第六話 何もない者同士が、二人になって、裸になって



 逃げた先の地下鉄大通駅付近で、少女はタクシーを捕まえた。


 洋平の指示だった。もし、あの男達やその仲間に見つかったら、もう逃げる体力などない。捕まれば、それこそ人生が終わる。


 少女は洋平の指示に素直に従った。何の反論も文句もなく。洋平の臭いを嫌がって、ずっと口と鼻を手で覆いつつも。


 タクシーに乗り込み後部座席に座ると、少女は洋平と可能な限り距離を取って座った。


 本当に俺は臭いんだな。洋平は、つい、また自分の体の臭いを嗅いだ。鼻が自分の臭いに麻痺しているのか、やはりよく分からない。


 少女の自宅に向かうタクシーの中で、二人は簡単な自己紹介をした。


 自分の名前は村田洋平。十六歳。両親は刑務所。父親は弟を虐待の末に殺した殺人犯。母親は、そんな弟を守ろうともせずに見捨て、保護責任者遺棄致死に問われた。


 両親が逮捕された後は児童養護施設に入り、そこを出た後は浮浪者生活をしている。


 洋平は、自分の過去や今の生活を隠すつもりなどなかった。自分のような底辺の人間が、見栄を張る理由などない。


 少女も、簡単な自己紹介をしてくれた。名前は、笹森美咲。十五歳。高校一年。察しの通り、しろがねよし野周辺で売春をしている。


 少女──美咲は、洋平が包み隠さず身の上を話したからか、自分の家庭の状況も話してくれた。


 家はかなり裕福。父親が、祖父から莫大な財産を相続したからだそうだ。


 金銭的には恵まれていたが、両親には恵まれなかった。


 美咲に興味を持つこともなかった両親は、彼女が六歳の頃に離別。


 父親はいつも違う女を家に連れ込んでいる。


 子供の頃から遊んでもらったことはなく、小学校低学年のうちに家事を一通りこなせるようになっても、褒めてもらったことはない。何をしても、どれだけ頑張っても、褒めるどころか興味すら持ってもらえなかった。


「まあ、あんたの身の上に比べたら、可愛いもんだよね」


 美咲は自虐的に笑っていたが、洋平は笑えなかった。


 洋平には、弟がいた。自分の命に替えても守りたいと思えるほど可愛くて大切な、弟が。少なくとも自分には、七年前までは、家族の愛があった。抱き合って支え合える家族がいた。


 そんな洋平に対して、美咲は、家族と暮らしながらも独りで生きてきたのだ。


 洋平は、美咲にかける言葉を見つけられなかった。


 自己紹介が終わると、二人は黙り込んでしまった。


 暗い夜の車道を、ライトを点けたタクシーが走る。


 沈黙の車内。車のエンジン音が、やけに大きく聞こえた。


 大通駅付近から二十分ほど走ると、美咲の家についた。


 一戸建てが建ち並ぶ住宅街。その中のひとつの一軒家。


 美咲が乗車賃を払うと、二人はタクシーから降りた。


 洋平の目の前にある美咲の家は、大きかった。周囲の家々と比べても、かなり大きい。クリーム色の家で、周囲は頑丈そうな塀に囲まれている。その家の所々に、監視カメラがついていた。周囲の街灯に照らされたカメラのレンズが、光を反射している。


