第四話 何もない者同士が、手を取り合って、逃げ出して



 立ち並ぶ家々の塀に囲まれた、夜の路地で。


 異常に強く速く脈打つ心臓の鼓動を感じながら。


 洋平は思い切り、特殊警棒を振り下ろした。少女の胸ぐらを掴む、男の頭に向かって。手加減など、一切なしに。


 ──ゴンッ


 鈍い音と、固く重い感触。


 男は少女の胸ぐらから手を離し、うずくまってその場に倒れた。失神はしていないようだ。血が吹き出る頭を両手で押さえている。


 一人の男が殴られたことで、他の二人が洋平の存在に気付いた。しかし、まだ臨戦態勢になれていない。唐突に現れた洋平に対し、この場ですべき判断ができずにいる。


 男達に正常な判断をする隙を与えてはいけない。奇襲は、時間が生命線だ。コンマ何秒という、人間が正常な思考を繰り広げるまでの時間。その時間を与えてしまったら、完全に終わりだ。


 洋平は間髪入れずに特殊警棒を振り上げた。自分から見て右手側にいる男の頭に振り下ろす。


 ──ゴンッ


 再び、鈍い音と固く重い感触。


 二人目の男も頭から血を吹き出し、その場に蹲った。


 流れるような動きで、洋平は残りの男に向かって特殊警棒を横凪に振った。狙いは、男の側頭部。


 ──ゴキッ


 他の二人を殴ったときとは違う感触が、手に伝わってきた。何か固い物が割れるような感触。特殊警棒が当たったのは、男の目の横あたりだった。


 この感触には、覚えがあった。洋平の記憶に蘇る、弟が殺されたときの記憶。そのときに洋平は、父親の暴行により右足の脛を骨折した。そのときの折れた感触とよく似ていた。


 おそらく、男の目の周辺の骨が折れた。


 もちろん、男の怪我の具合を気にしている余裕はない。


 男三人は決して軽傷とは言えない怪我を負った。もしここで彼等に捕まりでもしたら、その報復は尋常ではないものになるだろう。自分に対してはもちろん、この少女に対しても。


 ──守るんだ! 俺が!


 洋平は少女の手を取った。


 彼女は、目の前で起こったことが理解できずに呆然としている。


「え? 何?」


 少女の口から困惑の声が漏れた。だが、いちいち説明している余裕はない。この男達が動けるようになる前に、この場から逃げないと。


「逃げるぞ!」


 少女を覚醒させるような大声で言い、握った彼女の手を引いて走り出した。


 洋平は、少女の手を握る左手に目一杯力を込めている。絶対に離さない。絶対に守る。そんな気持ちの表れのように。「痛っ」という少女の声が聞こえてきたが、気にしている余裕はない。


 後ろで、男達が立ち上がるのが見えた。想像以上に早い。あれだけのダメージがあったら、普通はしばらく動けないはずなのに。


 これが、暴力の世界に身を置いている人間か。暴力の中で生き、他人を傷付けることに躊躇のない人種。


 洋平の背中に寒気が走った。捕まったら、この少女がどんな目に合わされるか……。その凄惨な光景が容易に目に浮かぶ。


 少女の腕を掴む左手に、洋平はさらに力を込めた。絶対に捕まってはいけない。どんなことがあっても逃げ切らないと。


 住宅街としろがねよし野の間を走る道路に出た。幸い、車の通りはなかった。


 片道三車線の道路を横切り、しろがねよし野の中に入る。


 この街の地理は、綺麗な碁盤の目状になっている。このまま北に向かって走ると、しろがねよし野の出口で国道にぶつかる。そこからさらに北に行くと、市内を走る大通り。文字通り大きな通りで「大通駅」という地下鉄の駅もある。


 大通駅付近まで、ここらか約一・五キロメートルといったところか。


 そこまで逃げ切ろう。男達のあの出血量から考えて、そこまで追ってくる体力はないはずだ。


 しろがねよし野と住宅街を挟む道路には、未だに車が通っていなかった。


 男達も洋平達と同じように、道路を横切って追いかけてきた。


 大勢の人混みをかき分けて、しろがねよし野を一気に突き抜けてゆく。


 後ろから、通行人に対して「どけこらぁ!」と怒鳴っている男達の声が聞こえた。


 後ろの様子を見ると、通行人が男達に道を空けていた。さながら、子供の頃に小学校の図書室で見た、絵本のようだった。モーゼの十戒のごとく、人の海が割れている。


 彼等は怪我をしているとはいえ、少女の腕を引きながら走っている洋平よりも速い。だが、出血や怪我のせいか、足取りはおぼつかない。


 彼等の体力が切れるまで逃げられるか。それとも、捕まってしまうのか。


 いっそ、立ち止まって戦うか。一瞬だけ、洋平の頭にそんな考えが過ぎった。


 洋平は、暴力に関しては素人だ。格闘技の経験もなければ、暴力の渦中に身を置いたこともない。大学生の家に不法侵入した時も、不意打ちで軽傷を負わせて被害者の闘争心を削ぎ、屈服させただけだ。戦って平伏させたわけではない。


