五章 堕落


労働場は異様な空間だった。

小さな採光窓とランプの火しか光の無い世界。

か細い光に彩られる見渡す限りの男、男、男…。

どこをどこまで見ても男しか居ない。

加えて作業台とそれで作られる道具らしき物と道具の完成品とがひしめいており、広いとも狭いとも言い切れない。

機能重視なのか単に無頓着なのか、飾りっ気は一切無い。

地上の宮殿と真逆だ。

「貴様はこれからここで働く。

詳しい説明は…そうだな、おい!そこの!」

長が呼ぶと、作業していた内の一人が手を止めて近づいてきた。

肉体年齢と雰囲気が食い違っている中年男だ。

私の父と同年代のようだが、なぜか老人のようにも見える。

「新入りだ。教育してやれ」

「はいよ」

自然な会話だった。

長はともかく中年男の側も一切わだかまりを感じさせない軽さなのはどういう事なのか?

奴隷とはこうも楽に過ごせるものなのか?

…と思ったら中年男は枷の類を全く身につけていなかった。

捕虜とか奴隷とかではないのか…?

「長生きしろ。じゃあな」

…と訝しんでいたら私の枷まで外された。

首と両腕の二つとも。

あれっ?

捕虜ってこれでいいのか?

質問したかったが、長はさっさと階段へ逆戻りしてしまっていた。

「ヨロシク」

「え、あ、はい」

長を追ってみようかとも思ったが、先程の中年男が私の肩を掴んだので断念した。

「君はどこから来た?」

「森で生まれ育ちました」

「森?ははあ道理で…僕なんかとは違うわけだ。命が服着て歩いてる」

誰しもそうではないのだろうか。

思考をそのまま口に出そうとした時、中年男の雰囲気が喉を固めさせた。

言われてみれば確かに彼は諦念が服着て歩いてるような男だった。

この印象こそ、彼の年齢をあやふやにしている原因のようである。

「森育ちという事は旅人か。

丁度いい、今日はもう終いなんだ。

酒の肴になってくれ」

旅の話を聞かせればいいのか?

特に断る理由は無い。

むしろ旅先で現地の人と語らう流れは私が旅に対して抱いていた夢の一つだ。

まさか二度の死刑宣告を経てやっと実現できるくらいの難事とは思ってなかったが。


「ベッドが片方空いてる。

そこでくつろぐといい」

中年男の部屋は相部屋形式になっていた。

相部屋と言っても私の実家の自室より狭い。

蜂の巣か蟻の巣を連想させる、労働場と同じく機能重視の造り。

私は本が散乱していない側のベッドに腰掛けた。

不思議と居心地良く感じるのは、初めて来客として招かれた部屋だからか?

体をほぐしながら待っていると、パン籠と酒瓶とグラスを抱えた中年男が部屋の奥から戻ってきた。

「腹は減ってるか?」

「はい」

「好きなだけ食ってくれ。酒もある」

お言葉に甘え、晩餐に加わる。

世話になっておいて許される言い草ではないかもしれないが、地下でランプの火を見つめながら諦念と共にする食事は明るいものではあり得なかった。

嫌なわけではなくとも、夢から現実への転落感は如何いかんともし難い。

「じゃあ、さっそく旅の話を頼むよ。

そうだな、出発を決意した経緯からじっくりいってくれ」

私のポーカーフェイスが奏功したのか、彼がこの地下のように無頓着な性格だからなのか、特に気にした様子もなく話を促される。

私はひとまず作法を忘れ、頬袋を作りながら語り始めた。


「……それで、今に至ります」

私が語り終えると中年男は一息にグラスの残りをあおり、すぐさま脳を焼く新手を注ぎ足しながら口を開いた。

「今までよく生きてたね」

「私は不運だったのでしょうか?