「じゃあ、入って」


 美咲が、塀に囲まれた鉄製の柵型の門を開けた。門から真っ直ぐ中に入ったところに、この家のドアがある。


 洋平がドアまで歩こうとすると、美咲に呼び止められた。


「違う違う。そっちじゃない。こっち」


 家の裏側に回り込むように進みながら、美咲は洋平を手招きした。


 頭に「?」を浮かべながら、手招きに促されて洋平は美咲についていった。


 家の裏手に回り込むと、二階部分に上がる外階段があった。


「一応、父親とは同じ家に暮らしてるんだけどね。生活区域は別にしてるの。あの人は一階。私は二階。基本的に、互いの生活には干渉しない」


 洋平の前で階段を上がりながら、美咲が言った。何の感情も込もっていない、事務的な説明口調だった。まるで、彼女自身の父親への期待値を表すかのように。


 階段を上りきると、二階にも玄関があった。裏口、といった印象を受ける出入り口ではない。どこにでもある家の玄関のようだ。


 美咲が、鞄から鍵を取り出した。鍵を開けて、ドアをひらく。


「じゃあ、入って」

「えっと……お邪魔します?」


 洋平は靴を脱ぎ、美咲に促されるまま家の中に入った。


 玄関から家の中に通じるドアを開けると、すぐにリビングダイニング。ダイニングは独立していて、入り口から見て右手側にある。


 かなり広いリビングの左側には、手前にドアが一つと、奥に襖が一つ。


 二階建ての一軒家なのに、なぜか、一階に通じる階段はない。まるで、マンションの一室のようだ。


「あ、トイレは玄関のところにあるから。行きたかったら行ってきて」

「いや、トイレはいい」

「じゃあ、すぐにお風呂に入って。とっとと洗うから」

「とっとと洗うって。洗濯かよ」

「あ、洗濯って単語は知ってたんだ。じゃあ、話は早いや。脱衣所の洗面所のところに洗濯機があるから、あんたの服は全部そこに入れて。あんたもだけど、あんたの服も臭い。本当に臭い」


 三度みたび言われて、洋平はまた自分の体の臭いを嗅いだ。


 この家の中は、優しい匂いがする。そのせいか、ようやく、洋平は自分の臭いが分かってきた。確かに臭いかも知れない。


「とりあえず私は、着替えとバスタオル持ってくるから」


 美咲の言葉に、洋平は首をひねった。


「着替え? 俺に服を貸してくれるのか?」

「そんなわけないじゃない。男物の服なんて、私、持ってないし」

「?」


 言い捨てて、美咲は、奥にある襖の部屋に入っていった。あそこが、彼女の寝室なのだろう。


 美咲の言葉に疑問を残したまま、洋平は浴室のドアを開けた。


 綺麗な脱衣所兼洗面所と、風呂場。乾燥機付きのドラム型洗濯機があった。冬の寒さを凌ぐために入ったことのある、コインランドリーの洗濯機のようだ。


 洗面所には、綺麗に磨かれた鏡と化粧道具。歯磨き用と思われるコップ。そのコップには、歯ブラシが一本だけ入っている。


 美咲は本当に、この家で独りで暮らしているのだ。家族の愛情も知らずに。洋平が弟に与えていたような愛情も、洋平が弟に貰っていたような愛情も、彼女は知らない。


 なんだか胸がむず痒くなるような感覚に包まれながら、洋平は服を脱いだ。全裸になり、着ていた物を洗濯機に放り込む。


 風呂場のドアを開けた。


 風呂場は、洗面所と同じように綺麗だった。カビ一つ見当たらない。


 壁に掛けられているシャワーのノズルを手に取った。お湯を出す蛇口を探す。だが、シャワーのホースの終点にあったのは、回すタイプの蛇口ではなく、レバータイプの物だった。洋平が初めて見るタイプの蛇口だ。


 シャワーのノズルを持ったまま洋平はしゃがみ込み、レバーをじっと見た。


 これは、どうやったらお湯が出るんだ? レバーを上げるのか? 下げるのか? いや、そもそも、このレバーが本当に蛇口なのか?


 試せばすぐに分かりそうなことを、何もせずに考え込んでしまった。


 そんなふうにして洋平が水の一滴も出せずにいると、唐突に、風呂場のドアが開いた。

 

 ドアの方に視線を向ける。その直後、洋平は、口を開けた間抜け面で硬直してしまった。


 人間は、あまりに予想外のことが起こると、思考が停止して硬直してしまう。今の洋平のように。


 風呂場のドアを開けたのは、美咲だった。長い髪の毛を掻き上げて、後で束ねている。


 全裸のところに彼女が現れたのだから、驚いて当然と言えた。とはいえ、それだけで、ここまで驚いたりはしない。


 美咲も全裸だったのだ。下着すら着けていない。正真正銘、一糸纏わない全裸だった。しかも、自分の体を一切隠すこともなく、右手にタオルを持ち、左手は自分の腰に当てている。


