三章 壊死

自然界広しといえども、グッスリ安眠できる生物はそうそう居まい。

外敵の心配なく、つ寝具で寝られるのは強者の特権である。

その意味で、私の朝は挑戦者の矜持きょうじに満ちていると言えた。

たった一晩で錆びたかのように強張った体をほぐしつつ、食事や用足しなど旅の準備を整えていく。

私はまだ旅を諦めていない。

昨日の出来事はショッキングではあったが、絶望するには程遠い小事でもある。

まだ一つの街に拒まれただけだ。

イケメンとやらが理由でああなったのなら、イケメンを好む街を探せばよい。

森の外は人間の存在しない地獄だった…という最悪のシナリオと比べれば、今は他の人間を探せる希望が残っている分気楽でさえある。


とは言え。

無論の事、簡単な話ではない。

当てが無い。

どっちに行ったらいいかわからない。

森を出た当初と同じく目的地が無いのだ。

これは荒野の旅において致命的である。

私の見る限り、荒野には川も泉も野菜も果物も無い。

人間を生かすつもりが無い不毛の地。

そこを無計画に進んだ挙句、水も食料も尽きました、森に帰るには片道五日かかります…となれば死と同義だ。

そんな間抜けな最期は是が非でも避けたい。

さて、どうしたものか?

森を出た当初と同じ…なら、同じ解決策は?