それとも方法を間違えたのでしょうか?」

「両方だ。落伍者の粗悪品で恐縮だが、助言を聞くかね?」

「お願いします」

「君は強過ぎるんだ。

そして善人過ぎるんだ。

自分の荷物を重いなんて感じちゃいないし、弛まず背負い続ける自分を誇りに思って大事に守れる。

でも他の人間は違う。

君は正義かもしれない。

いや、きっと正義だろう。

でも、他の人間に君の真似はできない。

勿論、僕にもね」

青天の霹靂だった。

「では、人間は正義ではない、と…?」

「その通り。正しい君は、数の論理で言えば驚異的変人さ。

異常者と言っても過言じゃない程の。

普通は荷物なんか持ちたがるもんじゃない。肌身離さずにいなきゃならないようなものでもだ。

誰でも人前でだけ抱えて見せるんだよ。

できれば一生荷物に寄りかかって休んでいたいと願いながらね。

荷物を負う姿に一定の価値を認めていても、立派な事だと理屈でわかっていても、そんなものは休める有り難みに比べれば木っ端同然だ。体を支えるにはあまりに脆い」

「それでは赤子さながらではありませんか。自分の足で立っていられないなんて…」

「君はその赤子の集まりに揉まれてきたんだろう?

人前でもどこでも荷物なんぞ投げ捨てて当然だと泣き喚く保育施設で」

認めざるを得なかった。

彼が私の知る人々を評する言葉は、そのまま私の言葉にしても違和感ないものだからだ。

「肉の街、虹の街、女王。

奴らから見れば、君は封印したはずの荷物を背中に召喚してくる鬼だ。

そりゃ死に物狂いで抵抗されるさ。

奴らは持てて当然の荷物で圧死してしまうくらい弱いんだから。

そんな連中が闊歩する時代に生まれたのがそもそもの不運。

そして君はその不運の中で立派に振る舞う方法をとってしまった。

それは生きる方法としては致命の悪手だ。

今後も人間社会で生きたいなら、人間に正義を求めるのは辞めた方がいい。

逆に君から見れば亡者に説法してまわるようなものだ。

無駄だよ。亡者の前では聖人も凡人も等しく肉塊に過ぎない」

私にとり三度目の死刑宣告に近い言葉だった。

私は正義でありたい。

それを悪い事とは思わない。

当たり前だ。

悪い事じゃないから正義なのだ。

正義は人間、いや現実を生きる知的生命体にとってみ行うべき道のはずだ。

正義が現実を正確に捉えた解釈であるが故に。

だが…中年男によれば、誰かが私に関わる形で悪や非現実を強行する時、私はそれを見逃し、受け入れなくてはならないのだと言う。

私は他の人間が常日頃そうしているのと同じく、所々で正義を降ろしたり投げ捨てたりしなければならないのだと言う。

それは生きるために生きる動物の生であり、人間の生ではなかった。

「人間社会があなたの言う亡者の世界になった理由は、森の消失と関連しているのでしょうか?」

「ゼロとは言わないが、殆ど関係無いだろう。仮に君と同等の正しい生き方をできない状態を死と表現したなら、森が焼かれたのは死体が蹴っ飛ばされた程度の事だ。

焼かれたから正義が失われたんじゃない。

元来正義なんか無かったのさ、人間には。

さもなければ自分を楽にするためだけで森を焼いたりするものか」

女王の言葉を思い出す。

自分が負けない事が森羅万象において最も大切だと。

我らが尊重されぬ世界なぞあってはならん、と。

正誤、善悪、優劣、上下などの区別より、その正確な事実関係の確認より、自分が誤ってない、悪くない、劣ってない、下じゃないと思い込む事の方が最も大切だと考える者は、確かに正義では有り得ないだろう。

当人が正義の否定を目的としているのだから。

「いいかね、人間に正義は無い。

勢い良く駆け抜けていく者が一握り。

残りは駆ける背にタダ乗りする者と意味もなく引きずり倒そうとする者とで半々だ。

もし君がどうしても正義を唱えたいなら、怠け者に便乗したいと思わせるくらい楽で気持ちのいい正義を提供しなきゃいけない。

忘れるなよ」

言葉に熱がこもっているのはアルコール度数のせいだけではないようだ。

私を教え諭す僅かな間のみ、彼が年相応の生命力を取り戻すのが見て取れる。

その生命力がなぜ彼自身に向けられないのか、ふと気になった。

「助言、胸に刻みます。

差し支えなければ次はあなたとこの国の話を聞かせて下さい」

「僕はこの国で教師をやってたんだ…君のお蔭で今夜は楽しかった頃の夢を見られそうだよ。高校に七年勤めてから、有力者の薦めで議員になった」

「なぜ議員が地下で労働を?」

「ここが女王の国だからさ。

まあ、僕が若い頃は別の名だったが、もう今は昔だ。

貴族、政治家、軍人、企業の役員、反体制派…要するに社会の支配者階級の男、女の機嫌を損ねた男は漏れなく地下送りになった。女の自己実現の為、僕はここでひたすら女に尽くさなきゃならないんだと。

