二章 美醜

深淵の攻略は思いの外簡単だった。

両親の残したという目印に沿って進むと軽く切り拓かれた道があり、食用草の群生地があり、清流があり……とにかく森で得られる糧は危険以外全て揃っていた。

まさか父が用意しておいてくれたのか?

いや、違うな。

あの人なら道は石畳に変え、坂を階段にし、休憩用の小屋を点在させていたろう。

私の歩んでいる道はそこまでの贅沢品ではなかった。

父の開発した道ではない……しかし、目印という両親の痕跡を確かに残す道ではある。

彼らはこの道を通った事があるのだ。

いつ?何の為に?

一つ目の疑問は自明だった。

父か母かのどちらかは常に私の側にあったからだ。

二人揃って姿を消した時間など無い。

私が便所にこもっている間にせよ夜間二人が営んでいる間にせよ、目の前には居なくとも必ず気配はあった。

過去私が両親を察知し得なかった時間は私がこの世に存在しない時間……生まれる前しか無い。

二つ目の疑問は論理思考すれば大雑把にだが

回答できる。

目印を置くのは迷わず帰るためだ。

森の家か、森の外かに。

後者だとすると両親は森の外から来た事になるが、そこに新たな疑問が生じる。

なぜ?と。

森生まれ森育ちの私にはその謎について仮説を立てる事もできなかった。


深淵は昼過ぎに尽きた。

出発が早朝だから半日程度で抜けられたわけだ。

率直に言って拍子抜けである。

木々の養分となる結末まで覚悟していたのだが…。

もう一つ、森の外の光景もまた拍子抜けさせるものだった。

草一本生えぬ赤茶けた荒野と空の二色。

それだけだったのだ。

広大なれどひたすら平坦で無味乾燥。

生まれて初めて見る新世界の姿だというのに私は早々に飽きてしまった。

荒野に踏み入り、故郷を振り返ってみる。

私とは比較のしようもない大きさだが、荒野の中にあっては植木鉢の如く小さい。

しばし眺めるうち、ある事実を思い出した。

たくましい草木も環境次第で死ぬ。

書物以外で得た知識の一つだ。

もしも…もしもこの荒野が死後の世界なら、荒野が元々は森の一部だったなら、我が故郷の未来を暗示しているのではなかろうか。

身の毛がよだつ想像。

そんな事があってはならない!

激情が総身を駆け巡る。

しかしどんなに身もだえても荒野が森になったりはしなかった。


冷静になったところで一旦森との境い目まで引き返し、一番背の高い木に登る。

地上からは目標にできる行き先が全く見当たらなかったのだ。

少しでも視野を広げる必要があった。

結果、遠方に人工物らしき角ばった何かを確認できた。

10km前後先か。

日没までには届きそうだ。

他に選択肢も無いのでとりあえず行ってみる事にした。


荒野をゆく。

相変わらず目を引く要素は無い。

森のものより格段に貧相な虫や獣がちらつく程度で、あとは命を拒絶する赤茶色が淡々と続く。

まあいいさ。

目標を見つけた私は少し寛容になっていた。

所詮はあそこまでの付き合いなんだ。


目論見通り空が赤いうちに人工物のもとまで来られた。

そこは大きな街だった。

故郷の森のざっと数倍はあろう面積に角ばった人工物が密集している。

幸運にも…と言うべきか必然の成り行きと言うべきか、とにかくありがたい事に使われている文字は私が書庫で学んだ形式と同じだったため、角ばった人工物が商店や会社や家屋なのは読み取れた。

最初に目標としていた一番大きな建物は商店のようだ。

『商店ここにあり!』と、看板や幟が執拗に念押ししてくるので嫌でも気付く。

そこに大量の人間が出入りしていた。

人間だ。

初めて見る両親以外の人間。

肌が無性にザワつきだした。

全身の細胞が好き勝手に踊り狂う感覚。

それはまさに仲間を見つけた生存本能、肉の雄叫びであった。

しかし…対照的に私の心は硬直している。

どうしたらいいかわからないのだ。

話かけていいものなのか?

仮にいいのだとして何を話す?

話してどうなる?