街まで戻れば角ばった建築物がある。

森の木にも負けない背丈を誇るあれに登れたならかなりの広範囲を見渡せるだろう。

いや…駄目だ。

私は街への出入りを許されていない。

猪男らに正義があると認めたわけではないが、だとしても不倶戴天なりと拒絶されているのに侵入するなど非礼にも程がある。

盗人に堕ちてまで旅したいとは思えなかった。

何か他に手は…そうだ。

入れないなら入らなければいい。

街から出ていく者に道を尋ねればいいのだ。

あの怠惰の概念が受肉したような人々が旅をするのかという疑念はあるが、もし他にも人里が存在するなら交流している可能性は高い。

であれば、余所から街へ来た人達の帰り道にも出くわせるかも…。

私はこの閃きを大層気に入った。

猪男の仲間たちも街の外でなら話を聞いてくれるかもしれないと思えたからだ。

気付けば体力の配分も忘れて駆けだしていた。


「ギャーイケメンッ!」

「死ね!爆発しろ!」

街には複数の出入り口があり、私は先日入ろうとしたのとは別の場所で待機し、狙い通り現れた旅人に声をかけた。

その結果が今しがたの絶叫である。

二人組で揚々と出発しかけていた旅人たちは、私の挨拶を聞くなり街へ逆戻りしてしまった。

過去に何があったら初対面の他人をあそこまで厭悪えんおできるのだろうか。

イケメンなる存在がこの街の人々にどれほどの蛮行を働いたと言うのだろうか。

わからないが、私はイケメン側に肩入れしたい気持ちだ。

猪男の言葉の通りなら、かつてのイケメン達もただそこに在っただけなのだろうから。


一応収穫はある。

二人組は森には生息していなかった動物に車を引かせ、そこに乗っていた。

書物には確か馬車と記されていたか。

その馬車のわだちが街からどこか遠方に向けて続いているのを発見したのだ。

轍の先には何かがあるはず。

それだけわかれば充分だ。

私は念の為残りの食料を確認した。

一週間分はあるな。

三日進んでみて、何も無ければ引き返そう。


荒野の旅は穏やかだった。

私を除き、ほとんど何も動く物が無いのだから当然だ。

命も水も、憎悪も矛盾もなく、ひとえに淡々とした拒絶。

生まれる事も育つ事も無いが故に、食う事も食われる事も無い、静謐せいひつな世界。

猥雑な森ではかもし得ない一種独特の安らぎは認める。

だが私はどうしても荒野を好きにはなれない。

もちろん森より荒野を好む者もいるのだろう。

そういう者と私の感覚の違いは生育環境の違いでしかないのかもわからない。

しかしその上で強く強く断言する。

死んでいる者を人間とは呼ばないように、死んでいる大地を人間の世界とは呼ばない。

人間の生きる世界にふさわしいのは命溢れる弱肉強食の森だ。

荒野は私の信条と決して混ざり合えぬ世界だった。


轍を頼りに歩き続ける。

体力的には問題無い。

水と食料さえあるなら永遠にでも旅していけると思う。

平坦な荒野は生存圏としては不向きでも、移動の利便性に関しては最高と言っていい。

ただ、その利便性こそが私を苦しめた。

ここでは『障害なく自由に移動できる』事しかできないのだ。

生きている限り他に選択肢は無い。

甘受したくなければ死ぬしかない、単調で退屈で、空虚な自由が私を辟易へきえきさせた。


街を離れて三日目。

轍の先に角ばりが群れているのがわかった。

私が世界一周したのでなければ、猪男の街とは別の街という事になる。

別の街…つまり、別の人間たち。

左右の足を上げ下ろしする動作に合わせて期待と不安の天秤が揺れたが、どちらにも振り切れはしなかった。


街には門があり、門番が備わっていた。

「そこのお前!止まれ!」

この街について教えてもらおうと近づくと攻撃的な語気で迎えられた。

警戒心にいささか気後れするが、捉え方次第では嬉しい対応だ。

始めから入れない街なら入れない理由くらい教えてくれるに違いない。

「何者だ!どこから来た!?」

「旅人です。森から来ました」

「森?まだそんなものが残っていたのか…。旅の目的は?」

「見聞を広め、独り立ちして伴侶を得るためです」

「伴侶か…気に入ったぞその表現。

いいだろう入れ!

君ならきっと歓迎されるだろう!」

おお…いいのか。

入れるなら入れるで相変わらず困るのだが、せっかくなので許可に甘えて、とにかくまずは街を散策してみよう。

私は妙に鼻の下を伸ばした門番の男に見送られ、新天地に入った。

「ようこそ、虹の街へ!」


虹の街と紹介された場所は、猪の街(区別のため今後こう呼ぶ)と見た目は大差なかった。

角ばった建築物が立ち並び、文字も共通している。

では中身は?

街に生きる人々はどうか?

肝心なのはそこだ。

数分歩いて知れたのは、体型に偏りは無いという事。

猪の街のように肥満した者も居れば、私のように鍛えている者、カマキリのように痩せぎすの者、母のようにたおやかな者と種々雑多な暮らしが見て取れる。

これなら追い出されずに済む…か?

いや、流石に弱気が過ぎるな。

こうして数分歩けただけでも追い出されずに済んでいる証左ではないか。

ここまで幾人とすれ違えど憎悪を浴びせてくる者は皆無だった。

私は既に受け入れられているのだ。

天秤から不安が射出された。

これでようやく自立の第一歩を踏み出せるぞ!


荒野の移動中、持て余された退屈な時間は街における生存戦略研究に費やされていた。

研究の結論は単純明快。

金が無いなら働けばいい。

働き口が無いなら力仕事を売り込めばいい。

私がどうすればいいのかは私自身で試していくしかない。

この三つ。

戦略に従い、まずは働き口を探す事にした。

…と言っても正直探し方から判然としない。

その辺の会社に片っ端から頼み込んでいけばいいのだろうか?

