第十四話 金井秀人は観察する
土曜日の午前0時。
秀人は、先週と同じく、檜山組の事務所に来ていた。国道沿いの、しろがねよし野の端にある十五階建てのビル。その、十階の一室。
並んだ机のひとつに腰を下ろしている。組員が、売春をしている少女と彼女を助けた少年を拉致してくるのを、待ちながら。
この事務所の組員達は、二時間ほど前に彼等を拉致するために出掛けていった。離れた場所から彼等を見張っていた組員から「女が男とホテルに入った」と連絡がきたのだ。
組員達が計画した拉致の段取りも聞いていた。
少女は売春を終えると、共に行動している少年とタクシーで帰路に着く。そこを襲撃するのだ。タクシーがひと気のない道に入ったところで。
普段は十一人で使用しているこの事務所には、現在、四人の組員がいる。事務所を仕切っている岡田。二週間前に少女の拉致に失敗した組員。他二人。
その他の五人は少年と少女の拉致に向かい、残る二人は入院している。
少年と少女の拉致に失敗することはないだろう。時代の波に飲まれて暴力団の暴力性が低下しているといっても、彼等はプロなのだから。
暴力のプロ。
秀人は彼等をいいように弄んでいるが、その能力を過小評価はしていなかった。
大型連休前の、最後の平日の夜。そのせいか、外からは遊び歩く人達の声が聞こえてくる。笑い声や、酔っ払って呂律が回らなくなった人達の声。明るく、楽しげな雰囲気の声。
そんな声に混じって、この階の廊下から、人の声が聞こえてきた。低く、聞き苦しい声だ。外から聞こえてくる声とは、まったく異質の声。
拉致に向かった組員達が戻って来たのだろう。ガラガラという車輪が床を進むような音も、一緒に聞こえてきている。
事務所のドアが開いた。
「ただいま戻りました」
ゾロゾロと事務所に入ってくる、いかつい風貌の男達。彼等は、大型のキャリーバックを二つ運んできた。聞こえてきた車輪の音は、このキャリーバックのものだ。
キャリーバックの中に拉致した少年と少女を詰めたのだろうということは、想像に難くない。
二つのキャリーバックのうちの一つから、ゴトゴトと騒がしい音がする。バックに詰められた少年と少女。そのどちらかが、中で暴れているのだ。
もう一つのキャリーバックは、静かだった。
ゴトゴトとうるさかったキャリーバックを組員の一人が開けると、中から少女が出てきた。両手を後手で拘束され、さらに足も拘束されている。警察官が使うような手錠で。口は、ガムテープで塞がれていた。ただし、窒息しないように鼻は塞がれていない。秀人の言いつけをしっかりと守っている。
『無傷で連れてこい』
秀人の指示に背くことが何を意味するか、この事務所の組員達はよく理解している。
もう一つのキャリーバックには少年の方が入っているのだろう。静かなのは、気を失っているからか。
秀人は机から腰を上げ、戻ってきた組員達のところに行った。
「お疲れお疲れ。ちゃんと言いつけは守ったみたいだね」
「……はい」
少年と少女を拉致してきた組員のひとりが、不愉快そうな顔で返答してきた。
すぐ横で、他の組員がもう一つのキャリーバックを開けた。中から出てきたのは、ぐったりとした少年。キャリーバックから出され、仰向けに寝かされた。少女と同じように手足を拘束され、口をガムテープで塞がれている。頭頂部のあたりには、乾いた血が張り付いていた。
動かない少年を見た少女が、ガムテープで口を塞がれながら「うー! うー!」と声を上げた。芋虫のように体をくねらせ、少年に近付こうとしている。
「……まさか、殺してないよね?」
拉致に参加した組員達を睨む。秀人はいつも、冷たい笑みを彼等に見せていた。脅しの冷笑。しかし今は、笑っていなかった。視線だけで人を殺せそうな目を、彼等に向けている。
仰向けの少年の胸や腹は、かすかに上下している。呼吸をしていることは一目瞭然だ。殺していないことなど、見れば分かる。それでも、秀人はあえて彼等に聞いた。
少年の頭に張り付いた血。明らかに無傷ではない。
「もちろん生きてます! ただ、抵抗されたんで、気絶させただけです!」
組員のひとりが慌てて弁解した。
