第十一話 見てくれて、守ってくれるから、失いたくない



 週末の夜の、しろがねよし野。


 その、ラブホテル密集地。


 ホテルの看板の光に周囲が照らされていて、夜とは思えないほど明るい場所。情欲を抱えた男女が行き交う場所。


 あるホテルの看板の光が、別のホテルの料金表を照らしている。


『休憩三時間:三五〇〇円~、宿泊:七五〇〇円~』


 ホテルの『休憩』は、当然だが、体を休めるための休憩ではない。


 そんな約三時間の休憩を終えて、美咲は、男と共にホテルから出た。


 この男は、売春の相手。つい先ほどまで美咲の体に夢中になっていた、名前も知らない男。


 どこまで本当かは分からないが、男は、セックスの合間に、自分のことを話していた。


 既婚の四十一歳。今年高校生なった娘がいる。妻は二つ年下。そんな彼の家庭での立場は弱く、妻にも娘にも相手をしてもらえない。むしろ、煙たがられている。早く帰ると文句を言われるので、週末は風俗店で遊んでから家に帰っている。妻と最後にセックスをしたのは、もう五年も前。


 欲求不満を溜め込んでいる男は、ホテルの中で、美咲の体に夢中になっていた。年甲斐もなく、三回も励んだ。ベッドの上で年齢からは考えられないほど美咲に甘え、褒めちぎってくれた。


 それは、美咲にとって、金よりも欲しているはずのものだった。たとえ、下心からの褒め言葉だと分かっていても。自分を見てくれて、褒めてくれて、構ってくれる。だから、売春をやめられない。たとえ、そこに大きな危険があると分かっていても。


 自分に価値があると感じられるのは、この瞬間しかないから。


 男と別れる。ホテルの前で手を振って、去って行く男を見送った。何度か名残惜しそうに振り返りながら、男が遠ざかってゆく。


 やがて、男の姿が見えなくなると、美咲は小さく深く溜息をついた。こんなことは、初めてだった。


 男が見えなくなると、美咲は洋平の姿を探した。


 看板の光でかなり明るい路地では、ホテルを選びながら通り過ぎてゆくカップルの顔まで、はっきりと見える。


 美咲が入ったホテルの真向かいのホテル。そこに、寄りかかるように座る洋平がいた。


「洋平」


 美咲は洋平に駆け寄り、声を掛けた。


 洋平は、疲れ切った顔をしていた。ホテルの看板の光が彼の顔に当たって、色濃く出た隈がはっきりと見えた。


「終わったのか?」

 

 美咲は頷いた。


「ずっとここで待ってたの?」

「そりゃそうだろ。俺は、お前のボディーガードなんだから。離れるわけにはいかないだろ?」


 疲れ切った顔をしながらも、洋平は当たり前のように言った。きっと、美咲を待っている間中、ずっと気を張っていたのだ。だから、こんなにも疲れている。


 美咲は、胸の奥に不快感を覚えた。重くのし掛かるような不快感。その正体も分かっていた。


 これは、罪悪感だ。


「ごめんね。大変だよね。来週は、家で待ってる?」

「何でそうなるんだよ?」


 洋平は立ち上がると、尻に付いた砂をパンパンッと払い落とした。


「ボディーガードが家にいたままで、どうやって守るんだよ?」


 当然のように言う洋平は、美咲が抱いた罪悪感に気付いていない。当たり前だが。


「とりあえず終わったんだろ? じゃあ、帰るか。あんまり長居はしたくない」

「わかった。タクシー掴まえようか」


 しろがねよし野の車道には、いたるところにタクシーが停まっている。週末の繁華街は、タクシー運転手にとっては稼ぎ場なのだ。


 二人で近くの交差点まで行くと、すぐに停車中のタクシーが見つかった。『空車』の表示を出したタクシーが、五台も並んで停まっている。


 五台のうちの一台に乗り込み、美咲は運転手に行き先を伝えた。自宅。


 タクシーが、ネオンに照らされた明るい車道を走り出した。


 美咲は、今日は洋平から離れて座らなかった。彼はもう異臭などしないし、何より、くっついていたいと思った。後部座席の真ん中で寄り添う。美咲の左腕と洋平の右腕が、体温を感じ合えるほどくっついていた。でも、寄りかかったりはしない。彼は疲れているから。


「洋平、疲れたでしょ? 帰ったらすぐに寝る?」


 この「寝る」は、セックスのことではない。今の洋平には、そんなことをする気力すらないように見えた。


「いや。疲れたって言うか、腹減った。飯食いたい」


 美咲にくっついたまま、洋平は後部座席の背もたれに体を預けている。ぐったりとしながら顔を上に向け、目を閉じていた。その姿は、空腹を訴えているようには見えない。むしろ、食欲さえ失うほどの疲労を抱えているように思える。