なんとなくだがその手は無しな気がする。

私が経営者なら多分困る。

仕方ない…素直に一時の恥を被ろう。

「お尋ねします。私は旅の者で仕事を探しているのですが…」


街の中心部に位置するらしい広場へ移動。

不運にも私が覚悟を決めた直後にすれ違いかけた方は、広場の近くに職業斡旋所があると教えてくれたのだ。

なんたる親切。

仕事に就いた暁の返礼を約そうとすると、その人は遠慮して去って行った。

なんたる謙虚。

私が逆の立場になった状況をイメージすると人として当然の対応を受けただけとも思えたが、爪弾きにされなかった喜びは感動を何倍にも増幅した。

私の心は、広場に据えられた巨大な虹のモニュメントのように色鮮やかだった。


「86番でお待ちの方、どうぞ」

斡旋所に入った矢先、整理券なる紙を持って待つよう指示され、10分ほど待っていると紙の番号で呼び出され、係員の前に座る運びとなった。

「本日はどういったご要件でしょう?」

「私は旅人なのですが、旅人でも雇ってくれる職場を探しています」

「少々お待ち下さい」

丁寧な対応。

係員は短髪の女性で、凛々しさと優しさを同居させた雰囲気の持ち主だ。

恥ずかしながら私には刺激が強すぎる人物である。

非常食に隠し持っている西瓜なのかと疑ってしまうほど見事に育った乳房からどうしても目を離せない。

くっ、情けない…!

乳房なぞ母の物を毎日見ても平然としていられたというのに、どうして急にこんな…!

これが雄の本能なのか…!?

結局、視線を曲げるためには顔ごと下に向けるしか術がなかった。

無礼極まりないが、乳に向かって話すよりは心証を害さずに済むだろう。

「大変お待たせいたしました。

こちらの書類に必要事項をご記入下さい」

「あ、は、ああ…」

指示に反射してついつい顔をあげてしまった。

そうするとまた目が吸い寄せられる…。

「申し訳ありません」

未熟な私は乳に謝る羽目になった。

「ふふふっ…真面目な人ですね」

乳を中心とした視界に辛うじて収まる彼女の顔は笑っていた。

毎日見られている側からすれば笑って流せる事なのだろうか?

だとしても自分を許す気にはなれないが。

かくなる上はさっさと手続きを完了させ、私からこの場を離れるしかあるまい。

前向きに逃げる決意を燃やし、書類と向き合う。

氏名を記入し、次に…おやっ?

「あの、この欄は…?」

気になる所を係員に質問する。

「あなたの自認する性、身体的性、性的対象の性、身につけたい衣服の性属性、就きたい仕事の性属性など、ご自身の性にまつわる事柄をご記入下さい。

いくつ書いて頂いても構いませんよ」

私は都会流のジョークだと思った。

「はっはっはっはっ、自認も何も、男は男、女は女でしょう」

「んだァ?てめぇ…」

乳が磁力を失った。

代わって私の視線を吸い寄せたのは係員の般若面だった。

「もっぺん言ってみろや差別主義者がコラアアン!?」

机越しに胸倉を掴まれる。

わけがわからない。

まるで悪夢だ。

何もかもが急激過ぎた。

脈絡が無さ過ぎた。

「謝れよ…人を傷つけてごめんなさいってよォ!!」

「ど、どうしたのですか?私がいったい何をしたと…」

「男は男、女は女って決めつけたろが!」

「決めつけって…そんな、決まっている事ではありませんか。男は男、女は女。

当たり前の話でしょう?」

「当たり前なんかねーんだよっ!」

係員の拳骨が顔面にめり込んできて、中腰だった私は椅子ごと後ろへ倒れた。

痛い。

しかし痛みをもってしても悪夢は覚めず、むしろより深みへ沈んでいった。

「おいみんな!差別主義者だ!