少年は、拉致される寸前に抵抗し、暴れたのだろう。おそらくは、そこで「うー! うー!」と言って少年の身を案じる、少女を守るために。
暴れられたから、仕方なく攻撃し、気絶させた。そんなことは分かっている。分かってはいるが、秀人は組員達を問い詰めた。
「無傷、って言ったよね?」
「……」
組員達は目を伏せ、黙り込んだ。拉致に参加した五人のうち三人は、カタカタと体を震わせている。
「無傷の意味は、分かってるよね?」
「……」
組員達に圧をかけながらも、秀人は別に気にしてはいなかった。彼等は、少年に加える危害を最低限に抑え拉致してきた。抵抗されたから、無力化させるしかなかった。そんなことは分かっているのだ。
組員達を睨むのをやめ、秀人は軽く息をついて見せた。
「まあ、いいよ。仕方なかったんだろうし。でも、今度からは気を付けてね」
「……申し訳ありません」
組員の一人が低い声で謝罪した。
少女はまだ、言葉にならない声を上げている。少年に近付こうとしていたところを、組員の一人に捕まっていた。拘束された手足をバタバタと動かし、抵抗している。
「とりあえず、口のガムテープを剥がしてあげなよ。呼吸はできるだろうけど、息苦しいだろうし。それに、何か言いたそうだし」
秀人に指示されて、組員達は、少年と少女の口からガムテープを剥がした。
少年は気絶したままだったが、少女は、ガムテープを剥がされた途端に喚き出した。
「何なの!? あんた達! こんなところに連れて来てどうする気!? 洋平に何したの!? 無事なの!?」
まくし立てながら、少女は周囲にいる組員達を睨んでいた。こんな状況下で──明らかに堅気ではない男達に囲まれているのに、怯える様子は微塵もない。まるで、恐怖という感情が欠落しているかのように。
秀人の口の端が上がった。
秀人の狙いは、超能力を使えるかも知れない少年の方だった。いわば、少女はおまけだ。期待値の高い少年に付いてくる、おまけ。
だが、感情を露わにしている少女を見た瞬間、その考えは一変した。
この女は使える。
この歳で、自分の体を売っている。暴力団の男達に囲まれても怯える様子すら見せず、むしろ食ってかかっている。そんな行動や様子から、彼女の性質が簡単に想像できた。
この少女は、自分自身に価値を感じていない。自分に価値を感じていないから、平気で自分の体を売れる。自分に価値を感じていないから、暴力団の男達に喚き散らせる──自分を守るための行動を取らない。
気絶している少年は、少女にとって、初めて自分の価値を認めてくれた人なのだろう。だから、こんな状況下で、自分よりも彼の安否を気にしている。
この少女は、自分を見て、自分に価値を感じてくれる人に心を奪われるのだ。たとえそれが、どれほど下衆な人間だとしても。
大切に面倒を見てやれば、どんなことでもするようになるだろう。秀人のために、何でもするようになるだろう。それこそ、秀人の指示で、警察署に乗り込んで銃を乱射することさえも。
では、少年の方はどうだろうか。期待通りの奴だろうか。
彼はまだ目を覚まさない。早く、彼がどんな奴かを知りたい。
「うるせぇ! 連れのガキは寝てるだけだよ! 見れば分かるだろうが!」
喚き散らす少女に、組員のひとりが怒鳴った。
そんなやり取りを尻目に、秀人は、怒鳴った組員とは別の組員に聞いた。
「ねえ、水、ある?」
「え?」
「だから、水」
「あ、はい」
秀人に水を要求された組員は、事務所内の冷蔵庫まで駆け足で行った。中からペットボトルの水を取り出し、駆け足で戻ってくる。
「どうぞ」
「ありがとう」
受け取ったペットボトルのキャップを開けると、秀人は、倒れている少年の顔に水をかけた。
ジャバジャバと音を立てて、水が少年の顔を叩いた。飛沫が、周辺に飛び散っている。
かけている水が、少年の口や鼻に入ってゆくのが見えた。息苦しくなったのか、仰向けに寝ていた彼は、少女に背中を向けるように体を横にした。
意識はまだ戻っていない。無意識の行動だろう。
ペットボトルが空になった。
体を横向きにした少年は、ペットボトルの水がなくなってから二、三秒後に、薄らと目を開けた。
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