「腹減った、って。疲れてるんじゃなかったの? 死にかけてる人みたいな顔してるし」

「疲れてるよ。疲れてるし、腹減った。だから、まずは飯を食いたい」


 つい、美咲は、小さく笑ってしまった。空腹で、こんな死にそうな顔になっているなんて。


「いいよ。じゃあ、近くのコンビニで何か買っていく?」

「いや。美咲の飯が食いたい」


 即答だった。1+1=2、と答えるときのように、当たり前に洋平は言った。それは明らかに、彼の本心だった。少なくとも彼は、即答でお世辞を言えるほど器用な人間ではない。


「いいの? 用意するのに、少し時間かかるよ。作り置きもないし」

「いいよ。待つのは問題ない。お前の飯、旨いから」


 走る続けるタクシーの中で、一瞬だけ、街灯の明かりが洋平の顔を照らした。目を閉じている洋平。


 その表情は、疲れ切っていながら、どこか穏やかそうにも見えた。ひと仕事終えた達成感。そんなものを感じている顔。疲労の色が濃すぎて、今まで気付けなかった。


 洋平は本当に、本気で自分を守ってくれているんだ。分かり切っていたことを、美咲は再度実感した。


 先週だってそうだ。あんなに汗だくになりながら、美咲をつれて、必死に逃げてくれた。自分の危険も顧みないで。


 胸が重苦しくなる。美咲は、洋平の肩に頭を乗せた。彼と、できるだけくっつきたいと思った。


 自分が抱えている、重苦しい気持ち。美咲は、その正体に気付いていた。罪悪感と、不安な気持ち。自分を守ってくれる洋平に対する、気持ち。そんな気持ちを抱えていたから、今日の客を見送ったとき、溜息が出た。


 洋平は、自分を守ってくれる。見てくれる。学もなく、常識知らずで、だからこそ純粋な目で。嘘偽りなく美咲を心配し、裏表なく美咲を見てくれて、自分を犠牲にしてでも美咲を守ろうとしてくれる。


 美咲はふいに、出掛ける前に洋平が言った言葉を思い出した。


『逃げ切れないと判断した場合は俺が引き止め役として戦う。お前は、その間に逃げるんだ』


 洋平はそういう人なのだ。自分を犠牲にしてでも、自分より弱い人を守ろうとする人。体中についた無数の傷痕は、弟を守るためについたもの。自分を盾にして、弱い弟を守ろうとした証。


 そんな弟を、洋平は失った。理不尽な暴力で。


 そして今は、美咲を守ってくれている。弟のときと同じように、自分に危険が降りかかることすら気にせずに。


 その結果、今度は、美咲を守るために傷付くかも知れない。


 こんなにも純粋な目で、自分を見てくれる洋平が。


 美咲は、先週のことを思い出した。自分に絡んできた暴力団の男達。「ふた目と見れない顔にしてやる」と脅してきた。


 あのときは、恐くなんてなかった。恐いことといえば、顔を潰されたらもう自分を買う男がいなくなるかも知れない、ということだけだった。傷付くことも、死ぬことすら恐くなかった。


 ──でも……


 洋平の肩に頭を乗せたまま、美咲は、彼の顔を見上げた。


 疲れ切って、空腹で、目を閉じている洋平。誰よりも純粋な目で自分を見てくれる、洋平。


 恐かった。洋平が、自分のせいで傷付いてしまうことが。いや、傷付くだけならまだいい。下手をすれば、殺されるかも知れない。


 自分を見てくれるこの純粋な目が、永久に消えてしまうかも知れない。


 寒気がした。タクシーの中は暖房が効いているのに。体の中から氷の針が突き出したかのように、鳥肌が立った。


 それなら、もう、売春なんかやめればいい。ほとぼりが冷めるまで、しろがねよし野に近付かなければいい。


 選択すべきことは、簡単に頭に浮かぶ。けれど、それを選べない。それはそれで不安なのだ。中学のときに、初めて人に見てもらえる喜びを覚えた。褒めてもらえる快感を知った。


 自分の価値を感じられる瞬間。


 そんなものより洋平の方が大切なのは、言うまでもない。それは分かっている。それでも、失いたくないのだ。捨ててしまうのが恐いのだ。


 不安と恐怖で、体が震える。真冬のような寒さを感じる。


 怖い。どの選択をするのも怖い。どんな結末になっても怖い。心が寒くなる。指先が、冷たさで動かなくなるほどに。


 震える手を動かした。洋平の手に触れた。温かい手。


 温かさを求めて、美咲はそっと、洋平の手を握った。

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