ここの男達は全員似たような名目で集められた人柱ってわけさ」

「全員が…?」

「因みに男教師は反体制の一部にあたる。

女王によると、男が女に物事を教えるのは女性蔑視なんだそうだよ。

僕は議員にならなくともここに来る運命だったんだ。

そうやって要職を女で埋め尽くし、女に指示できる立場の男を一掃して、ジェンダーフリーが達成された。女王の言い分ではね」

「ジェンダーフリーとは?」

「社会的性の自由。

男が支配者階級にあるのは社会によって設定された役割分担で、許されない差別なんだとさ」

「それは変です。詳しくはわからないが、男が支配してはならないという法、女が支配しなければならないという法、どちらも実力差を無視した形で社会によって設定された役割分担なのではないでしょうか。

あと、差別は許されないらしいが、女は女であるだけで支配者に値するという考え方は、男を男であるだけで競争相手と見做さぬ差別ではないのでしょうか。

社会的性の自由を謳いつつ『女が支配しなければならない』という新たな性別の役割分担を設定し、差別を許さないと語りつつ男から女と競争する権利を剥奪するなんて言行不一致にも程がある」

「ハハハ…ほんと、よく生きてこられたね君」

「あ…すみません…」

「いいんだ、責めてるわけじゃない。

なんならよくぞ言ってくれたと拍手したいくらいだよ。

ああ、念の為言っておくけど、僕を否定する意見も今の調子でくれ。

心配しなくても僕は殴ったりしない。

僕の手の方が砕かれそうだからね」

彼の冗談めかした言葉は、私にとってはかつてなく心強い約束だった。

「それにしても不思議です。

なぜあの女王は即位できたのですか?

