第十五話 金井秀人は引き取る



 秀人に水を掛けられた少年が、薄らと、ゆっくりと目を開けた。何度か瞬きをしている。目を覚ましたとはいえ、まだ意識ははっきりしていないのだろう。自分の置かれた状況が分かっていないようで、横になったまま、周囲をキョロキョロを見回していた。


 秀人は、少年の目の前にいる。周囲には、この事務所の暴力団組員。


 少年の意識がはっきりしてきたようだ。手錠で拘束された手足を、カチャカチャと音を鳴らしながら動かしている。自分が置かれた状況を確認しているのだ。


 普通の人間であれば、目が覚めたときにこんな状況に置かれていたら、かなりのパニックに陥る。手足が拘束され、周りには暴力団員。助かろうとして、でも絶望的な状況で、悲鳴にも似た声を上げるはずだ。


 だが、少年は、驚くほど落ち着いていた。完全に目が覚め、自分の状況を理解すると、全てを諦めたかのように溜息をついた。


 その目には、光がなかった。生を求める光が。意思を感じさせる光が。まるで、死人のような目だった。


 秀人は落胆した。期待外れだ。


 この少年は、自分の危険も顧みずに少女を助けた。明らかに堅気ではない人間に攻撃を仕掛け、少女を連れて全力で逃走した。その後も、少女を守るために動き続けた。


 秀人は、この少年のことを感情的な人間だと思っていた。組員達からその特徴を聞いて。


 感情的な人間なら、その気持ちを上手くコントロールして、思うように操れる。そう目論んでいた。


 しかし、今の少年からは、何の感情も見受けられない。生きることを諦め、絶望しているだけの人間。


 使えそうもないな。少女だけ連れて帰って、この少年は組員達の好きにさせるか。


 秀人がそんなことを考えていると、少年は仰向けに体勢を変えた。ボーッと天井を見る。生気のない目。ただ、そこにある物を映しているだけの目。


 落胆している秀人の視界の中で、少年の体が動いた。天井に向けていた顔を、横にした。少女のいる方向。その直後、彼の体がビクンッと動いた。震えるように動き、すぐに硬直した。


 少年の目の前には、手足を拘束され、組員に押さえ付けられている少女がいる。


「洋平! 大丈夫なの!? 洋平!」


 少女は、組員に拘束されながらも必死に叫んでいた。気の強そうな美少女──そんな印象が崩れるほど、顔をクシャクシャに歪ませている。体を必死に動かし、衣服を乱れさせながら、押さえ付ける組員の手を振り解こうとしている。少年に近付こうとしている。


「洋平! 洋平!」


 死人のようだった、少年の目。その瞳に、急速に光が宿った。強い意志。決意。目的。使命。そんなものを感じさせる目。


「美咲!」


 少年の口から、驚くほど大きな声が出た。手足を拘束されながら器用に体勢を変え、立ち上がろうとする。


「美咲を離せ!」


 少年と少女。洋平と美咲というのか。秀人は、互いの名前を必死に呼び合う彼等を観察していた。感情を爆発させた二人。互いが、互いを求め合う二人。互いが、相手の無事を祈る二人。


 いいな、こいつ等。秀人は、先ほど洋平に対して抱いた印象を一変させた。


 この二人は、使える。組員達には渡さない。


 器用に立ち上がり美咲を助けようとする洋平を、組員の一人が押さえ付ける。床にうつ伏せに組み伏せた。

 

 それでも洋平は、暴れるのをやめない。美咲の名を呼びながら、必死に彼女を助けようとしている。


 それは美咲も同じだった。すでに服は下着が見え隠れするほど乱れているが、そんなことなどお構いなしに暴れている。


 秀人は、組み伏せられた洋平の前にしゃがみ込んだ。彼の顎を手で掴み、顔の向きを自分の方へ固定させた。


 洋平と目が合う。強い意志を感じさせる目。攻撃的な目。その攻撃性は、全て、美咲を守るために使われている。自分の安全など気にも止めていない。強烈過ぎる自暴自棄と自己犠牲。あまりに深い、他者への献身。


 秀人は、洋平に聞いた。


「助かりたい?」


 愚問だ。それを分かっていて、あえて聞いた。


 洋平の反応は、秀人の想像通りだった。憎々しげな感情を隠そうともしない目。攻撃性で満ち溢れている。自分の命に替えても美咲を守ろうとしている。


 秀人を睨みながらも、洋平は、必死に手錠を外そうとしていた。手首や足首から血が滲み出るほど、ガチャガチャと動かしている。


 秀人には、洋平の心情が手に取るように分かっていた。今の状況をどうにかしたい。美咲だけでも助けたい。けれど、力が足りない。自分にはどうしようもないことが悔しい。それでも、諦め切れない。諦めたくない。諦めるわけにはいかない。


「質問を変えるよ」


 洋平と視線を絡めながら、再度秀人は聞いた。


「その女を助けたい?」

「!」


 洋平の目が見開かれた。手錠を外そうとガチャガチャと動かしていた手足の動きが、止った。表情は、複雑に歪んでいた。聞いてきた秀人への猜疑心。美咲を直接助けられない、弱い自分への悔しさ。それでも彼女が助かるかも知れないという、秀人の言葉への淡い希望。


