしたんだろうね。超能力を使えるようになったのは、そのときからだし。まあ、強制的に通常と違う方法で開花したせいか、ひどい暴走をしたけどね」

「暴走?」


 洋平の問いに、秀人は頷いた。


「この地下室さえ見せたお前達には、これも正直に話すよ──」


 秀人の言葉に、間が空いた。


 洋平と美咲は、彼の方に身を乗り出して話に聞き入っていた。


「──暴走した超能力は、全身の力を全て使い切るレベルで放出されたんだ。結果、施設にいた人間は、俺を除いて全員死んだよ。俺が殺したんだ。施設の職員も、子供も、全員。女子供関係なく。暴走していたときの記憶はないんだけど、気が付くと、辺りが血の海になってたよ」


 ゴクリと、洋平は固唾を飲んだ。秀人に怯えていた暴力団員達を思い出した。


 暴力団員達は、知っているのだ。秀人の能力を持ってすれば、自分達など簡単に皆殺しにできると。だから秀人にあれほど怯え、簡単に言うことに従った。


「でも、それって、無意識なんでしょ? 仕方なくない?」


 美咲は、洋平ほど秀人の話に驚いていないようだった。その顔は、さきほどに比べて遙かに血色が良くなっている。もう彼女から、秀人に対する恐怖は感じられなかった。


「なかなかドライなんだね。でも、そう言ってくれると助かるよ」


 また、秀人の表情が変わる。氷点下のような冷たさが薄れ、苦笑を浮かべた。


「まあ、ここからはかなり端折はしょるけど、それから俺は、超能力の訓練を独自に積みながら、暴力団にもコンタクトを取り始めたんだ。一定以上の財力と裏社会との繋がりが欲しかったからね」

「それが、さっきの事務所の奴等?」

「うん。独自に超能力の訓練を十二、三年くらい積んで、今くらいのレベルで使えるようになってから、襲撃をかけたんだ。そのときからだから、あいつ等との付き合いはもう八年になるのかな」

「──え?」


 美咲が目を見開いた。言葉に詰まっているのが分かる。口の中で「嘘」と呟いた声が、洋平の耳に届いた。


 今の秀人の話のどこに、驚く要素があったのか。施設の人間を皆殺しにした話の方が、よほど驚くべきことだと思うが。そんな疑問を持ちながらも、洋平は秀人に言葉を投げた。


「それで……秀人……さん?」

「秀人でいいよ」

「じゃあ、秀人。あんたのことは、よく分かった。警察が嫌いって言ってた理由も。当然だと思う。けど、どうしても一つ分からないんだ」

「何が?」

「どうして俺達を助けたんだ?」


 秀人には、圧倒的な力がある。暴力団をも屈服させ、裏社会から財を成し、こんな家まで建てられる。そんな彼が、自分達みたいな子供を助けて、何のメリットがあるのか。


 秀人が何を目的として生きているのか、洋平には分からない。とてもそんな風には見えないが──財を成して贅沢に生きたいのか。暴力団を自分の手足のように使い、楽しみたいのか。見かけによらず情欲に溢れていて、暴力団が経営する風俗店で心置きなく遊びたいだけなのか。


 彼の生きる目的がどんなものにしても、そこに洋平達を助けるメリットが存在するとは思えなかった。洋平は元々ただの浮浪者で、今は美咲の居候だ。美咲は、裕福な家に生まれたとはいえ、財力という面においては秀人の足下にも及ばないだろう。


 もちろん、秀人が美咲の体を目当てにしているという可能性もある。しかし、それでは、洋平まで助ける意味がない。


 秀人は、髭も生えなさそうな滑らかな顎に手を当てた。


「強いて言うなら、直感かな?」

「直感?」

「そう。お前達を見たとき、近しい感覚を覚えたんだ。世の中に対する不信感。不快感。絶望感。そんなものを持っているように見えたんだ。実際、そうだよね?」


 洋平は頷くしかなかった。否定できない。自分の生い立ちを話してしまった以上、嘘を言っても簡単に見抜かれるだろう。


「洋平は美咲を守るために、美咲は洋平を守るために、暴力団の奴等にも平気で噛み付いていた。自分の身の安全なんか考えもしないほど、攻撃的に。それを見たときに、思ったんだよね。こいつらは人生に絶望して、だから自分の身を大切にできなくて、でも、自分に近しい人間は大切にしたい人間なんだな、って」


 洋平は、美咲と出会ってまだ二週間程度しか経っていない。そんな付き合いの短い彼女を「近しい人間」と言えるのかは、分からない。それでも、彼女だけは守りたいと思った。自分の身の安全などまったく考えずに。秀人の言う通りだ。


 誰も助けてくれず、手を差し伸べてくれず、弟は見殺しにされた。そんな洋平の人生の中で、美咲は唯一、弟を弔ってくれたのだ。


 秀人はその場で立ち上がると、洋平達に近付いてきた。


 すでに彼をまったく警戒していない自分に、洋平は気付いていた。


 美咲も同様だった。先ほどまで庇い合うように触れていた体が、離れている。


「俺は、国家転覆とか、そんな漫画みたいなことは考えてないよ。ただ、復讐はしたいんだ。俺から全てを奪った、この国に。警察という行政機関に。裁判所という司法機関に。あそこにある銃は、そのために集めたものなんだ。まだまだ計画には足りてない──数が圧倒的に足りてないけど」

「計画?」

「そう。あそこにある銃は、さっきの暴力団と内通している警察官を使って、実際に警察側で管理しているものを盗み出した物なんだ。あれを使って、大勢の人間も使って、暴動を起こしてやりたいな、って。どれだけ警察が無能な機関で、裁判を行う司法がどれだけ愚かか、世間に知らしめるために」


 警察が管理、使用している銃を使った暴動が起これば、確かに大きな問題となるだろう。たとえその事件が解決したとしても、社会問題となることは避けられない。


 けれど、その計画と洋平達を助けたことが、どうしても結びつかない。


 そんな洋平の考えを察してか、秀人は続けた。


「話してみて、確信したよ。お前達は俺と一緒に来るべきだ、って。俺と一緒に動かない? 不自由をさせるつもりはないし、俺に賛同して一緒に動いてくれるなら、洋平も美咲も、俺が必ず守るから。自分達しか信じられないなら、その信じられる人の中に、俺も加えてくれないかな?」


 洋平達の前に立った秀人は、手を差し出してきた。


 洋平は美咲を守ろうとした。美咲は洋平を助けようとした。そんなふうに助け、守る関係に、自分も加えて欲しい。


 秀人の差し出された手は、そう語っているようだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る