第十三話 もうやめようとして、告げようとして、すでに手遅れで
ゴールデンウィーク前の最後の平日。
その夜──午後十一時。
しろがねよし野のホテル街。
連休前だけあって、周囲は、入るホテルを探している男女が多く行き交っていた。腕を組み、体を寄せ合い、あるいは手を絡めるように繋いだ男女。そのほとんどが、普通の恋人同士なのだろう。
もちろん、そうではない場合もあるだろうが。
洋平が美咲の家に住むようになってから、二度目の週末の夜。
立ち並ぶ多くのホテルに男女が入り、出てくる。その中には、美咲が入ったホテルもあった。彼女が、売春の客と入ったホテル。
洋平は、先週と同じように、美咲がホテルから出てくるのを待っていた。彼女が入ったホテルの、向かいのホテル。その壁に寄りかかるように座りながら。
今日は美咲に肩掛けの鞄を貸してもらい、その中にチョコレートを五枚入れてきた。エネルギーの補給用に。
レーダーを使って周囲を警戒していると、とにかく腹が減る。先週は、意識が朦朧とするほどの空腹感に襲われた。体中の力が全て失われたような感覚。強すぎるほどの脱力感。それでも美咲を守るために、レーダーを使い続けた。
チョコレートを少しずつ食べてエネルギーを補給しながら、レーダーを使い続ける。自分を中心とした、半径約十五メートルの探査器官。その範囲内の動きが、まるで触れているように分かる。
先週とは違い、今日は、レーダーの範囲内に怪しい動きをする者はいなかった。とはいえ、洋平は、まったく油断していなかったが。
美咲に客を奪われ、洋平に面子を潰された暴力団員が、そう簡単に引き下がるはずがない。自分は美咲のボディーガードだ。どんなことがあっても彼女を守り抜く。
美咲が客とホテルに入ってから、そろそろ三時間経つ。
彼女が入ったホテルの休憩時間も、三時間。もう少しで出てくるだろう。
洋平がそんなことを考えてから十分ほどして、美咲が男とホテルから出てきた。
周囲のホテルの看板の明かりが、男と美咲の顔を照らしていた。
男は、だらしなく目尻を下げながら美咲の肩を抱いていた。まだ物足りない。そんなことを物語るように、美咲に何かを話しかけている。何を言っているかは分からない。ここまで声は届かない。しかし、想像はできた。もう少し一緒にいよう、宿泊しよう。そんなことを言っているのだろう。
美咲の表情は、男とは対照的だった。気の強そうな顔に不機嫌を露わにして、自分の肩から男の手を振り払った。先週の売春の後とは、明らかに雰囲気が違う。今日の客は、そんなに嫌な客だったのだろうか。
あの男があまりにもしつこいようなら、助けないとな。洋平は腰を浮かせ、立ち上がった。尻についた砂を、パンパンと叩いて払い落とす。
あまり目立つことはしたくないが、必要であれば男を追い払おう。懐に忍ばせた特殊警棒を握った。
洋平が美咲達に近寄ろうとしたところで、ようやく男が彼女から離れた。またお願いね、絶対だからね、と洋平のところまで聞こえる声で言いながら去って行く。
美咲の声は聞こえないが、表情から、適当に返事をしているのが分かった。はいはい、またね。そんなことでも言っているのだろうか。とりあえず、面倒なことにはならずに済んだようだ。
美咲のところまで足を運ぶ。
「美咲、大丈夫か?」
彼女の表情が一変した。
「あ、洋平。今日もありがとう」
「ああ。それで、大丈夫なのか?」
「見てたの?」
「そりゃあ、お前のボディーガードだからな。場合によっては助けようと思ってた」
「そうなんだ」
美咲は大きな目を細めて、口を大きく横に伸ばした。年相応とも言える笑顔。つい数分前まで売春をしていたとは思えない。
「もう少しだけ、あと一時間だけ、ってしつこかったけど。なんとか追い払えたよ」
「そうか」
「じゃあ、帰ろうか」
美咲は洋平の腕に、自分の腕を絡めてきた。タクシーが数多く停まっているところまで、グイグイ引っ張るように洋平を連れて行く。
周囲の光に照らされる美咲の表情は、ホテルから出てきたときとはまったく違っていた。
近くの交差点付近まで行って、停車しているタクシーに乗り込んだ。美咲が自宅の場所を告げる。タクシーが走り出した。
毎週こんなふうにして、これからも美咲を守り続けるのだろう。そんなことを、洋平はタクシーの中で考えていた。隣には、先週と同じように体を寄せてきている美咲がいる。
美咲が売春を続ける限り、危険を孕み続ける。その道のプロに目を付けられたのだから、仕方がない。
美咲を狙う暴力団が壊滅でもしてくれれば問題はないのだろうが、そんな都合のいいことが起こるはずもない。もちろん、洋平が、あの暴力団を壊滅させることもできない。自分には、そんな超人的な力などない。
だから、こうやって常に美咲に同行して、守り続けるしかない。これからも、彼女が売春を続ける限りは。
終わりのない、先の見えない迷路にでもいるような感覚。それなのに洋平は、気が滅入ることもなかった。