 もし、拉致されたのが自分だけだったなら、洋平は、こんな目を見せなかっただろう。先ほどまでの死人のような目をして、全てを諦めていただろう。


「洋平を離しなさいよ! あんた達の商売の邪魔をしてたのは私なんだから! 洋平を離せ!」


 美咲は未だに怒鳴り続けている。秀人が組員達に「無傷で」と言っていなかったら、とっくに殴られているはずだ。


 守るべきもののために、抵抗を続けられる。守るべきもののために、命を捨てられる。守るべきもののために戦い続けられる。そういう人間は、守るという目的を達成するためなら、どんな苦境にも苦痛にも挫けることはない。


 洋平や美咲が持っているその意思の強さは、自分自身への評価の低さからくるものだ。自分自身に価値を見い出せないからこそ、自分の身を削ってでも、自分を大切にしてくれる人を守ろうとする。いくらでも捨て身になれる。


 勇気にも似た自棄。


 洋平や美咲のその感情を上手く使えば、自分にとって強力な駒になるはずだ。思っていた以上の拾いものに、秀人は笑みを堪え切れなかった。組員達に圧をかけるために浮かべる冷笑とは違う、自分の感情を素直に表した笑み。


 秀人は洋平の顎から手を離し、その場で立ち上がった。この事務所にいる組員達を見回す。口からは、笑みが消えていた。冷たさすら感じさせる美しい顔立ち。その視線は、鋭い。


 鋭い目で、組員達を睨みつけた。


 組員達は、自分達が睨まれている理由も分からないまま、たじろいていた。洋平や美咲を押さえ付けていた組員達は、その手を離してしまっている。


 洋平と美咲は体を引き摺りながら、互いに近寄っていった。


 一通り組員達を睨んだ後、秀人は、その目を、窓際の席にいる岡田に向けた。


「岡田さん」

「え……あ、はい」


 唐突に声を掛けられた岡田は、間抜け面を晒していた。


「えっと……何でしょうか?」


 岡田は、この場にいる誰よりも秀人の怖さを知っている。かつて、自分の目の前で、六人もの組員がゴミ屑のように秀人に殺されたのだから。ある程度の距離を取っていても、彼が冷や汗でビッショリになっていることが、はっきりと分かる。


 岡田を睨んだまま、秀人は彼に聞いた。


「ひとつ頼んでもいい?」

「え? あ、はい。何でしょうか?」

「この子達、俺に引き取らせてくれない? どうせ、男の方は殺すつもりだろうし、女の方はボロボロになるまで体を売らせるだけなんだろ?」

「え? あ、いや……それは……えっと……」


 岡田が口籠もった。


 秀人には、岡田の考えていることが手に取るように分かっていた。


 組に恥をかかせた洋平や美咲を、このまま見逃せるはずがない。そんなことが上の者の耳に入ったら、岡田もただでは済まない。恥を払拭し面子を保つためにも、洋平と美咲にはそれ相応の報復をする必要がある。だから、秀人には渡せない。


 しかし、ここで秀人に逆らえば、下手をすればこの事務所の人間全てが殺される。秀人は決して加減しない。時と場合によっては、人をゴミ同然に殺す。岡田と初めて会った、八年前のように。


 当然秀人には、そんな岡田の心情を汲むつもりなどない。微塵も。


 秀人は指先を突き出し、超能力を放った。二週間前、洋平に怪我をさせられた組員に向かって。


 秀人の超能力を顔面に食らった組員は、弾け飛ぶようにその場に倒れた。鼻から下の骨が粉々に砕けたはずだ。床の上でピクピクと痙攣している。失神したらしい。


「二週間前に怪我をした組員は、これで全員、入院することになったね」

「あ……」


 岡田がガタガタと震え出した。顎の肉が、体の震えに合せて揺れている。


「よかったね。組の人間をやったのは、実質上、この子じゃなく俺になったわけだし」

「え……は?……あ……」


 岡田は、わけが分からない、という顔をしていた。恐怖と混乱で、秀人のやったことの意味が分からないらしい。


「でも、岡田さんが許可をくれないと、俺にやられた組員がさらに増えるかも知れないね。下手したら、死人が出たなんてことまで新事実として発覚するかも」


 岡田から視線を外し、秀人は、ゆっくりと、周囲にいる組員達を見回した。


 組員達は、全員、恐怖で硬直している。膝がバイブ機能のように震えている者もいた。


 洋平は、美咲を庇うように彼女に覆い被さっていた。


 一通り事務所内の人間を見回した後、秀人は再び岡田を睨んだ。


 岡田は、目の前の机に両手をついた。大量の汗が、机の上に落ちた。


「分かった。好きにしてくれ。だから、もう許してください……」


 彼等は、暴力のプロだ。だからこそ、暴力を出すべき場面、暴力を引くべき場面をよく理解している。自分達の暴力より強力な暴力に対して、逆らってはいけないことも。


「ありがとう、岡田さん。まあ、埋め合わせはちゃんとするから。たぶん」


 この場にいる人間の中で、秀人だけが、一滴の汗もかいていなかった。


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