直に話しましたが、とても人の上に立っていい人物ではありませんでした」

「やはり、君もそう思うか…」

元議員は低く呟き、再びグラスを呷る。

そして酒の熱と嘔吐感を借りて喋りだした。

「彼女も元は一介の賊議員に過ぎなかった。凄まじかったよ。

嘘と捏造と妄想と感情論しか無いんだ。

実と呼べる中身が全く無い、レッテルを重ね貼りして創ったガラクタを悪魔だと思い込んでるんだ。

言う事為す事デタラメだらけ。

無論、始めは総バッシングだった。

冷笑の嵐だった。

彼女を何秒で論破できるかのタイムアタックが裏で盛り上がっていたなあ。

だが凄かったのはそこじゃない。

絶対に負けを認めないんだ、彼女は。

完膚なきまでに論破されたなら、彼女を論破する事自体が悪だと反発するんだ。

事実や正論であったとしても彼女の都合と合わないなら無視すべきだと返してのけるんだ。

それでもなお食い下がられると侮辱だ名誉毀損だハラスメントだと訴訟を起こし、社会的に抹殺する事で強引に政敵を消し去ろうとした。

まさに無法であり、無法の力という意味で暴力そのものだった。

そして何より恐ろしいのは、彼女にワガママを言っている自覚が毛頭無かった所さ。

彼女にとって絶対の正義とは常に彼女自身であり、その正義を押し通すためなら無理無体は当然の権利だとして暴れ続けたんだ。

繰り返し繰り返し、幾年もの間ずっと。

結果どうなったと思う?」

問われたが、酒を注ぐ間が欲しかっただけのようなので答えなかった。

「諦める者が出始めた。

それはそうだろう、何を言っても無駄なんだから。

自由自在な魔法のレッテルを貼られ、訴訟するぞと脅迫されるのがオチなんだから。

同じ無駄なら黙っていた方が楽でいい。

みな話し合いをモットーとしていたからこそ、彼女は魂を錆びつかせる魔障に等しい存在だった。

そうして魔が抵抗する議員を減らすにつれ、次第に彼女の要求が通り始めた。

堤防に穴が空いたんだ。

決壊までは時間の問題になったわけだが、誰も穴を塞げなかった。

その穴はいかなる正式で正確な修理であろうと拒んだからだ。

やがて議会は暴力にお墨付きを与える腐海に成り下がり、彼女が首相に立候補した時、王制を敷こうとした時、止める者はいなくなっていた。

僕を含め、議会の男達は地下送りを申しつけられた時でさえ黙って従ったんだ…自分が生き残るためにね…」

「長…兵士長が言っていました。

賭けに敗れた民はツケを払う事になると」

「ハハ、案外優しいんだな、あいつ。

僕の罪はその程度じゃ済まないってのに」

「どういう事ですか?」

「僕は議員だったんだよ。

国の行く末を決める立場だったんだ。

女王を議会に送る賭けに出たのは民でも女王と勝負してたのは僕ら議員なんだ。

僕が逃げた勝負は、国民全員にツケを肩代わりさせるものだったんだ。

女王と女王の後継が絶えるまでの子々孫々、永久に…。

僕は、議員だけは、ありきたりな生存戦略をとっちゃいけなかったんだ。

立派に国民の壁をやらなきゃいけなかったんだ。

生涯鬼となって女王を圧死させ続けなければならなかったんだ。

それが、僕の仕事だったんだ…」

全てが過去形。

彼の後悔の念がランプを倒しそうなほど押し寄せてくる。

痛ましかった。

しかし同じくらい違和感もあった。

彼はまだ生きているではないか。

「今からどうにかならないのですか?」

「フッ、フフフ…そうだな、君ならそう考えるだろう。僕の見立ては確かだった。

…さて、結論から言えばどうとでもなる」

「えっ」

「君も知っての通り、女王は王にふさわしくない。

決断力と実行力は大したものだが、それはただ単に無思慮の表れでしかない。

実際、女王の採ってきた政策は幼女の落書きと老女の呪いばかりだ。

不満は常冬の雪も驚くくらい積もっているだろう。

煽り方次第では宮殿に全国民が殺到する事になる。

その時鎮圧に駆り出される兵士は200名程度しか居ない」

「少ないのですか?」

「全国民の5000分の1ってとこか。

国民の100人に一人が決起したら、兵士は一名につき50人と戦う羽目になる。

あと数えられたものではないが、ここや別の労働場の元兵士を集めたら8000は下るまい。

ついでに、女王配下の現役兵士は全員女だ。しかも30歳から50歳前後の年増ばかり。負ける要素が思いつかんね」

「ではなぜ作業員に甘んじているのですか?女王の支配は国民全員にとって良くないもののはずです」

「フフフ…アッハハハ。ヒヒハハハハッ…」

泣いているのかと思った。

そんなわけはないのに、大口開けて笑っているのに、慟哭どうこくしているような悲哀を感じさせた。

「ハハッ…笑ってくれ、蔑んでくれ、罵ってくれ…。

僕はね、面倒臭いんだよ。

馬鹿馬鹿しいんだ、何もかも。

だってそうじゃないか?

女王を倒してどうなる?

彼女は特別な例外ってわけじゃないんだ。

うんざりするくらいにはいるんだよ同類が。また議会制に戻して、第二第三の女王と戦い続けるのか?

死刑にするわけにもいかないんだぞ?

第四第五第六と延々増え続ける女王の軍団に囲まれるのか?

まっぴらごめんだね。

辛過ぎる、虚し過ぎる、馬鹿馬鹿し過ぎる」

「誰かよりふさわしい王をけては?」

「虹の街はどうする?肉の街は?

