第十七話 金井秀人は招く



 事務所があるビルから歩いて三分ほどの有料駐車場に、秀人の車は停めてあった。


 洋平達は車に乗り込み、秀人が車を走らせた。


 夜の道を三十分ほど走ると、秀人の家に着いた。閑静な住宅街。ここに着くまでに、コンビニやスーパーがあった。コンビニまでは歩いて三分ほど。スーパーまでは歩いて十分ほどといったところか。


 街灯に照らされた暗い夜道に建つ家々。窓から漏れ出る光。その中に建つ何の変哲もない一軒家が、秀人の家だった。


 秀人の外見から、その年齢を推察することは難しい。妖艶な美女のような顔を見せることもあれば、優しげな美女のような顔をすることもある。


 洋平は、三十には届いていないだろうと推測していた。


 だから、この家も賃貸だろうと思っていた。学のない洋平でも、三十にもなっていない男が一戸建てを所有するのが難しいことくらいは分かっている。


 その考えが間違いだったと、家の中に入った瞬間に思い知らされた。


 外から見ると、何の変哲もない一軒家。


 しかし、家の中には、普通の一軒家では考えられないような地下室があった。玄関に入ると右側と左側に階段がある。左が二階に上がる階段。右が、地下室に下りる階段。


 地下への階段はかなり長い。まるで、地中の奥深くにでも潜り込んでゆくように。


 地下に通じる階段の前にはドアがついていて、今は開け放たれている。


 秀人は、階段の入り口にあるスイッチを押した。明かりが点いて、長い長い階段を照らし出した。


 秀人に促されて家に入り、地下室への階段を下りる。美咲も、洋平の後について階段を下りてきている。


 階段を下りると、頑丈そうなドアがあった。鍵がついている。秀人は鍵を開け、ドアをひらいた。真っ暗な闇が目の前に広がっている。ドアの向こうから出てきた空気は、ひんやりと冷たかった。


「地下だからね。少し寒いよ。暖房は点けるけど暖かくなるまでしばらくかかるから、悪いけど我慢して」


 秀人は暗闇の部屋に少しだけ入り、壁にあるスイッチを押した。ゴォーという空調が作動する音。彼が別のスイッチを押すと、地下室の明かりが点いた。


 地下室は、驚くほど広かった。外で見たこの家の敷地面積よりも、明らかに広い。洋平が通っていた小中学校の体育館ほどもある。天井も高い。複数の柱が、この地下室を支えるように立っている。直径一メートルほどの柱。それが、この地下室内に二十本ほどだろうか。


 扉を開けてすぐのところに、一人暮らし用と思われる小さな冷蔵庫。


 地下室の奥には、ガラス張りの棚。銃が何丁も納められているのが見えた。そのすぐ横には、射撃練習用と思われる的があった。


 秀人がたった今開けたドアは、かなり分厚い。重量も相当だろう。壁も、一般家庭用のものとは明らかに違う。射撃練習をするためだろう、防音になっているようだ。


 賃貸の家に、こんな地下室を作れるはずがない。どう考えても秀人の持ち家だ。しかも、明らかにまっとうな手続きを踏んで建てたものではない。


 洋平は秀人について来たことを後悔した。普通の生き方をしていて、こんな家を建てられるはずがない。そもそも、暴力団に対してあんな態度を取れること自体が普通ではないのだ。間違いなく、暴力団より危険な人間のはずだ。


 こんな閑静な住宅街で、しかも見知らぬ場所で、美咲をつれて秀人から逃げ伸びるなんて不可能だ。洋平は自分の失策を悔いた。こんな場所に来るべきではなかった。


 自分の後ろにいる美咲を見てみた。彼女の顔が少し青くなっているのは、気のせいではない。


 つい、洋平は舌打ちしそうになった。この絶望的な状況で、どうやって美咲を守るべきか。どうやって彼女を逃がすべきか。考えながら、秀人のことを信用しかけていた自分を実感し、恥じた。


 洋平は、車中で、秀人に聞かれるままに自分の生い立ちを話してしまっていた。彼が囁くように言った一言で、彼に心を開きかけていたのだ。


『俺は警察が嫌いなんだ』


 それは洋平も同じだった。だから、自分の気持ちを吐露するように、これまでの人生を話してしまった。幼い頃から虐待を受けて育ったこと。飢えと痛みに苦しみながら、弟を守って生きてきたこと。両親が逮捕されてから、施設で育ったこと。


 そして、弟の死に際のことも。自分の腕の中で、冷たくなってゆく弟。助けたかったのに、助けられなかった。助けを求めて飛び込んだ交番で、警察に無下に扱われた。殺されても不思議ではない環境で生きていて、弟の命は毎日危険に晒されている。それを訴えても、面倒そうな対応しかしなかった警察官。