更に問題はそういう接し方のレベルに留まらない。

人間社会があるという事は、社会のルールがあり、物々交換もしくは貨幣のやり取りがある、という事でもあるはずなのだ。

寝たいからってその辺で夜営すれば恐らく中止を命ぜられるだろう。

宿に泊まろうにも金はおろか金目の物が何も無い。

私が肉体の他に持ち合わせている物といえば携帯食や狩りの道具など旅の必需品だけだ。

たとえ金に替えられるのだとしても今はその時ではない。

要するに、私にはこの街でできる事が思いつかないわけである。


「おい、お前!」

両親以外から生まれて初めて伝わる人間の声は怒声だった。

街の入口でモジモジグズグズ突っ立っていると、近くを通りかかった男に誰何すいかされたのだ。

「なんでお前みたいな奴がこんな所にいるんだよ!」

怒りの質問だ。

しかもちょっとやそっとの情ではない。

フスーフスーとけたたましく鼻息吹き出して猪さながらに興奮している。

いや、鼻息が猪さながらというか、忌憚なく言えば彼は顔も体型もほぼほぼ猪だった。

牙なき猪だ。

ここを人間の街だと思ったのは私の勘違いだったのだろうか?

いぶかしんでいると尚も質問が続いた。

「なんでこんな所にいるんだって聞いてんだよ!」

そうだ。

今はあてなき想像にふけっている場合じゃない。

問いに応えなくては。

この街には旅人が入口に留まってはならないというルールがあるのかもしれないのだから。

「私は旅の者です。それが今ここにある理由です。失礼があったなら謝罪します。

ですが、私には何が失礼にあたるのかさえわからないのです…。よければ教えて下さい」

「失礼…?そういう話じゃねえんだよ!」

混乱は強まる一方だ。

私が無礼を冒したのでないならいったいなにをそこまで怒っているのか?

今度は想像の前に教えを請うた。

「どういった話なのですか?」

「なんでイケメンのくせにこの街に入ってきてんだって話だよ!」

教えられてもわからなかった。

「イケメンだと!?」

「イケメンのくせにこの街に入ろうだなんて…!」

猪男の言葉に反応した人々が怒声とともに集まってくる。

1分もしないうちに眼前が肉の壁で埋まり、壁を構成する全員が私に向けて猛烈な負のエネルギーを浴びせてきた。

やはり生まれて初めて味わうものだったが、それが憎悪である事は教えられなくても察しがついた。

もうこの街には入れないであろう事も。

私は泣きだしたくなる気持ちを抑えながら話を続けようともがいた。

「イケメンとはどういうものですか?」

「はあ!?イケメンってのはお前みたいに整った男らしいカッコイイ顔で……いやいや違う!そんなんじゃない!断じて!カッコイイとかじゃ絶対ない!」

「???」

「とにかく…!お前の顔はイケメンで!

この街には居ちゃいけない顔なの!」

「申し訳ないのですが、なぜ顔だけでそうも嫌われるのか理解できません。納得もいきません」

「顔だけじゃないぞ。その体もだ!

なんだそのムキムキでガッシリして、それでいて均整のとれた体は!ふざけるな卑怯者!そんな奴が街に居てたまるか!」

猪男の言葉に呼応し、肉壁からも賛意の野次が飛ぶ。

何を言っているかは全て聞き取れるが、それら全てがどういう意味かわからない内容だった。

私と同じ言語を用いているはずなのに、蜂の羽音の如く敵意以外に意味の無い音でしかなかった。

これが人間同士の交流なのだろうか?

父はキャッチボールの最中、このように人間は会話するのだと教えてくれたが、父の教えの方が間違いだったのか?

「なぜです?なぜ顔や体が整っているからって爪弾きにされなければならないのですか。私はあなた方にまだ何もしていないはずだ」

「してるさ!わからないのか!?

今この瞬間もお前は俺達を傷つけてる!

お前は多様性を破壊してるんだよ!」

さっぱりわからない。

なぜそんなにも矛盾した事を言うのかが。

「多様とは異なる物の多い様を表す言葉ではありませんか。

この街にとっては異物である私を受け入れた状態の方がより多様であるはず。多様性を破壊しようとしてるのはあなたでは?」

「そういう事じゃねえんだよ!

お前が不自然に鍛えてるのが悪いんだ!」

「この体は狩りや大工、薪割りや農作業など、生きるために必要な仕事で鍛えたものです。野の草や血肉に育まれたものです。

それが不自然ですか?」

「ああ不自然だとも!お前おかしいよ!

自然ってのは俺達の事を言うんだ!

俺達がありのままの美しさなんだ!」

彼らが自然…?

