第七話 何もない者同士が、心で触れ合って、距離が近付いて
風呂から出ると、美咲は、洋平に、ストックしていた歯ブラシを一本くれた。もう何日も歯を磨いていないと話したら、五回も磨かされた。
体には、彼女が貸してくれたバスローブを羽織っている。洋平の服は、洗濯機の中で回っていた。
洋平が歯を磨いている間に、美咲は濡れた髪の毛をドライヤーで乾かしていた。いい匂いがした。彼女の髪の毛や洗いたての体からふわりと香る匂いは、洋平の情欲を刺激した。さすがに風呂から上がったらパジャマを着ていたが、衣服の上からでも分かる体のラインは、洋平にとって目の毒だった。
理性を殺そうとする毒。
心臓の高鳴りを抑えるように、洋平は強く歯ブラシを擦った。自分に言い聞かせる。我慢しろ。堪えろ。俺は絶対に、弱い者を踏みにじるような奴にはならない。
ドライヤーの音が止まり、髪の毛を軽く櫛で整えると、美咲は洋平の顔を覗き込んできた。大きな目。ややブラウンの瞳。顔を洗って化粧が落ちても、やはり彼女は美人だった。
「ちゃんと磨けた?」
「ああ」
「じゃあ、夕食でも食べようか。作り置きの物もあるし」
「助かる」
うるさいくらいの心臓の音を可能な限り無視して、洋平は頷いた。
洋平は空腹だった。もともとは、食べ物を買う金を得るためにしろがねよし野で獲物を探していたのだ。空腹の状態でレーダーを使い、さらに全力で走った。体のエネルギーが枯渇して、力が入らなかった。
美咲と一緒に脱衣所から出て、リビングに行く。そこにある食卓テーブル。椅子は、一つしかなかった。
「座ってて。作り置きだから、すぐに出来るから。たくさん食べる?」
「ああ。悪いな。何から何まで」
「いいよ。言ったでしょ? 私だって、あんたに助けてもらったんだから」
美咲がダイニングに行くところを目で追いながら、洋平は椅子に座った。ひとつしかない椅子が、ますます彼女の孤独を物語っているように思えた。
待っている間に、リビングを見渡してみる。
殺風景な部屋だった。綺麗に片付いているが──いや、綺麗だからこそ生活感のないリビング。あまり見ていないであろうテレビ。部屋の隅にあるストーブから、温かい風が出ている。
ここで美咲は、毎日、たった独りで過ごしているのだ。誰と会話するでもなく。
「はい」
言葉の通り、美咲はすぐに料理を運んできた。二人分の料理をトレイに乗せたまま、テーブルの上に置く。ビーフシチュー、サラダ、茶碗に盛られたご飯。それが二人分。
食欲をそそる匂いが、鼻孔をくすぐった。口の中が、唾液で満ちてきた。ゴクリと飲み込んだ。湯気の立つ食事。そんなものは、洋平の記憶に久しくなかった。
「あんたは座ってて。私は、立って食べるから」
「悪いな」
「気にしないの」
トレイに乗っているスプーンを手に取り、洋平は、ビーフシチューを口に運んだ。口の中に、スパイスを含んだ甘みのある味が広がる。一緒に口の中に入れた肉を噛むと、ジュワッと旨味が染み出してきた。ずっと噛み続けて味わっていたい。それくらい旨いのに、空腹に急かされて、つい飲み込んでしまう。
合間に米やサラダを口にしながら、洋平は夢中で食いついた。旨かった。今まで食べたどんな料理よりも、旨かった。
温かい部屋。旨い食事。それは、洋平が生まれ育った家にはなかったものだ。
ふいに、洋平の頭に、弟のことが思い浮かんだ。洋平が学校から持ち帰ったグチャグチャになった給食を、旨いと言って食べていた弟。あいつが美咲の料理を食べたら、どれだけ喜んだだろう。どれだけ嬉しそうにしただろう。
弟を守れなかった自分。弱い自分。そんな自分が、こんな旨い飯を食べている。洋平の心に、罪悪感に近い感情が生まれた。体はもっと食いたいと言っているのに、心が、洋平の食事の手を止めた。
「どうしたの? 美味しくない?」
手を止めた洋平に、美咲が聞いてきた。
洋平は首を横に振った。
「凄ぇ旨い。本当に。だから──」
