第十八話 手紙



 秀人が手渡してきた封筒から、洋平は手紙を取り出した。


 数枚に渡る手紙。折りたたまれていたそれを、手元で広げる。


 隣にいる美咲が体を寄せ、覗き込んできた。


 顔が触れ合うほど接近しながら、洋平は、美咲と一緒に手紙を読み進めた。

 

 ◇◇◇◇◇


 マスコミ各社の皆様へ。


 この手紙が貴社に届く頃には、もう私はこの世にはいないでしょう。


 妻を自殺に追い込み、息子を批難の的にしてしまった私には、もう、このような方法でしか思いを伝えることができないのです。


 どうか、この手紙とともに、私が警察より受けた拷問、司法より受けた仕打ちを公表していただけたらと存じます。


 死にゆく一人の人間であり、妻も息子も守ることが出来なかった男の、最後の願いです。


 この願いを聞き入れていただけることを、切に祈っております。


 それでは、詳しい話を記していきます。


 ──話は、数年前まで遡ります。


 覚えていらっしゃるでしょうか。いいえ、間違いなく覚えていらっしゃるでしょう。二年前に「真犯人」が逮捕された、連続婦女暴行殺人事件を。


 真犯人は当初、たったひとつの強姦殺人の容疑で逮捕されました。ところが、取り調べを行った刑事が彼にカマを掛けたことにより、事実が発覚するのです。


 真犯人が、それより遙かに以前──それより十年近くも前から、強姦殺人に手を染めていたことが。何人もの女性を、その手に掛けていたことが。


 では、なぜ真犯人は、その時点でたった一件の強姦殺人の容疑者として捕まったか。


 答えは簡単です。彼の身代わりのように逮捕され、有罪判決を受けた人間がいるからです。


 もうお気付きでしょう。その冤罪の被害を受けたのが、私こと金井秀俊かねいひでとしなのです。


 事の発端は、今から七年ほど前に遡ります。


 私は当時、普通の会社員でした。何の変哲もない会社員です。社会人になってすぐに入社した会社で働き続け、それなりの職位におりました。部下もおりました。


 家に帰ると、妻と子がいました。愛する、何に替えても守るべき家族です。


 平凡ですが、一家の大黒柱として働き、家に帰ると愛する妻や息子がいる幸せ。


 私はこのまま幸せに生きながら歳をとり、いつか孫の顔を見て、老人になり、穏やかに人生を終えるのだと思っておりました。


 けれど、そうはならなかったのです。


 ある日のことでした。私は部下の一人である女性に呼び出され、告白されました。愛すべき部下という贔屓目ひいきめを抜きにしても、可愛らしい女性だったと思います。


 私とて、一人の男です。正直なところ、心が揺れました。若く、可愛らしい女性が、こんな中年の男を好きになってくれた。その事実に喜びやよこしまな気持ちが生まれなかったと言えば、嘘になります。


 しかし、自分の欲求のまま生きるには、私は家族を愛し過ぎていました。妻を、女性としても、息子の母としても愛しておりました。息子を、自分の子としても、妻の子としても愛しておりました。


 私の中にある妻子への想いは、抱いた情欲よりも強かったのです。

 