もちろん、不安はある。恐怖もある。美咲を守り切れないかもしれない、という不安と恐怖。それでも、今の自分にはできることがある。今でもそれほど強いわけではないが、弟が殺されたときほど無力でもない。
そんなことを考えていたから、唐突に美咲に言われた言葉に、少なからず驚いた。
「ねえ、洋平」
美咲は、洋平の肩に頭を乗せてきた。先週と同じように。上目遣いで洋平を見上げてくる。
「どうした?」
「あのね、私──」
「?」
美咲は、言いかけた言葉を一旦途切れさせた。言葉と言葉に、少しの間が空く。迷っているような、決意を固めているような、そんな言葉と言葉の合間。
若干の憂いと決意を固めたような目。美咲の唇が動いた。
「──しばらく……ううん。もう、ね。
洋平は目を見開いた。顔の向きを変え、美咲を視界に入れる。自分の肩に顔を乗せた彼女との距離は、想像以上に近かった。
美咲の瞳の中に、自分の姿を確認できる距離。いつかのような感覚を覚えた。美咲の瞳の中に、自分が住んでいるような感覚。
「どうしたんだよ? 急に」
「うん。ちょっと、ね……」
洋平の視界の中で、美咲は目を閉じた。心なしか、微笑んでいるように見えた。
売春は、美咲が自分の価値を見い出す唯一の手段だったはずだ。それなのに、どうして急に。疑問が、洋平の頭に駆け巡った。
もしかして、美咲は何かを見つけたのだろうか。売春以外に自分の価値を見い出せる、何かを。洋平が気付かないうちに。
きっとそうだ。だから、今日の売春の後は前回と様子が違っていたんだ。洋平は、自分の推測に確信を持てた。
洋平の心の中が、安心感で満ちた。これで、彼女が危険に晒されることもない。自分は、今度は守り切れたんだ。弟のときとは違って。安心感とともに生まれる、達成感。ずっと抱え続けていた後悔が、少しだけ薄れた気がした。
同時に、一抹の寂しさも感じた。洋平は、美咲のボディーガードだ。彼女を狙う暴力団員から守るための。その報酬は、彼女の家で暮らせることと、彼女とのセックス。
美咲が売春をしないのであれば、もう守る必要もない。同時に、守る必要がないのであれば、洋平の仕事は終わる。仕事に対する報酬もなくなる。
「じゃあ、俺は、お前の家を出て行かないとな」
「え!? 何で!?」
ガバッと、美咲が洋平から離れた。何を言っているのか分からない──そんな顔をしながら、じっと洋平を見ている。大きな目を、さらに大きく見開いて。
「いや、だって、お前の家に住めるのは、お前を守る報酬なんだし。守る必要がなくなったら、報酬だってなくなるだろ」
見開かれた美咲の目が、戸惑うように細められた。小さく開けられた口から「あ」という声が漏れた。悲しそうな声だった。
タクシーは走り続ける。スピードを出している車が近くにいるのか、かなり大きなエンジン音が聞こえてきた。
美咲は洋平を見つめながら、声も出さずに口をかすかに動かした。何かを言いたい。でも、どう言っていいか分からない。そんな様子だった。表情は、なぜか悲しげになっていた。
「あの……洋平──」
絞り出すような声で、美咲が何かを言いかけた。
しかし、言葉は続かなかった。
ガンッ、という大きな音とともに、車が大きく揺れた。
強い衝突。洋平と美咲の体は、前の座席に叩き付けられた。
あまりの衝撃と痛みで、息が詰まった。全身が、圧迫感にも似た鈍痛に襲われている。強く重苦しい鈍痛。思うように呼吸ができない。
美咲は大丈夫なのか? 痛みを堪え、必死に酸素を取り込みながら、洋平は彼女を見た。
美咲は失神しているようだった。ぐったりとして
──事故か!?
苦痛に悲鳴を上げる体を強引に動かし、洋平は車の外を見回した。
美咲の家まで、あと数分で着くという場所。国道からも離れた、細い道路。車の通りは、それほど多くない──というより、まったくない。
そんな場所で、タクシーが黒塗りの車に挟まれていた。前と後ろに、どうみても一般乗用車ではない黒塗りの車。
車の持ち主が誰かなんて、考えるまでもなかった。
こんなところで狙ってくるのかよ!? 胸中で毒突きながら、洋平は素早くシートベルトを外し、懐の特殊警棒に手を伸ばした。
黒塗りの車から出てきた男達が、タクシーの後部座席のドアを開けた。
ドアを開けた男に向かって、洋平は特殊警棒を振った。しかし、狭いタクシーの中では勢いがつかず、威力が乗らない。
洋平は着ているパーカーを掴まれ、タクシーの外に引き摺り出された。
まずい! どうにかして、美咲だけでも逃がさないと!
どうしようもない焦りで、心拍数が異常なほど上昇した。全身で心臓の鼓動を感じながら、洋平は再度、特殊警棒を振ろうとした。抵抗するため。どうにかして、美咲だけでも逃がすため。
だが──
ゴンッ、と耳の奥に固く重い音が響いた。頭に、何かが突き抜けるような感触。
それが、洋平の、意識を失う直前の最後の記憶だった。
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