悲しさと、力のなかった自分への悔しさが滲む。
「弟にも食わせてやりたかったな、って……」
「さっき話してくれた、弟?」
洋平は頷いた。
しばしの沈黙の後、美咲は「ちょっと待ってて」とダイニングに行った。すぐに戻ってきた。小さな皿三つに、ビーフシチューとサラダ、ご飯を入れて。それを、テーブルの上に置く。
「はい、これは弟君の分」
「?」
美咲の行動の意味が、洋平には分からなかった。弟はここにはいない。もう死んでしまったのだから。
訳が分からないという顔を見せた洋平に、美咲は、死者へのお供えの意味を教えてくれた。
「こうして、手を合せて、目を閉じて、祈ってあげるの」
「祈るって、何を?」
「何でもいいよ。弟君に話しかけてあげて。大切だったこと。守りたかったこと。一緒に美味しいものを食べたかったこと。だから、こうして食卓を囲んでいること。あんたが弟君に言いたいことを、こうやって言ってあげて」
「……」
洋平は目を閉じて、手を合わせた。
守ってやれなくてごめんな。大切だったのに。何よりも大事だったのに。兄ちゃん、弱くてごめんな。美咲の作った飯、旨いだろ? 今まで食べてきた何よりも旨いだろ? 一緒に食べような。腹いっぱい食べていいんだからな。
頭の中に、弟の姿が浮かんできた。笑っている弟。不器用にスプーンを持って、美咲が作ったビーフシチューを食べている。口の周りには、ご飯粒や夢中になって食べているビーフシチューが付いていた。ベタベタになった口から、嬉しそうな声を出している。兄ちゃん、美味しいね。凄く美味しいね。
閉じた目に、強く力を入れた。そうしないと、涙が出そうだった。悲しい。寂しい。悔しい。苦しい。弟を失ったときの感情が、湧き出るように思い出された。
けれど、洋平の胸にあったのは、そんな気持ちだけではなかった。弟と一緒に、笑いながら食事ができている。旨いなと笑い合いながら、楽しく食卓を囲んでいる。それは、ずっと夢見ていた情景。幸せな家庭の光景。
「ありがとうな、美咲」
目を開けてすぐ近くにいる美咲を見たら、自然に言葉が出た。ありがとう。
美咲は、その気の強そうな顔に、くすぐられたような笑みを浮かべた。
「いいの。じゃあ、食べちゃって。お腹減ってるんでしょ?」
「そうだな」
「食べたら歯磨いて寝るよ。もう遅いし」
「ああ」
夢中で食べ物を口に運び、弟に供えた物も食べた。
美咲は小食なようで、洋平の半分も食べていなかった。それで満腹なのだという。
空になった食器を美咲が洗っている間に、洋平は、彼女に言われた通り歯を磨いていた。
心が温かかった。満たされていた。幸せな気分とは、こんな気持ちのことを言うのだろうか。今まで経験したことのない心地よさに、自然と洋平の表情は緩んでいた。
早々に洗い物を終えた美咲も、洋平と同じように歯を磨いた。コップを使い回して口をゆすぐと、彼女に連れられて寝室に行った。
襖を開けた向こうの寝室は、八畳ほどの広さだった。窓際にシングルベッドがひとつ。洋服箪笥と、タオルなどの生活用品を入れる箪笥がひとつずつ。こちらも、リビングと同じように殺風景な部屋だった。
「俺は床で寝ればいいか?」
当たり前の疑問を洋平は口にした。
美咲は、馬鹿を見るような目を向けてきた。
「何言ってるの? 予備の布団なんてないんだから。ベッドで寝なよ」
「じゃあ、お前はどこで寝るんだよ?」
「え? ベッド」
「……」
理解が追いつかず、洋平はしばし呆然とした。当然だが、この部屋にベッドはひとつしかない。それはつまり──
「一緒に寝るのか?」
「それしかないでしょ?」
あまりにも軽い口調で言われ、洋平は思い出した。美咲は、しろがねよし野で売春をしていたのだ。男とひとつのベッドに入ることに、抵抗などないのだ。
つい先ほどの、温かい食事。思い浮かべた、弟の姿。それによって忘れていたものが、再び蘇ってきた。強い心臓の動きとともに。美咲への情欲。暴れ馬のような凶暴な感情。