 私が部下の告白に首を横に振ると、彼女は取り乱したように私の胸ぐらを掴み、訴えてきました。奥さんがいてもいい、愛人でもいい、都合のいい女でもいい──と。


 彼女の言葉通り、私にとってあまりにも都合のいい訴えでした。


 それでも、妻や息子を裏切ることも、悲しませることもできませんでした。涙ながらに自身の気持ちを吐露とろする彼女の手に触れ、私の胸元から離させました。


 彼女は泣き崩れました。


 それが、私が彼女の姿を見た、最後となったのです。


 次の日から、彼女は出社して来ませんでした。家や携帯電話に架けても、出ることはありませんでした。


 結論から申し上げますと、彼女は先ほど記した真犯人に暴行され、殺されていたのです。私に告白したその日の帰りに。両手を拘束され、抵抗することさえできずに。


 会社に警察が訪ねてきたのは、彼女が出社しなくなって数日ほど経った頃でした。逮捕令状を持っていました。


 察しの通り、容疑者は私です。彼女の指先──爪の間に挟まっていた衣服の繊維が、私の衣服のものと一致したのです。それは明らかに、彼女から告白されたときのものでした。


 逮捕され、勾留され、そこから私にとっての地獄が始まりました。


 私を逮捕した刑事達が行った、取り調べ。


 いいえ。あれは、取り調べなどと呼べるものではありません。


 拷問です。


 飲食はおろか、睡眠を取ることも、トイレに行くことも許されませんでした。


 尿意便意を堪え切れず私が垂れ流すと、殴る蹴るの暴行を受けた上、垂れ流したものを自分で片付けさせられました。掃除道具などは貸してもらえません。自分の手で、自分の着ている衣服を使って、自分が垂れ流した糞尿を片付けたのです。


 糞尿で汚れた私の衣服はゴミとして処分されました。


 代わりの服など貸してもらえず、私は全裸で、さらなる拷問を受け続けたのです。


 空腹で腹が鳴るたび、机の下で、固い革靴を履いた刑事の足で蹴られました。


 睡魔に襲われ意識を失いかけると、あるときは拳が私の顔を捕え、あるときは冷水を掛けられました。


 蹴られた私の足は変色し、腫れ上がりました。殴られた瞼も腫れ上がり、視界が狭くなりました。裸のまま冷水を浴びせられ、寒さで震えておりました。


 空腹、乾き、痛み、睡魔。あらゆる苦痛を私に与え、刑事達は自白を強要してきました。


 そんな、自白しない限り続く拷問の中で、私の精神は異常をきたしていたのでしょう。どうやら、犯行を自白してしまったようなのです。


「してしまったよう」というのは、私自身、自白した記憶がないのです。死すら予感させる空腹と乾き、一切の思考すら許さない睡魔。全身を襲う痛みと寒さ。あのときの私の頭は、明らかにおかしくなっていたのです。


 覚えているのは、私の取り調べを担当した中でも中心的存在だった、紅森くれもりという刑事です。記憶にある限り、彼が私を一番殴り、罵り、私が犯人でなかったなら土下座してやるとまで言っておりました。


 自白後にようやく睡眠や食事を許され、そこで私はようやく知りました。部下の殺害だけではなく、その他の強姦殺人すら自白させられていたことを。


 私は強姦殺人犯ではなく、「連続」強姦殺人犯となっていたのです。

 