こいつは差別主義者だぞ!」

「なにい!?」

「まだ居やがったかゴミクズが!」

係員が呼びかけると、たちまち私の周囲に人垣が出来上がった。

ものすごい人数だ。

客も、私を殴りつけたのとは別の係員も、斡旋所内の全員が私を取り囲むために殺到していた。

そして…全員から放射される、猛烈な負のエネルギー。

勘違いのしようもない。

昨日とまるきり同じなのだ。

私は憎悪されていた。

それだけでも困りものなのに、なぜ憎まれるのか全く理解不能な所まで同じだった。

「なぜです…?なぜ、私は殴られなければならないのですか?」

恐らく今後の展開も昨日と一緒なのだろう。

それでも問わずにはいられなかった。

このままではいくらなんでも納得がいかない。

「私にはわかりません。男は男、女は女。

この言葉になぜあなたがそこまで怒りを示すのか…」

「いいか?人間の性に当たり前なんか無いんだ。全部グラデーションなんだ。

てめぇが考えてるみたいに男と女ってだけじゃない。その二つに当てはまらない人も全員が尊重されるべきなんだよ!」

短髪係員の返答は私を納得させるには程遠いものだった。

「わからない…その言い方だと、あなたが自分を女ではない何かだと思っているように聞こえる」

「俺は男だ!!」

「ええっ!?すると…だとすると、胸のそれは本当に非常食だったのですか!?」

「わけわかんねー事言うな!

胸が出てるからどうだってんだ!ええ!?

俺は男だ!誰がなんと言おうと!」

「では、ペニスがあると…?」

「だからっ…!関係ねーんだよ!

体が女でも心が男なら男なんだよ!」

「そんなばかな…男と女の区別は体の機能が由来のはずです。

種を作る雄性が男、卵を作る雌性が女と、体の機能を説明する言葉が男であり女であるはずです。

あなたに、その…ヴ…子宮があるなら、あなたは男のように生きたい女でしかないはずです。さもなければ言葉の意味がめちゃくちゃに破壊されてしまう。

物事の価値が崩壊してしまう…。

中身があんこでも外側が氷ならあんまんとは呼ばないでしょう?」

「うるせぇっ!!」

短髪係員が再び殴りかかってくる。

とっくの昔に立ち上がっていた私はすんなり拳骨を受け止めた。

ただそれだけの動作でも短髪係員の筋骨が華奢きゃしゃだとわかる。

更に独特の香気が雄を誘惑している事も伝わってくる。

腰から太腿にかけての膨らみが妊娠に備えてますと教えてくれる。

本人がいかに嫌悪しても、首を180度曲げて目を背けていても、彼女の体はどうしようもなく饒舌じょうぜつだった。

「…うぐっ!?」

こんな事態だというのに初恋を迎えかけていると、突然後頭部に衝撃が走った。

倒れかけた体を両手両膝で支える。

「暴力で俺達の口をつぐもうったってそうはいかんぞ!」

「アタシ達はどんな偏見にも負けないわ!」

状況から推察するに、私は人垣の内の誰かに後ろから殴られたらしい。

それ自体もショックだが、暴力をふるわれた私が暴力で返すはずだという偏見と、暴力で私の口をつぐもうとする態度もショックだし、私以外の誰もここまでの流れに疑問を抱いてない事が何より衝撃で恐ろしかった。

「ったく、人の話を聞かないからそうなるんだ。反、省、し、ろ…ふんぐっ!」

短髪係員が私の胸倉を掴んで立たせようとする…が、力が足りないようなので私は自分で立ち上がった。

「私はあなたと話をしていた…。

あなたに反論できたのは、あなたの話を聞いていたからではありませんか…」

「てめぇは私の個性を否定した。

それだけでも話を聞いてないのと同じだ。

まずはあらゆる個性を尊重しろ。

話はそれからだ」

「わからない…ではあなた自身はどうなのですか?あなたは体が女でも男だと言う。

その発言は、女の体という立派な個性をあなた自らが否定するものです。あなたはなぜ自分の体を尊重しないのですか?」

「ちっ、いいんだよ!心と体は別だ!」

「あの…心と体が別なら、体が女でも心が男なら男だというあなたの考えは成立しなくなってしまうのでは…?