奴らは対話だの尊重だの建前を無数に出してはくるが、本音は煎じ詰めれば『崇め奉れ』だ。

奴らの言う寄り添えとは、奴らが社会に災い振り撒く邪神だろうと全肯定で貢げという意味だ。

実質的支配を要求されてる以上、衝突は避けられない。

現に森を焼き終えて用済みになった虹の街とは最悪の関係にある。

新王が国を立て直したとしても、結局やる事は変わらない。

丸ごと女王みたいな街がまだまだあるんだ」

「だからといって…」

「始めに言ったはずだ、僕も君の真似事はできないと。

君のような立派な生き方は、休める有り難みに比べれば木っ端同然だと。

………僕はね…僕は満たされてしまってるんだよ。

喜びも楽しみも感動も誇りも無い地下作業で充分なんだよ。

これといって社会に接しないまま、愚痴りやすい事を愚痴っているだけで満足なんだ。

結局僕も女王の同類なのさ。

一度投げ捨てた荷物はもう二度と見つからない。

背に落とされても担ぐ気にはなれやしないだろう。

もう自分以外は全部どうでもいいんだ。

僕には自分以外何も無いんだ。

…………どこをどう探しても…どんなに踏ん張っても…僕はそういう人間なんだよ…」

これが彼の諦念の正体だった。

元議員は諦めたくて諦めているのだ。

その事を悲しみ、悔やみ、いといながらも、諦めで満足できてしまう心は諦めずにいられないのだ。

「ここでこうしている事自体が責任逃れだとわかってる。

でも僕の体は謝る口を動かすのが精一杯さ。弱くて情けない卑怯者でごめんなさいって。君も遠慮なく責めてくれ。いくらでも謝る」

私にこれ以上何ができるだろうか。

罪を認めて謝る者を遠慮なく鞭打ってくれと言われても…。

この時ばかりは殴りかかってきてくれた方がいっそ気楽だった。

「国民の暮らしを教えて下さい」

私は話を逸らした。

あまりに後ろ向きで首が捩じ切れそうだったため、なるたけ早く前を向きたかったのだ。

気持ちを察してもらえたのだろう、元議員は明るく応えた。

「ハハハ、ずいぶん広範囲の質問だ」

「では絞って…あなたは虜囚ではないのですか?あなたの話しぶりだと、男達は強制労働させられている感じでしたが」

「強制には違いない。

労働場送りに反対した者もごく僅かいたんだが、全員処刑されたから。

しかしご覧の通り囚われてはいない」

「なぜ?」

「政策の穴。この一言に尽きる。

女王は支配者階級や反体制の男達を殺さなかった。

反旗の芽を摘むなら皆殺しにすべきだったのに、労働力を欲しがった。

ま、この辺は尊重、平等など建前との整合性も兼ねてるんだろう。

何しろ皆殺しとなれば何千何万の男を男だというだけの理由で殺す事になるんだから、流石に体裁が悪い。

で、そんな大量の男を管理しようとなると、男を信用してない政権は大量の女を必要とする。

国の20分の1近くを左遷先と管理者で占めるわけにはいかないし、そもそも男ばかりの空間で女を働かせるのはセクハラだから、これはできない。

管理できないから、当の男達に任せて放置するしかなくなった、ってわけだ。

女王の女尊男卑思想が社会を機能不全に陥らせる実例の一つだな。

暴動には至ってないし、結果論では名采配と言えるのかもしれんがね」

「外には出られるのですか?」

「ああ。出入管理が無いんだ。

ザルどころか素通しだよ。

飽くまで労働場であって刑務所ではないって事」

つまり彼は自ら望んで地下に埋没しているのか。

「生活に満たされているとはお聞きしました。でもあえて地下暮らしを選ぶ理由はなんでしょう?」

「ズバリ、地上より居心地が良いからだ。

僕の性分が元々暗いせいもあるが、それだけじゃない。

この国の法律や制度には女王の思想が色濃く反映されている。

という事はだ…おおよそ想像つくだろ?