 しばらく硬直していた洋平だが、数秒の後、ようやく声が出た。


「いや、せめて隠せよ! タオル持ってんだから!」

「は?」


 美咲は、意味が分からない、という様子で眉を動かした。


「何言ってんの、あんた」

「それはこっちのセリフだ!」


 美咲は大きく溜息をついた。


「なんで今更隠す必要があるのさ? 私は、ほぼ毎週、男の前で裸になってるんだよ? 分かってるんでしょ?」

「いや……それにしても……ていうか、何で入ってくるんだよ?」

「だって、私も汗かいたから。あんたが無理矢理走らせるから」


 当たり前のように言われて、洋平は言葉に詰まった。


「とりあえず、あんたから先に洗うよ。臭いし汚いし、見るからに垢だらけだし。ほら、背中向けて。っていうか、まだお湯も出してなかったの? 私が来るまで、何してたの?」


 矢継ぎ早に文句を言う美咲に対して、洋平は何も言えなかった。まったく想定していなかった事態に、戸惑うことしかできない。

 

「ほら! 早く背中向けて!」


 洋平からシャワーのノズルを奪うと、美咲が命令してきた。お湯を出す。どうやらこのシャワーは、レバーを上げることでお湯が出るらしい。


「いいよ、自分で洗うから」


 洋平の言葉に、美咲が強い口調で反論してきた。


「こんな汚い背中を、自分で綺麗にできるわけないでしょ。文句言わないで早く背中向けて!」


 バチンッ、と背中を叩かれた。


 ジーンとした痛みを感じながら、洋平は美咲に背中を向けた。


 ボディーソープの優しい香りがした。美咲が、タオルで泡立てているのだろう。シャワーから出るお湯から湯気が出て、視界がやや曇ってゆく。


 背中に、柔らかく温かい感触を覚えた。美咲が、背中を洗ってくれているのだ。父親に数え切れないほど殴られ、蹴られ、煙草の火を押し付けられた、傷だらけの背中。


 そんな洋平の体を、美咲が優しく洗ってくれている。汚いと連呼しながらも、強く擦ったりしない。丁寧に、背中から足まで洗ってくれる。


 弟が殺されたとき、洋平は右脛を骨折した。手術が必要なほどひどい骨折で、今でも少し変形している。そこも、大切なものを扱うように、優しく洗ってくれた。


 そういえば、昔、週に一度だけ許された風呂で、弟の体を洗ってやったな。こんなに優しく洗ってやれなかったな。あいつは、シャンプーが目に入ったって言って、泣いていたな。傷だらけの俺の体を見て、いつも守ってくれてありがとうって言っていたな。


 もう二度と会えない弟を──守ってやれなかった弟を思い出して、洋平は、目頭が熱くなった。それでも、決して泣かなかった。人前で涙を流したくなかった。


 洋平の汚れは本当にひどかったようだ。美咲は結局、三回もボディーソープで洗い、シャワーで流していた。


「なんか、年末の大掃除でもしてる気分。あんまり汚すぎて、なかなか綺麗にならないんだもん」

「ごめん」


 つい、洋平は謝ってしまった。


「まあ、いいけどね。助けてもらったし。じゃあ、次は頭洗うから、座って、目を閉じて」

「ああ」


 素直に座り込み、目を閉じた。助けてもらったし、か──と、胸中で美咲の言葉を反芻した。一応、感謝されているんだな。


 シャワーで、頭にお湯をかけられた。頭全体を濡らすように、美咲の手が洋平の頭を撫でる。すぐ後に、頭部に冷たい感触。シャンプーだろう。泡立てるように、再び美咲の手が洋平の頭を撫でて──


「!」


 背中に温かい感触を覚えて、洋平の頭の中が真っ白になった。美咲の体が、自分の背中に触れている。柔らかい感触。それは明らかに、彼女の胸だった。


 洋平は体を硬直させてしまった。驚きと、それ以外の感情で。美咲は洋平の頭を揉むように丹念に洗っているので、当然、洋平の背中に触れている彼女の胸も動く。


 洋平の心臓の鼓動が、急激に速くなった。十六歳。人生の中で、もっとも激しい気性を抱く年頃だ。それは、凶暴性や情熱、熱意だけではない。むしろ、男にとっては、情欲を一番強く抱く年頃だ。