体が女なら別物である心とは関係なく女として生きるべき、となってしまいますが」

「屁理屈言うな!」

掴まれていた胸倉を突き飛ばされた。

先程の後頭部への打撃が少々足にきていたようで、意外なほどよろけてしまう。

そこを人垣が受け止めてくれた。

…かと思いきや、私は羽交い締めにされていた。

工具で固定されたのかと錯覚するほど凄まじい力だ。

いったいどんな存在が…と気になって振り向くと、蠱惑的こわくてきな女性服に身を包んだ中年男性が立っていた。

「おいしそ♡」

「うえっ」

反射的に嘔吐感がこみ上げてくる。

これもまた雄の本能なのだろう。

「差別主義者がぁ…!また無自覚に人を傷つけやがって!恥を知れ!恥をっ!」

身動きできない私を好き放題殴りまくる短髪係員。

いくら華奢な女の拳でも無防備な場所に多数届くと効いてくる。

足なら動くが…蹴り返す?

駄目だ。

女性を蹴るなどと、そんなはしたない真似をするくらいなら殴られている方がましだ。

無理かもしれないが、私は話をしたい。

「ぐふっ…。ふう、ふう…あらゆる個性が尊重されるべきなら、彼を嫌悪する私の個性も尊重されるべきではないのですか?」

「お前はダメだよ。差別主義者だから。

多様性を認めない奴は殺されても仕方ないんだ」

多様性…猪の街でも聞いた言葉だ。

「私の個性は、私の考える当たり前の事実に基づくものです。あなた方の多様は、当たり前の事実より、言葉の意味より、物事の価値より優先される、と?」

「そうとも!

性の多様こそこの世で最も尊いものだ!

何を差し置いてでも守られるべきものだ!

性の不一致、性の迷い、そして同性愛!

これが許されない世界なんかクソだ!」

「性の多様が守られるべきものなら、男女が愛し合う異性愛も、異性愛に基づく私のような個性もまた守られるべきものではないのですか?」

「守るともさ。差別主義を捨てたらな!

人が人を好きになるのは自然な事で、どんな組み合わせでも平等なんだって認めたら仲間に入れてやるよ!」

「率直に言って、私にはあなた方が自ら傷つこうとしているようにしか思えません。

なぜ自分の体を素直に受け入れないのですか?あなたは自分を男と言うが、では男を愛する事はできないのですか?」

「てめぇは魔法で女の体にされたとしたら都合よく男好きになれるのか?」

「…なれそうにありません」

「そういう事だ。こっちは気づいた時にはもう自分の体じゃなくなってるんだ。

下手すりゃ生まれた時からだ。

気安く言うんじゃねえ!」

「すみません。

男を愛せないのかと問うた事は謝罪します。あなたの境遇を気の毒に思いもします。

どうか笑っていてほしいとも。

…ですが、その上で私はあなたに賛同できません。人間とは男と女であり、男女の異性愛をこそ第一に尊ぶべきだと考えます」

「古い価値観押しつけんな!」

「古い価値観ではありません。正しい価値観です。お聞きしますが、あなたはどうやってこの世に生を受けたのですか?」

「どうって…そりゃ親から生まれてきたんだろ」

「ご両親は、父と母、即ち男女の異性愛者ではありませんか?」

「…………」

係員は黙ってしまった。

返答が無いようなので話を続ける。

「こちらの係員さんだけではありません。

この場の全員、この世の全員、人の世を永らえさせてきた祖先達の全員が、男女から生まれてきたはずです。

これを当たり前と呼ばなければ、当たり前という言葉は意味を失ってしまいます。

異性愛が正義でないなら、あまねく人間は不正義の産物になってしまいます。

そんな無理筋の自虐こそ、他人に押しつけてはならないのではないですか?」

「代理出産だってある!

同性愛者だって両親になれるんだ!」

「代理は代理に過ぎない。同性の二人が両親になるとしたら、他人から子供を借りるなり奪うなりしているだけだ。違いますか?」

「屁理屈ばっか言いやがって!」

「ぐはっ」

再度拳。

彼女、いや彼は殴りながらでないと喋れないのだろうか?

そういう体質なのだとしても、どうして肝心な所ではぐらかすのか?

