第九話 守りたい気持ちと、淫らな気持ちで、側にいて
洋平が美咲の家に居候を始めてから、一週間が経っていた。
金曜日。午後四時。
美咲は、彼女自身が出した提案通りに洋平の面倒を見てくれた。
毎日、弟の分も含めて朝晩の食事の用意をしてくれた。昼食の作り置きまでしてくれた。外出するのに必要な服も買ってくれた。
もともと洋平が着ていた服は、洗っても落ち切らないほどに汚れていた。そのため、新しい服を何着か買った後にゴミ箱行きとなった。
朝になったら美咲は学校に行き、夕方帰宅する。家事を一通りこなすと、一緒に夕食を食べた。二人でテレビやネットの動画を見て、寝る前には毎日セックスをした。
セックスの後は、心地よい疲労感に包まれながら抱き合って眠り、朝を迎える。そんな生活を一週間繰り返していた。
美咲が学校に行っている日中、洋平はリビングで筋力トレーニングをする。
美咲を守る。それが洋平の仕事。報酬は、この生活と彼女とのセックス。
洋平は、暴力沙汰に関しては素人だ。美咲を助けたときは、不意打ちと逃げの一手でどうにかできた。しかし、自分達に狙いを定めて襲ってくる奴等に対して、この手は使えない。むしろ、不意打ちを受ける可能性があるのはこちらの方だ。
どう対策をすべきか。考えた末の結論が、筋力トレーニングだった。格闘技の経験もなければ戦うための訓練方法も知らないので、それしか選択肢がなかった。
筋力トレーニングで体力がつけば、超能力のレーダーの維持時間も伸びるだろうという期待もあった。レーダ-を使用しているときの体力の消費量は、通常の運動時よりも多い。
レーダーを長時間維持できれば、自分達を狙う奴等の存在をいち早く察知できる。そうすれば、逃げ切ることも不可能ではない。そんな狙いがあった。
大学生の家に強制的に不法侵入して生活しているときに、家主の大学生に警察を呼ばれたことがある。そのときも、レーダーを駆使して警官の動きを察知し、逃げ延びた。それと同じ要領だ。
この一週間で、美咲の父親と顔を合わせることは一度もなかった。一階に住んでいることは確かなようだが、彼女の様子を見に来ることもない。本当に、ただ同じ建物に住んでいるだけで、互いに干渉しない生活をしているのだ。
二、三日前に、セックスの後の会話で、美咲が言っていた。
「あの人は、自分が後ろ指をさされるのが嫌なだけなの。育児を放棄した、って。そんな面倒なことになるのが嫌だから生活費はくれるし、学校にも行かせてくれる。でも、それだけ。子供の保護っていう親として最低限のことだけして、あとは放置されてたの。昔から、ずっと」
家族からの愛情どころか、関心すらない。兄弟姉妹もいないから、独りぼっち。物理的には裕福でも、心は貧困。それが、洋平が美咲に抱いた印象だった。
守りたい、と強く思った。暴力沙汰に関してはもちろんのこと、美咲は、心も弱いのだ。愛情を受けることなく育ったが故の、自分を大切にできないという弱さ。自暴自棄にも似た弱さ。
美咲が自分自身を大切にできないなら、俺が大切にしてやりたい、と思った。だから、守りたい。
もちろん、そんな保護欲だけが美咲を守る理由ではない。暖かい家の中で、安心して布団に入って眠れる生活。旨い食事が出てくる生活。荒ぶる自分の情欲を発散するようにセックスできる生活。人間の三大欲求を不足なく満たせるこの生活は、洋平にとって天国とも言えた。
どうしても失いたくない、満ち足りた生活。
理由は、目的意識を高める。弟を失ってから七年も経って、洋平は久しぶりに、生きる目的を見つけた。美咲を守る。それが今生きている理由であり、目的でもあった。
目的意識は、活動意欲を強くした。少しでも自分を強くするために、積極的に動けた。
腕立て伏せ、腹筋、スクワット。洋平が知っているたった三種類の筋力トレーニングを、黙々とこなした。
全身がほどよい疲労感に包まれた後、その場に自然体で立ち、意識を集中させた。
時刻は四時半になっていた。そろそろ、美咲が帰ってくる時間だ。
洋平は自分の周囲にレーダーを広げた。洋平自身が超能力だと思っているもの。これを使えば、自分を中心として半径約十五メートルくらいの範囲の動きが分かる。人の動きはもちろん、小動物の動きも、風や無機物の動きまで。