 また、俺は守れないのか。圧倒的な暴力の前に、守るべき者が死んでゆくのを見ているだけなのか。冷たくなってゆく体を抱き寄せることしかできないのか。


 嫌だ、と思った。地下室の入り口を塞ぐように、洋平は、秀人と美咲の間に立った。自分の体を盾にして、美咲を守るように。父親の暴力から、弟を守っていたときのように。


 俺は、もう失敗しない。今度こそ守り切るんだ。


 決意を固める洋平の前で、秀人は、入り口付近にある冷蔵庫を開けた。中から、ペットボトルの飲み物を取り出した。


「お茶とスポーツドリンクとコーラ、どれがいい?」

「は?」


 つい、洋平は目を丸くした。


「いや、だから、お茶とスポーツドリンクとコーラの、どれがいい?」


 秀人の口調は軽い。まるで友人のような気軽さ。


「え……あ……スポーツドリンクで」

「……私はお茶」

「はい」


 リクエスト通りの飲み物を、秀人は、洋平と美咲に放ってきた。


 洋平達が飲み物を受け取ったのを見てから、秀人は、手元に残ったコーラを開けた。プシュッ、と小気味いい音がした。コーラをラッパ飲みして、言ってくる。


「とりあえず、適当に座ってよ。暖房は入り口付近に当たりやすいから、この辺でいいよね。まあ、座布団もないけど。ケツが少し痛くなるかも知れないけど、そこは我慢して」


 秀人の口調は、やはり軽い。


 洋平は、後ろにいる美咲と目を合わせた。


 美咲が小さく頷く。


 警戒心を抱いたまま、洋平と美咲はその場に並んで座った。恐る恐る、と言った動作で。床が冷たい。


 秀人は、二人に向かい合うようにその場で胡座をかいた。座るときに「よいしょ」と声を出した様子が年寄り臭くて、外見とあまりに不釣り合いで、なんだか滑稽だった。とても笑える気分ではなかったが。


「さて、と」


 手に持ったコーラをさらに一口飲み、秀人が言った。


「この部屋を見て、お前達の警戒心は確実に強まっただろうね。そりゃそうだよ。奥には銃があるし、こんな地下室がある時点で、普通の家じゃないし。どう考えても堅気の家じゃないのは明らかだから」


 秀人の言葉で、洋平の体に寒気が走った。鳥肌が立っているのは、決して寒さのせいではない。心の中を見透かされているようで、気味が悪い。


 隣にいる美咲を見ると、彼女も驚いた顔をしていた。自分の心情を隠して、ポーカーフェイスでいられるような冷静さはない。


 洋平達を見て、秀人は楽しそうに笑った。


「そんなに警戒しないでよ。警戒されるのを分かってて、あえてこの地下室を最初に見せたんだから」

「それ、日本語おかしい」


 指摘しながら、美咲は洋平に体を寄せてきた。不安を和らげるように。


「警戒されるようなことをしておいて、警戒するな、なんて」


 血色が悪くなった顔に、美咲は笑みを浮かべていた。明らかに、無理に浮かべた笑みだった。あるいは、自分達の状況が絶望的過ぎて、もう笑うしかなかったのか。


「さっきの『股を開く』発言といい、今の物言いといい、美咲の指摘は面白いね」


 ククッ、と秀人は、声を漏らして笑った。本心から面白がっているようだ。


 もちろん、洋平は笑えない。挑発的なことを言った美咲が、今、どんな気持ちか。その心情が自分のことのように知れた。洋平自身も、同じ気持ちだから。


 暴力団なんかよりも遙かに危険な、決して関わってはいけない人物の懐に入ってしまった。


「まあ、確かに今のは日本語が変だったよね。話を端折り過ぎたよ。正確に言うなら『馬鹿正直に自分の懐を晒したんだから、もう少し警戒心を解いてくれ』ってとこかな」


 今の秀人の発言で、洋平は、彼の行動の意図が分かった。もちろん、彼が本当のことを言っているのであれば、という条件付きだが。


 秀人は、洋平と美咲の警戒心を解くために、あえて自分のことを晒したのだ。明らかに堅気ではない自分を包み隠さず見せることで、洋平達の信用を得ようとしている。


「といっても、見ただけで色んなことを知ってもらうのは難しいよね。少し自分語りでもするよ。まあ、自己紹介みたいなものだね」


 話の合間に、コーラを一口飲んだ。


「さっき、車の中で洋平が話してくれたみたいに、ちょっと俺の生い立ちでも話してみるよ。それに、俺がお前達をここに連れて来た理由も話さないとね」


 秀人は「よいしょ」と言って、その場で立ち上がった。部屋の隅にある、銃を入れている棚まで行く。そこから、一通の封筒を持ってきた。やや古ぼけた封筒。


 洋平達の前まで戻ってきて、再び秀人はその場に胡座をかいた。「よいしょ」という声を漏らすのも忘れていない。


 洋平は、秀人の人物像が掴めずにいた。暴力団事務所で見せた、圧倒的な力と冷徹さ、非情さ。妖艶な美女のような雰囲気。そうかと思えば、優しげな美女のような顔も見せる。


 秀人に対する警戒心は、もちろん解いていない。美咲も同じだろう。


 しかし、話し始める前に見せた秀人の笑みは、どこか悲しげで、それでいて優しかった。寝付きの悪い子供をあやしながら眠らせるような。美しく優しい、母親のような笑顔。


「俺も、洋平と同じように施設育ちなんだ。もっとも、お前と違って、両親がブタ箱に入ったわけじゃないけどね。死んだんだよ、二人とも」


 秀人の口から出た彼の人生は、壮絶の一言だった。


 父親が、強姦殺人の罪で逮捕された。その事実が皆に知られ、周囲の人間にひどい仕打ちを受けた。誰も味方のいない生活に耐えかねた母親は、秀人が学校から帰ると首を吊っていた。


 秀人が施設に入っている間に、父親の無実が証明された。真犯人が逮捕されたのだ。それでも、彼の父親は、人々に凶悪な犯罪者として記憶されていた。


 その結果、父親も自殺した。


「まあ、詳細は、これに書いてあるよ」


 先ほど棚から持ってきた手紙を、秀人は洋平達に差し出した。


 恐る恐る洋平は手を伸ばし、秀人から封筒を受け取った。


 中には手紙が入っていた。秀人の父親が書いた手紙だった。とはいえ、父親が彼に向けて書いたものではない。


 それは、警察を恨み、司法に絶望し、世の中の人間への怒りを記したもの。


 秀人の父親が、死に際に、マスコミ宛てに出した手紙だった。



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