ここまで触れる暇がなかったが、肉壁は一人残らず猪男と同じ体型をしている。

ポップコーンがはちきれて固まったような者、チーズが溶けてから固まったような者、縛り方を間違えた燻製肉のような者…。

いずれも内側から膨れに膨れていた。

私の読んだ書物が正しければ、あれはデブと呼ばれる姿だ。

食いたい放題しておいて働かなかった体だ。

嘘でも人間のありのままと呼ぶのはためらわれた。

それでは人間があまりに惨め過ぎる。

「私にはあなた方が美しいとは思えません。その体は、仕事や節制をしなかった怠惰の証ではないのですか?

私には怠惰が美しいとは思えません。

私が親になったなら、ありのままの姿が怠惰な子には厳しく教育するつもりです」

「よくもそんな残酷な事を言えるな…!

努力に努力を重ねて頑張っても痩せられない人だって居るんだぞ!」

「失礼しました。

ここにいるあなた方もそうなのですね」

「…………………………」

全員が押し黙ってしまった。

「あのう…?」

「ううううるせえ差別主義者!そうさ!

俺達は痩せたくても痩せられないの!」

「そうですか。しかし、それにしてもあなた方は皆同じような姿です。やはり私が加わったほうが多様であるように思えますが」

「ダメだ!お前は存在しちゃいけないんだ!全ての人間は肯定されるべきだからな!」

またしても矛盾だ。

「全ての人間が肯定されるべきなら、私も肯定していただきたいのですが…」

「ダメだ!」

「どうして?」

「確かにお前は俺達と違う。だからダメなんだ!お前が肯定される価値観じゃ俺達が肯定されなくなるだろ!」

「お待ちください。この話は私が多様性を壊すという所から出発したはずです。

しかしあなたは私とあなた方が違うから駄目だと言う。

自分達が肯定されなくなるからだとも言う。この言い分からすると、あなたの守ろうとしてるのは多様性ではなく自分達の権益ではありませんか」

「ぐっ…」

「答えてください。

肯定されるべきは全ての人間ですか?

この街の人間ですか?

それともこの世で私だけは肯定されるべきではないと仰るのですか?」

「黙れェッ!!」

猪男が殴りかかってきた。

全く予測不可能な突然の出来事で、私は大いに面食らった……が、それでも悠々避けられた。

猪なのは形だけのようだ。

これほど鈍重な生き物を見た事が無い。

「フスーッ、フスーッ、フスーッ!」

かつてなく荒い鼻息。

まさか…今のパンチで息切れしているのか?

野生の獣と比べて劣るのはまあ仕方ないとしても、この有様だと私の母と格闘してもあしらわれてしまうのではなかろうか。

改めて、私には彼が美しいとは思えなかった。

「フスーッ、人の話を聞けよっ…お前はよぉ…!」

極めつけはこの物言いである。

言葉に拳で答えたのは彼の側だろうに…。

美しくない、ではなく、醜いと呼ぶにふさわしい人物だ。

しかし肉壁の人々はそう見做みなさなかった。

「…うわあ!?」

彼らは私に悪罵を喚きながら石やガラス瓶を投げつけてきた。

「弱い者いじめなんて幼稚で最低だ!」

「私たちの石を避けるな卑怯だぞ!」

「俺達に配慮できない奴は消えろ!

配慮できるなら消えろ!」

私の混乱は頂点に達していた。

なぜこの期に及んで私が責められているのだ?

矛盾に矛盾を重ね、独善を正当化し、それを暴かれ、話の途中で暴力に訴えたのは彼らだ。

なぜ?

「…………………さようなら」

石雨の中は思考に甚だ不向きな場所だ。

疑問に答えてくれる人を探すのにも。

私は街を去った。


喧騒が聞こえなくなるまで離れた所で、自分が今日の宿に困っていたのを思い出した。

荒野での夜営ならはばかりなくできる。

人里を追われた事で、人里の悩みから解放されたわけか…。

皮肉に苦笑しつつ、適当な岩場を見つけて寝る準備をした。


「…………」

軽い食事を摂り、目をつむる。

疲れを凌駕する興奮が睡魔をねじ伏せていた。

一人旅、荒野、街、他人。

何もかも初めて尽くし。

とりわけ他人からもたらされた数々の衝撃は一生の記憶になりそうだ。

怒り、憎悪、謎、矛盾、不条理、拳、石。

こうして並べると錚々そうそうたるメンツだが、私から見れば貴重なものだ。

そう思う事にする。


母の手縫いの毛布を抱きしめた。

その時、先程の並びから洩れていた衝撃が遅れてやってきた。

孤独。

怒声や罵声の元であれ、初めての他人には違いない。

その他人を喪失してできた余白は、私にとって生まれて初めての孤独だった。

「…………」

抱き方が良くなかったのか濡れてしまった毛布をより強く抱きしめた。


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