この家の敷地内に、人がひとり入ってきた。身長は一五五センチほどか。その体つきから、女性と分かる。長い髪の毛。右肩に掛けた鞄。彼女はこの家の門を通ると、正面にある玄関には向かわず、家の裏側に足を進めた。
裏手にある外階段を上る。足の動きまではっきりと分かる。右足、左足、右足、左足。足を交互に出して階段を上ってくる。
階段を上りながら、鞄から何かを取り出した。長さ十センチにも満たない硬質感のある物。階段を上り切ると、取り出したそれを鍵穴に差した。くるりと回す。家の鍵が開いた。ドアノブを掴む。回す。ドアを開けた。
「ただいまー」
ドアを開けた美咲が言った。玄関のドアを締め、今度は玄関とリビングの間のドアを開けた。
その直後に、悪態を突いてきた。
「うわっ。汗臭っ。ちょっと、トレーニングするのはいいけど、終わったら窓開けて! 換気して! 臭いんだから!」
「ああ、悪い」
洋平はレーダーを解いた。広げていたレーダーが自分に向かって急速に縮む。体の中に吸収されてゆくような感覚。体がズッシリと重くなる脱力感。息切れはしないが、疲労感は大きい。黙々と行った筋力トレーニングよりも、レーダーを使ったときの方が疲れた。
「じゃあ、シャワー浴びて。私も浴びる。んで、軽く何か食べてから、行くよ」
どこへ行くかは聞くまでもない。毎週末に美咲がしろがねよし野へ売春をしに行くのは、もう分かり切っている。
「ああ。ただ、その前にひとついいか?」
「何?」
美咲はすでに制服を脱ぎ始めていた。毎週違う男の前で裸になり、洋平とも毎日セックスしているとはいえ、自分の体を晒すことに抵抗がなさ過ぎる。これも、自分を大切にできないが故だろう。
洋平は美咲をじっと見た。彼女の体ではなく、その目を。
視線が絡む。
美咲は、制服を脱ぐ手を止めた。
「俺は、はっきり言って強くない。だから、襲ってきた奴と正攻法で戦ってお前を守るのは難しい」
「え?」
美咲は、その大きな目を丸くした。
「でも、先週は助けてくれたでしょ? あんなゴツい奴等を叩きのめして」
「あれは、不意打ちで上手いことやっただけだ。まともにやり合ったら、間違いなくやられる」
「そうなの?」
「ああ」
洋平の体は大きくない。身長は一七〇センチもない。体重だって、六十キログラムもない。男としては小柄と言える。
動物の戦力というのは、概ね体格に正比例する。大きければ大きいほど強い。人間も例外ではない。だから、格闘技には体重別の階級があるのだ。
「だから、もし襲われたら、とにかく逃げる。戦うという選択肢は、基本的にはない。例外として、逃げ切れないと判断した場合は俺が引き止め役として戦う。お前は、その間に逃げるんだ。いいか?」
美咲は、丸くした目を少し細めた。心配そうな、不安そうな──そんな目。そんな表情。
「あんたはそれでいいの?」
「それが俺の仕事だろ?」
美咲を守るのが自分の役目。この生活の見返りとして。セックスの見返りとして。同時に、洋平自身の気持ちとして。
「ただ、行き帰りはタクシーを使いたい。できるだけ襲われやすい状況でいたくない。いいか?」
「うん。わかった」
頷くと、美咲は、洋平の間近まで迫ってきた。互いの呼吸が感じられる距離。視線は絡んだまま。互いの瞳の中にいる自分が、確かめられる距離。
美咲の瞳の中に、自分がいる。まるで、そこに住んでいるかのように。その、洋平の住処となっているような彼女の瞳が、閉じられた。彼女は軽く背伸びをする。唇が近付く。
洋平の唇に、美咲の唇が触れた。柔らかい、彼女の唇の感触。貪り合うように舌を絡めるでもない、触れるだけのキス。
不意打ちのようなキス。
「ありがとう。頼りにしてる」
キスは、毎晩のセックスのときに何度もしていた。こんな、触れるだけのキスではなく。
それなのに、心がくすぐったかった。
不意打ちに驚いたあと、洋平は、そっと自分の唇に触れた。ほんの数瞬前に、美咲の唇が触れた。洋平の唇は、もっとその感触を欲しがっていた。
つい、物欲しそうに美咲を見てしまう。
彼女の気の強そうな目元が、緩んでいた。
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