 その感情は、洋平の体に、当然の変化をもたらした。


 なんだか恥ずかしくなって、洋平は、自分の体が反応していることを美咲に気付かれないよう、ただ必死に祈った。祈ることしかできなかった。全裸で頭を洗われている状態なので、隠しようもない。


 そんな洋平の祈りは、虚しく砕け散った。


「あーあ、しっかり反応して」

「……」


 目を閉じているので、美咲の姿を見ることはできない。だが、彼女の視線が自分のどこを見ているのかは、容易に知れる。洋平は、恥ずかしさで黙り込んだ。


「あんたも正常な男なんだね」

「……」

「まあ、若い男が無反応だったら、それはそれで変だし」

「……」

「あ、襲ってもいいけど、体中綺麗に洗ってからにしてね。汚いままやられるのは、さすがに嫌だから」

 

 消えてしまいたいほど恥ずかしい。そんな洋平に比べて、美咲の反応は、あまりにドライだった。


 再び、頭にシャワーのお湯をかけられた。シャンプーが洗い流された。なんだか、頭が軽くなった気がする。気持ちは重くなっているが。


 シャワーから出る水音が止まった。


 美咲が、絞ったタオルで顔を拭いてくれた。目を開くと、全裸の美咲がいた。いつの間にか、洋平の前に来ていたらしい。


「はい、背中と手足は洗ったから、前は自分で洗ってね。タオル貸すから。あ、あと、襲うなら、前と股のモノを洗ってからにしてね。その後でなら、好きにしていいから」


 あまりに軽い口調だった。このお菓子、食べていいからね。それくらい軽い口調。自分を軽く扱う口調。自分の価値を、軽く考えている雰囲気。


 美咲の体から目を逸らす。突き放すような声が、洋平の口から漏れた。


「襲わねーよ」


 正直になところ、抑え切れないほどの情欲に襲われている。心臓が、張り裂けそうなほど高鳴っている。興奮している。初めて見る女の裸に、体が勝手に動きそうだ。つい伸びそうになる手を、震えながら制御した。我慢しているのが辛い。だから洋平は、美咲の体から目を逸らした。


「なんで?」

「嫌だから」

「そんなふうになってるのに? したくないの?」

「そうじゃなくて」


 学のない洋平は、必死に頭の中で言葉を探した。弟を虐待する父親の姿を思い出した。あんな人間にはなりたくなかった。狭い世界で、自分より弱い人間を踏みにじって悦ぶような人間には。


 弟が死んだ日。父親が、弟に最後の一撃を食らわせた日。彼は、弟の頭をサッカーボールのように蹴った。まだたった四歳の、小さく弱い弟を。致命的な打撃を受けて痙攣する弟を見て、何が可笑しいのか、大笑いしていた。


 弱い者を踏みにじって自分の欲求を満たす、下衆の姿。


 どんなに荒れた生活をしても、どれだけ犯罪を重ねたとしても、あんな人間にはなりたくなかった。そして、できることなら、弱い者を守れる人間になりたかった。


 不器用に、洋平は言葉を紡いだ。


「力でねじ伏せて楽しむのは、嫌だ」


 洋平は、まだセックスの経験がない。だから、それが楽しいことなのかは分からない。けれど、今抱えている暴れ狂うような情欲を解消できるのだから、きっと楽しいのだろう。

 

 楽しいのだろうが、それを、力ずくで満たしたくなかった。そんな気持ちをどんな言葉で表せばいいか、分からない。


 目の前で、美咲が、驚いたように目を見開いていた。大きな目をさらに大きく見開いている彼女は、文句なしに美人だった。やがて、その目を細め、口元を大きく横に伸ばして笑みを浮かべた。ずっと、どこか斜に構えていたような彼女が、初めて年相応の笑顔を見せた。


「年上にこんな言い方も変だけど、あんたって、純粋でいい奴だね」


 美咲はその場で立ち上がり、座ったままの洋平の頭に軽く手を置いた。濡れたままの洋平の頭から、ペチンッと水音が鳴った。


「お風呂から上がったら、ご飯でも食べようか。お腹減ってるでしょ?」


 彼女の声が優しくなったように感じたのは、きっと、気のせいではない。

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