男がまともに暮らせる環境じゃない。

市街地に出れば君が旅先で受けたような扱いが待ってるんだ、ここと違って」

そう言われると、私もにわかに地下が愛おしく思えてきた。

「今や市街地の女達は女王の眷属だ。

女王と同じく男を好き放題できる権利がある。

僕に言わせれば、個人差はあれど全ての女が元々女王気取りだったがね。

その傲慢に法律が太鼓判を押してしまった。そして市街地に女の居ない場所なんか無い。あそこへ出ていくのは子供の考えた双六に命を賭けるようなものだよ。

死なないマスの方が少ない」

「しかし、地下には男しか居ないのでしょう?賭けに出なければ妻を得られないのでは?」

「僕は完全異性愛者で、人並みに性欲もあったが、女王と女王の法を振りかざす女達を見てすっかり懲りたよ。

あんな連中が相手なら養うのも養われるのもビジネスライクに共生するのも全部嫌だね。地下暮らししてる男はほぼ全員同じ気持ちだと思うよ。

統計をとるまでもない。

暴動が起きてないって事はそういう事だ」

「それでは、この国に未来は無い…。

子供が作られない国なんて…」

「男の大半は市街地に残ってるんだ。

彼らがなんとかしてくれるさ…」

話が巻き戻りかけた事で重い沈黙もまた舞い戻ってきた。

元議員が旅人の私にかける謝罪は拳ほどにも無意味だとわかっていたので、私は彼を責めなかった。

「…………君はどうしたい?」

やや間をおいて、前向きな話をしようと提案があった。

「私は妻をめとりたい。

妻に子を産んでもらい、二人で子を育てたい。

それが社会を作る行いであり、未来を残す唯一無二の手段であるが故に、社会人として一人前の証だと断言できるからです」

「いいねえ。君はそうこなくっちゃな。

とりあえず、地下を出ていく事は決定か。

旅はどうする?」

「わかりません。

どこか私が住むのに向きそうな国や街に心当たりはありませんか?」

「悪いね…お役に立てない。

手頃な娘を森へ連れて帰る事を勧めるよ」

「候補に含めておきます。

いずれにせよ、まずは市街地でその手頃な娘と自立の道とを探してみるつもりです」

「さあ!そうと決まれば今日はもう寝て、明日は一刻も早く地下を出たほうがいい!

ここは君がいるべき場所じゃない!」

元議員は前職らしく威勢のいい言葉で話を締め、ランプを消した。

相部屋に濃密な闇が充満する。

森の夜とも荒野の夜とも異なる無味乾燥。

まるで死そのものだが、ここからの旅立ちを祝福されている事実の前では死も安らかな仮宿に過ぎなかった。


翌朝。

私は朝食をご馳走になり、地上への出口付近まで案内もしてもらった。

「申し訳ありません。

今は何もお返しできるものが無くて…」

携帯食料の一つでも渡して返礼しようにも、旅の道具は全て虹の街で奪われたままだ。

「気にするな。

あと、これを持っていくといい」

小袋を手渡された。

中身の擦れ合うチャリチャリという音が心地よい。

「この丸い板は?」

「そうか、知らなくても無理はない。

この国の通貨だ。

旅の準備を整えるか、住み家を借りるか、好きに使いなさい。

あ、待て、計画的に使いなさい」

「そこまでしていただくわけには…」

「どうせ余り物だ。

心配しなくても酒代と本代はきっちり確保してある。

僕が持っていても考古学者を楽しませるだけだ。

ツケの足元にも及ばん額だが、罪滅ぼしの一歩を踏ませるつもりで受け取ってくれ」

拒むわけにいかぬ言葉だった。

私の側も強がっていられる状況では全くない。

ありがたく頂戴しよう。

「確認しておくぞ。

市街地は油断ならない場所だ。

女を見ても決して近づくな。

いや、まず女を見るな。

どうしても近くを通る際は呼吸を止めて両手を頭より高く上げながらだ。

男は危険な獣だからそのぐらいの気遣いがないと安心できないんだとさ」

今の説明はまさしく危険な獣への対処法だと思うのだが。

熊や虎でさえ見ただけなら喰らいついてはこないのに…。

「私は大きい乳房が好みのようで、どうしても眺めてしまうのですが」

「絶対にいかん。

何でもいいから目を隠せ。

今度は労働場じゃなく刑務所送りになるぞ。あと、小さければいいとか尻ならセーフとかも無いからな。

さっきも言った通り、とにかく女を見るな。顔もだ」

「それは話す態度として失礼にあたるのでは?」

「男風情が女様の御尊顔を拝もうとする行為の方が失礼なんだよ、君がこれから行く街は」

聞けば聞くほどである。

しかし逃げない。

私が引き下がった分、人類は滅亡への歩を進めるのだ。

誰かが肩代わりしてくれれば補えるが、私は肩代わりできる誰かになりたかった。

「希望が無いわけじゃない。

女王の法に呆れてるまともな女も数多い。

しかし結婚を覚悟するまで気を許すな。

女は自分から裸になり抱きついて誘惑しても、事が済んだ後でレイプされたと訴え出られるし、勝てる。

女はなんでもあり、男はなんでもなしだ。

いいね?」

「はい。首尾よく妻と新居が得られたらご招待させてください」

「酒を用意しといてくれ。

今度は君の結婚生活の愚痴を僕が聞いてあげよう」

固く握手を交わし、別れる。

出口を抜けると、ほんの半日でも地下にこもっていた私を太陽は厳しく叱りつけた。

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