違うのかと問われているのだから、違うなら違うと理由を説明してくれればいいのに…。

最初の丁寧な対応は今やどこにも無い。

しかしそれは、私が話を辞めていい理由にはならない…はずだ…。

「同性愛に何らかの価値があるのだとしても、異性愛には同性愛と一線を画した偉業として扱われるべき理由があります。

人間を生むのは異性愛で、これが当たり前の事実であるという理由がです。

なのにあなたは、どんな組み合わせでも平等だと言う。性の多様こそ何を差し置いてでも守られるべきだと言う。あらゆる個性を尊重すべきだと…。

それは事実に従い子を生してきた親と祖先に対する冒涜です。

あなたの言う多様とは本当に必要な事、尊敬すべき価値をおとしめ、演出された疑似的な横並びを平等とうそぶく紛い物だ。

当たり前の正義から逃げる我が身可愛さだけで意味も価値も壊して省みないあなたは…あなたはっ…最低の卑怯者だっ…!」

絞り出すように語る。

誰かをこんなにけなすのは生まれて初めてだ。

しかし後悔は無い。

言わねばならなかったのだから。

私の両親を含む、全ての親達の尊厳を守るために。

「ぐほうっ」

もう係員は黙ったまま私を殴る事しかしなかった。

「あらゆる個性や価値観を尊重するという言葉は、この世から正義を消し去ってもいいという意味にはならないはずです…!」

なおも言葉を重ねていると、見かねた人垣からついに声があがる。

無論、それは私を救う内容ではなかった。

「係員さんよお、もう何言っても無駄だぜ、こいつ。人の話なんか全然聞いちゃいないんだもの」

「はあ、はあ…だな。

やっぱり差別主義者とは対話できねーわ。

人権意識が全く育ってない」

「んじゃ、いつも通り死刑だな」

「ああ、死刑だ」

さながら滝登りしてる気分だ。

取っ掛かりも足場も無い。

彼らは私の全てのアプローチを流し落とすための装置だった。

「死刑!死刑!死刑!」

私は縄でグルグル巻きにされ、斡旋所の外へ担ぎ出された。

広場に憩いを求めていた街の人々は何事かと驚いていたが、事情を聞くとすぐさま死刑コールの列に加わった。

同性愛者である彼らは、異性愛者…いや、異性愛信奉者の死が嬉しくてたまらないようだった。

熱狂していた。

まるでそれこそが自らの価値の証明であるかのように…。

あれよあれよと言う間に私は街の外まで運ばれていった。

「さて…どうする?」

担いでいた内の一人がつぶやくと同時に私は荒野に降ろされた。

たきぎの束でもここまで雑には扱われまいという荒さだったが、力一杯叩きつけられなかっただけありがたいと思う所なのかもしれない。

「そりゃ決まってる。

苦しい死に方をさせてやるのさ」

「あー聞き方が悪かったな、どの苦しいやつにする?」

多数決が始まった。

なるほど彼らは互いを尊重しあっている。

私から見れば、飽くまで内輪に向けられた尊重は寒々しい光景でしかなかったが。

「決まりだ。これからお前の両手両足をそれぞれ杭に縛りつける。当然、お前は逃げられない。水は飲めない。何も口にできない。

汗をかけば濡れた縄が余計きつくなる。

ま、せいぜい涼しくなるよう祈れや。

どぉうせ最後にはぁ?干からびて死ぬけどなァ!」

悪意たっぷりの抑揚で刑を宣告する係員。

負け惜しみかもしれないが、下品な勝ち誇りようには悔しさより哀れみが湧いてきた。

「これであなたの枕は高くなるのですか?」

「なんだ?その言い方は…俺が悪い事してるみたいじゃないか。

俺はただお前を縛って置き去りにするだけだぞ?死ぬのはそっちの勝手さ。責任転嫁すんなよな。…くっくく、はっはははは!!」

踏ん反り返って高笑いすると乳房まで小躍りしているように見える。

その胸に矢が突き刺さった。

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