 とはいえ、希望は持っていました。まず第一に、部下の殺害時刻に、私にはアリバイがあること。


 私は家族との時間を何より大切にしていましたから、仕事が終わると一切寄り道せずに帰宅しておりました。


 亡くなった部下は不憫でなりませんでしたが、正直なところ、彼女が殺害された時間に家にいたというアリバイがあることは、私を安心させました。


 次に、私が受けた取り調べは自白の強要に該当し、明らかに違法であること。


 法律上、取り調べは録画することが義務付けられております。紅森刑事が行ったような、冤罪を生む取り調べを防ぐためです。


 家族の証言がアリバイの証拠能力として弱いのは存じておりましたが、どんなに少なくとも妻と息子には裁判の結果が出る前でも無実を信じてもらえる。


 取り調べの映像が裁判で証拠として上げられれば、世間的にも無実を証明できる。


 そんな私の青写真は、この国の司法によって、無残に破り捨てられたのです。


 家族の証言はアリバイとして信憑性が薄い。むしろ、ないに等しい。


 取り調べの映像がないのはカメラが故障していたからであり、不可抗力である。私の、取り調べのときに拷問紛いの行為をされたという証言は、信憑性に欠ける。


 被害者の爪に、私の服の繊維が付着していた。それが、私が犯人である何よりの証拠。


 その他の殺人も、紅森をはじめとする刑事達の論理的な取り調べにより自白したものであり、私の無実の主張は信憑性に欠ける。


 裁判官や検事はそう告げ、判決を下しました。


 女性七人を暴行し殺害した罪により、死刑。それが、私に下された判決でした。


 もちろん、私は控訴しました。事実無根なのですから。


 しかし、世間はそうは見てくれません。


 妻と息子は卑劣な連続強姦殺人犯の家族として、周囲の攻撃の的となったのです。


 私が逮捕され有罪判決を受けるまで、妻は、貞淑で穏やかな母として近所で優しく扱われておりました。


 息子は、私の子とは思えないほど愛らしい容姿と、動物や植物に優しい男の子として、大変可愛がられておりました。


 そんな周囲の態度が、一変したのです。


 私は直接見ることもできなかったわけですから、事実は分かりません。


 ただ、妻が自分の境遇に耐え切れず、精神を病み、息子を残して自殺したのは事実です。


 両親がいなくなり、児童養護施設に引き取られた息子が、そこの職員に虐待され、愛らしい顔やその小さな体に無数の傷をつくっていたのも、事実です。


 真犯人が捕まり、ようやく無罪判決を受け、私は数年振りに外に出ました。


 余談ではございますが、私が犯人でなかったら土下座してやるとまで言い放った紅森は、釈放された私の前に姿を現すことさえしませんでした。


 私はまず妻の墓に行き、守れなかったこと、傷付けてしまったこと、悲しませてしまったこと、苦しめてしまったことを詫びました。


 その日は、大雨でした。


 妻の墓参りの後、息子がいる児童養護施設に足を運びました。


 そこで、驚愕の光景を目にしました。


 体中痣だらけの息子が──秀人が、建物の外に閉め出されていたのです。


 昔から小柄だった秀人は、このとき、小柄なだけではなく、ガリガリに痩せ細っていました。大雨でずぶ濡れになりながら、少しでも体を冷やさないよう、丸くなって座っていました。


 泣くことも、叫ぶことも、中に入れてと懇願こんがんすることもありません。明らかに、そのような扱いに慣れてしまっている様子でした。


 秀人は、優しい子でした。逮捕される前に、私は、秀人に頼まれて、何度も捨て猫や捨て犬の里親探しをしたことがあるのです。


「お父さん、お母さん、この子を助けてあげて。ひとりぼっちにしないで。僕にはお父さんもお母さんもいるけど、この子には、お父さんもお母さんもいないんだよ」


 可愛らしい顔立ちに悲しみの色を見せてそんなことを言っていた秀人は、見る影もありませんでした。そのときは、秀人自身がひとりぼっちだったのです。痣だらけで、薄着で、大雨に濡れて。


 私は秀人の前に姿を現せませんでした。妻を自殺に追い込み、息子を不幸にした。こんな父親が、どうして秀人の前に顔を出せますでしょうか。どのような顔をして秀人に会えるというのでしょうか。


 私の無実が証明されても、それは世間には浸透せず、妻は死してなお連続強姦殺人犯の妻であり、秀人は連続強姦殺人犯の息子として扱われているのです。


 私の無実を世間に知らしめ、妻や息子に向けられる批難の目をなくすには、どうしたらいいか。


 私には、こんな方法しか思い浮かびません。


 私の死とともに、事実を世間に公表することしか。


 センセーショナルな事件として、世間に浸透させることしか。


 冒頭でも書きましたが、この手紙が届く頃には、私はこの世にはいないでしょう。


 なので、繰り返し書き記します。


 どうか。


 どうか、この哀れな男の最後の願いとして、この事実を公表してほしいのです。


 妻も息子も、決して世間に批難される人間ではないこと。


 この結末は、警察の非道な行動と、裁判所の愚かな判断によるものだと。


 命を賭したこの願いが聞き入れていただけることを、心より願っております。


 ──金井秀俊


 


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