第五話 何もない者同士が、逃げてきて、ここまで来て



 暴力団の男達を、なんとか振り切れた。


 地下鉄大通駅付近の人通りの多い歩道で、洋平は力尽きたようにその場に座り込んだ。


 まだ寒い季節に似つかわしくない大量の汗が、額から流れ落ちている。洋平が座り込んでいるアスファルトには、雨でも降ったような染みがついていた。


 逃げ切れた。守れた。守り切れた。


 自分が成し遂げたことを、胸中で繰り返す。戦うことなどできない弱い自分でも、この少女を守り切れた。深い安堵と達成感が、洋平の心を包んでいた。それはまるで、自分が抱え続けている後悔を少しだけ癒やすように。


 呼吸が落ち着いてきて、洋平は、顔を上げて周囲を見回した。


 大通りを歩く、週末を楽しむ人々。彼等は、こんなところで座り込んでいる洋平を変な物でも見るような目で一瞥し、避けて通り過ぎてゆく。


 つれて逃げてきた少女が、洋平の前にしゃがんで顔を覗き込んできた。


「大丈夫なの?」


 少女の額にも、こんな季節に似つかわしくない汗が浮かんでいた。前髪が額に張り付いている。自分と同じ年頃のはずなのに、妙に艶っぽい。


「なんとかな。足がガクガクだけど」


 言葉の通り、洋平の足は膝から震えていた。疲労と、緊張と、恐怖で。


 恐かったのだ。また守れないかも知れない、ということが。自分が弱いということが。


「もう話しても大丈夫なら、教えて。どうして、私を連れて逃げたの? どうして助けてくれたの?」


 少女と目が合った。艶っぽい少女の、気の強そうな目。


 それなのに、その目はどこか寂しそうだ。


 洋平は少女から目を離し、顔を伏せた。


 目の前にいる少女は、文句なく美人だ。そんな彼女と目を合わせているのが、なんとなく照れ臭かった。同時に、彼女の寂しそうな目を見ていると、なんだか心が痛かった。


「お前、あの辺りで売春ウリでもやってたんだろ?」


 目を逸らした洋平の口から、ぶっきらぼうな声が出た。


「まあね」

「少しは考えて行動しろよ。警戒心とかないのか? あんなところで派手に売春ウリなんてやってたら、目ぇ付けられるに決まってるだろ」


 洋平は、他人に説教をできる生き方などしていない。それは自分でも分かっている。それでも、言わずにはいられなかった。初対面の、名前も知らない少女。そんな彼女でも、見捨てられなかった。守りたいと思った。そんな心情に操られるように、勝手に体が動いた。


 まるで、子を守る親のように。

 親のように、子を心配する言葉が口から漏れる。


 もっとも、洋平自身は、親に守られたことなど一度もないのだが。


「えっと……じゃあ、何?」

「なんだ?」

「あんたは、ただ意味もなく私を助けてくれたの? あの男達の敵対勢力とかでもないのに」

「俺のどこがヤクザに見えるんだよ?」

「まあ、そうだけど。本当にそれだけなの?」

「そうだよ」

「……」


 少女が沈黙した。何も言わず、口を閉ざしている。


 沈黙に気まずさを感じて、洋平は顔を上げた。


 再び、少女と目が合った。綺麗な顔をした、艶っぽい、気の強そうな少女の顔。その目は、明らかに怒っていた。


「馬鹿じゃないの!?」


 気の強そうな顔立ちによく似合う、気の強そうな罵倒が飛んできた。


 思わず洋平は、目を見開いた。


「あんた、あのまま捕まってたらどうなってたと思う? ただじゃ済まないよ!? 下手すれば殺されてたんだよ!?」


 座り込む洋平と大声で怒鳴る少女は、通行人の注目の的となっていた。もっとも、通り過ぎてゆく人々は「関わらないようにしよう」という気持ちを顔に出して素通りしてゆくが。


「それはお前だって同じだろ。あのままだったら、どんな目に遭ってたか」

「私のはただの自業自得! 自分の行動の結果なんだから! でも、あんたは──」


 唐突に、少女の声が止まった。驚いたように目を見開き、自分の口元を素早く押さえた。


 まさか、あの男達が追ってきたのか!?


 洋平は自分の後を振り返った。だが、そこには、洋平達から目を逸らして歩く通行人しかいない。


 洋平は再び少女の方を向いた。直後、罵倒が飛んできた。


「あんた、臭い!」

「は?」

「臭いの! あんた! 臭いっていうか、完全に悪臭! 公害レベルなんだけど!」


 言われて、洋平は、袖口を自分の鼻まで持ってきた。スンスンと臭いを嗅いでみる。自分の臭いはよく分からない。


 嗅いだ後、つい、首を傾げてしまった。


「あんた、お風呂に入ってないの?」

「えっ……と……」


 風呂には入っていない。最後に入ったのはいつだったかと、記憶を遡る。不法侵入していた学生のマンションを出る前だから──


「たぶん、二十日くらい入ってないと思う」

「うっわ! 最悪!」


 少女は立ち上がり、洋平の腕を掴んだ。そのまま引き上げる。立てということらしい。


 重い足に力を入れて、洋平は立ち上がった。


「とりあえず、私の家に来なさい! お風呂に入れるから! 臭いし汚いし!」


 怒ったような顔で吐き出された、少女の言葉。


 は?──と洋平は、頭に疑問符を浮かべた。来なさい? 私の家に? え? は?


「何言ってんだよ!? お前! 家って!? 親は!?」


 それは、洋平にとっては当たり前の疑問だった。


 普通の子供は、親と一緒に暮らしている。親のもとで暴力など受けることもなく生活し、面倒を見てもらい、怯えることも食べる物に不自由することもなく生きてゆく。


 自分自身は普通の生活を送れなかったが、それくらいの常識は、洋平にだって分かっていた。分かっているつもりだった。


 知らなかったのだ。暴力や虐待がなくても、不幸なことがあるなんて。


 少女は、その気の強そうな顔を少しだけ歪ませた。心が痛い。そんな顔だった。


 彼女の右手は、洋平の腕を掴んでいる。空いている方の左手で、自分の胸を押さえた。心の痛みを訴えるような表情に、笑みが浮かんだ。明らかに、自棄的な笑みだった。


 見ている洋平の胸に針が刺さるような、笑みだった。


「大丈夫だよ。うち、親なんていないようなものだから」

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