「悪いけど、枕もひとつしかないから。それは我慢してね」
言うが早いか、美咲はさっさとベッドに入ってしまった。温かそうな羽毛布団。疲れを表すように、大きく息をついていた。
ドクンドクンと、心臓が音を立てている。洋平は羽毛布団をめくり、美咲と同じベッドの中に入った。
布団の中は暖かかった。それは決して、布団の中だから、というだけではなかった。狭いシングルベッドで、美咲の体温をはっきりと感じる。
洋平は美咲に背を向けて横になった。心臓がうるさい。胎児のように体を丸めた。自分の中で暴れる情欲を、抑え込むように。全身に力を込めているせいで、体が強張る。
背中が温かい。美咲の体に触れているのだ。その体温が、やわらかい感触が、鼻を優しく撫でる彼女の匂いが、洋平の理性を攻撃していた。自分を狂わせる、優しい毒のようだ。
荒くなる呼吸を隠すように、洋平は息を潜めた。必死に、自分に言い聞かせた。落ち着け。抑えろ。我慢しろ。弟のことを思ってくれた美咲を、弟に優しくしてくれた美咲を、裏切るな。
自分の悦楽のために、自分より弱い彼女を踏みにじるな。
ベッドの中で、動きがあった。
美咲が動いている。体の向きを変えたようだ。
「ねえ、洋平」
どうやら美咲は、こちらの方を向いたらしい。
「なんだよ?」
荒くなる呼吸を必死に隠しながら、洋平は素っ気ない口調で言った。自分を抑えるのに必死で、素っ気ない言い方しかできなかった。
カラカラに乾いた雑巾のような理性。もう、絞り出すことなどできない。どんなに力を込めても、もう堪え切れない。
「ひとつ、提案があるんだけど」
美咲の声。甘い呼気。それを、驚くほど敏感に背後に感じる。
「提案?」
腹に力を入れることで、洋平の声は低くなっていた。
シーツや羽毛布団が動く気配。衣擦れの音。美咲が、洋平に、体をくっつけてきた。
洋平の体が、とうとう震え始めた。荒い呼吸は、もう隠し切れていない。
「私、きっと、これから、今日みたいな奴等に狙われると思う。だから、守ってくれない?」
「守る?」
頭が働かない。美咲の言葉を理解できない。頭の中も体の感覚も、情欲に支配されてゆく。
「うん。まあ、ボディーガードだね。私が問題なく
「報酬?」
洋平は、馬鹿みたいに美咲の言葉を復唱することしかできない。
「ここに住んでいいよ。今まで住むところもなかったんでしょ? もちろん、食事も出すよ」
魅力的な提案だった。今まで、その日の食事や寝床を得るために、いつも苦労していたのだから。
しかし、今の洋平は、その魅力に目を向けることもできなかった。背中が温かい。美咲の体温が、柔らかい感触が、洋平の理性を崩壊させてゆく。すでに倒壊寸前の理性を留めるように、洋平は、自分の体を抱くようにしてバスローブの袖を強く握った。
「それとね、もうひとつ──」
美咲の呼気が、洋平の耳にかかった。気が付くと、彼女の唇は、洋平のすぐ近くにきていた。
「──私を抱いてもいいよ。あんた、さっきからずっと我慢してるんでしょ? これもね、守ってくれる報酬」
報酬? 美咲の言葉を、今度は口にせずに復唱した。
これが報酬なら……。
「報酬だから、無理矢理じゃないよ。力ずくなんかじゃないよ」
洋平の理性が崩壊してゆく。ガラガラと音を立てて。自分を抑えるように袖を握っていた手から、力が抜けてゆく。
「報酬なんだから、我慢しなくていいんだよ」
洋平の情欲に付け込むような提案。それを口にする美咲の声は、優しかった。提案というよりも、洋平を受け入れてくれているようだった。
洋平の理性は、完全に崩壊した。何かが弾けたように美咲の方に体の向きを変え、抱き付いた。
温かい。柔らかい。いい匂いがする。この体を、滅茶苦茶にしたい。
情欲に溺れ、身を任せた。
この日、洋平は、初めて女の体を知った。
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