 ──でも、今のあいつらの状態なら……。


 浮かんだ自分の考えを、洋平は頭から振り払った。あいつらは暴力の渦中で生きている男だ。重傷を負った状態での暴力抗争も経験があるだろう。そんな奴等に、自分が勝てるはずがない。


 加えて、もし、この周辺にあいつらの仲間がいて、闘争に加わってきたら。


 少女を守りながら戦う自分に、勝ち目などない。


 ここは逃げの一手だ。そう判断し、洋平は必死に走った。


 洋平に腕を引かれている少女は、すでに息を切らしている。


 しろがねよし野を抜け、国道に出た。片道三車線の道路。


 信号は赤だった。しかも、車の通りも多い。とても横切ることなんてできない。


 後ろを振り向いた。男達が迫ってきている。信号が青に変わるのを待っている時間はない。


 少女は、かなり息を切らしていた。運動はあまり得意ではないのだろう。だが、今ここで、彼女の体力を気にしている余裕はない。


 洋平と男達との距離は、約十~十五メートルといったところか。立ち止まってはいられない。


 ここから国道を渡ることは諦め、洋平は国道沿いの歩道を西に向かって走った。次の信号が青だったら国道を渡って大通り方面に向かう。でなければ、このまま走り続ける。


 少女の腕を引く自分の左手に、かなりの重みを感じる。彼女には、もう、走る体力など残っていないのだろう。

 

 後ろの男達の足も遅くなってきている。出血と怪我で、かなり体力を消耗しているようだ。


 次の信号が見えた。青い光が点滅している。ギリギリ渡れるか、といったところだ。ここを自分達が渡れたとしても、男達は渡れないだろう。彼等がここまでくる頃には信号は赤に変わり、多くの車が行き交うはずだ。


 つまりここが、逃げ切れるかどうかの分かれ目。


「渡るぞ! なんとか走れ!」


 自分も息を切らしながら、洋平は少女に声を掛けた。腹の底から張り上げた声だった。実のところ、洋平の体力も限界に近い。ここまで少女を引っ張りながら走ってきたのだから。


 洋平の呼びかけに、少女は息を切らしながら目を見開いた。頷くといった反応はない。むしろ、どこか不思議そうな目で洋平を見ていた。


 横断歩道に一、二歩踏み出したあたりで、信号は赤に変わった。すぐに、車道側の信号が青に変わる。


 なんとか横断歩道を渡り切ると、洋平達が渡るのを待っていた車達が走り出した。


 男達は、洋平達とは反対側車線の歩道に取り残されていた。通りゆく車のエンジン音でよく聞こえないが、何かを怒鳴るように言っている。「待て」とでも言っているのだろう。


 待つわけがない。


 洋平は相変わらず少女の腕を引きながら、大通りに向かって走った。息も絶え絶えで今すぐ座り込んでしまいたかったが、信号が変わったら男達がすぐに追いかけてくるだろう。立ち止まるわけにはいかない。


 後ろから聞こえてくる少女の呼吸も、かなり荒かった。


 足がもつれるほどフラフラになりながら走り、ようやく、大通りについた。


 しろがねよし野ほどではないが、人通りが多い。


 街路樹が立ち並ぶ大通りはしろがねよし野のように明るくはないが、周辺のビルから目映い光が放たれている。


 ここも、週末を楽しむ人々で賑わっていた。


 後ろから男達が追ってくる気配はなかった。レーダーを広げて周囲の様子を確かめたかったが、今の洋平には、そんな余裕などなかった。


 すぐ近くに、地下鉄大通駅の入り口がある。


 体力を限界まで使い果たした洋平は、精根尽き果て、その場に座り込んだ。


 まだ寒い季節に似つかわしくない大量の汗が、ポタポタと流れ落ちている。洋平の顔から落ちた汗は、雨でも降ったかのような染みを地面に作った。


 なんとか逃げ切れた。守り切れた。


 安堵した洋平は、ようやく、掴んでいた少女の腕を離した。

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